<第五章、ご当地ミステリー>

 

   

ドイツでテレビ映画化された「ブルネッティ」シリーズ。

 

日本でも、観光地を舞台にし、その風物を散りばめた、「ご当地ミステリー」と呼ばれる推理小説がある。かつて山村美沙が京都を舞台にした推理小説を多数発表し、好評を博していた。それと同じ路線を行くのが、ドナ・レオンの「コミッサリオ・グイド・ブルネッティComissario Guido Brunetti(1)シリーズと、マグダレン・ナブの「マーシャル・サルバドーレ・ガルナシアMaresciallo Salvatore Guarnaccia(2)シリーズである。「ブルネッティ」シリーズはベニスを舞台に、「ガルナシア」シリーズはフィレンツェを舞台にしている。レオンはベニス在住のアメリカ人、ナブはフィレンツェ在住の英国人、両者とも英語で書いている。そして、両者とも「ご当地」の風物がふんだんに織り込まれ、主人公である警察官の私生活が丁寧に描きこまれている。

マグダレン・ナブは一九四七年、英国のランカシャー生まれ、美術と陶芸を学んだ後、一九七五年、更に陶芸を学ぶためにイタリアのフィレンツェに移り住んだ。彼女の家の近くに警察署があり、そこで警察官と雑談をすることにより、色々な犯罪について聞く機会を持った。ドナ・レオンは一九四二年、米国のニュージャージー生まれ、英語の講師、旅行ガイドで、イタリア、中国、イラン、サウジアラビアなどで働いたあと、一九八一年よりベニスに住み、米国空軍基地にある大学で、英文学の教授として働くようになった。

第一線への登場はナブが十年ほど早く、一九八一年に第一作「英国人の死(Death of an Englishman)」が出版されている。レオンの第一作「死のフェニーチェ劇場(Death at La Fenice)」は一九九二年の出版である。ナブは十四冊のシリーズを遺し、残念ながら二〇〇七年に六十歳で亡くなっている。ナブより五歳年長のレオンは健在である。それどころか、彼女の創作のペースは想像に絶するものがある。毎年一冊のペースで「ブルネッティ」シリーズを執筆、二〇一四年には実に二十三冊目が出版された。彼女は、一九四二年生まれであり、二〇一四年で七十四歳。しかし、その創作意欲は衰えていない。「ブルネッティ」シリーズは特にドイツで人気を博し、ほとんど全ての作品が、ドイツ人の俳優によりテレビ映画化されている。

ナブの描くガルナシア、レオンの描くブルネッティであるが、ともにシューヴァル・ヴァールーの開拓した手法を踏襲している。警察官である主人公の私生活が、実に丁寧に描写されている。家族、同僚、友人関係、風物、食生活に至るまで。また、徒労に終わる部分も含め、捜査の内容が丁寧に描かれている。そして、その時々の社会問題が織り込まれている。

ブルネッティもガルナシアも共に警察官であるが、違う組織に属している。信じられないことだが、イタリアには警察組織がふたつあるのである。ブルネッティは「ポリシア」文字通り「ポリス」に所属し、階級は「コミッサリオ/コミッサー」つまり警視である。それに対してガルナシアが属するのは「カラビニエリ」という警察組織である。これは「国防警察」、「機動隊」というような組織であり、階級も軍隊風になっている。事件に遭遇したとき、人々はどちらの警察に通報するのかと思ってしまう。小説を読む限り、両者が行っている業務に、それほど違いがあるとは思えない。どちらを選ぶかは「個人の趣味の問題」とまで、私のイタリア人の友人は言っていた。

ふたつのシリーズが、シューヴァル/ヴァールーからの伝統を守っていると書いたが、このふたつのシリーズが、「マルティン・ベック」シリーズや「クルト・ヴァランダー」シリーズと、決定的に違っている点がひとつある。それは、主人公の警察官が「円満な」家庭生活を送っていることである。ふたりとも妻との関係は良好で、子供たちにも問題はない。特に、ブルネッティは、大学の英文学の教授である妻パオラと、ふたりの子供たちに囲まれて、家庭的には極めて恵まれた人物として描かれている。妻はベニスの大富豪の一人娘である。ブルネッティやガルナシアの食生活は、ヴァランダーの「確実に病気になる」ファストフード、ジャンクフード中心の食事ではなく、妻が作った、毎回読んでいるだけで涎の出そうなイタリア料理である。ふたりとも、昼食のために一度家に戻る。そこでワインも昼食もたっぷりと楽しんだ後、午後の仕事に戻って行く。うらやましい限りである。

ナブの描くガルナシアは、太っていて汗っかきの中年、無口で他人には少し鈍重な印象を与えるが、人間味あふれる、好感の持てる人物である。物語の中で、「彼の武器は黙ること」とまで言われている。「自分が黙ることによって、相手を話させてしまう」というのが彼のテクニックなのである。彼は家ではいわゆる「粗大ごみ」扱いの亭主で

「わたしがこれから食事をテーブルに持っていこうとしているときに、あんたは陸に上がったクジラのようにどうしてよくゴロゴロしてられるわね。」

と、妻のテレサにいつもボロクソに言われている。この辺り、家で大学教授の妻と結構知的な会話をするブルネッティと比べるとかなり庶民的と言える。しかし、夫婦の仲は良い。

 ブルネッティも人情味と正義感に溢れた人物として描かれている。汚職と腐敗にまみれたイタリアの社会で、彼は正義を貫くために孤軍奮闘する。しかし、その結果、社会が何も変わらないことも彼はよく知っている。しかし、黙ってはいられないというのが彼の性格なのである。同時に彼は、相手から本音を聞きだす名手である。

「些細なことでもいいですからお話しください。」

という言葉から始め、彼は忍耐強く会話を通じて、事件解決への手がかりを見つけていく。その会話の多さに対して、「何も起こらない退屈な小説」という批評を読んだこともある。日本で翻訳が出ないのも、この特徴が影響しているものと思われる。レオンの小説は、各国語に翻訳されているが、唯一イタリア語だけには翻訳されていない。そこに少々のレオンの「恥じらい」が感じられる。

 毎年一冊を発刊し、それを二十三年続けるのであるから、「マンネリ化」は避けられない。と言うより、作者自体がそのマンネリ化を利用し、読者がそのマンネリ化を楽しんでいるように思える。ブルネッティの小説では、犯人は別として、その他は全く同じ登場人物が全く同じ役割を演じる。ブルネッティの相棒で良き相談相手である警察官のヴィアネロ、捜査の邪魔をするためにいる署長のパッタ、パッタの秘書でコンピューターの使い手のエレットラ、彼に助言と励ましを与える妻のパオラ。彼らは、吉本新喜劇で同じ役者がどの舞台でも同じ役柄で登場するのと似ている。その役者が舞台に登場した時点で、観客はその役者がどんな行動を取るのか予想がつく。どんなギャグを飛ばすのか想像がつく。そして、その予想は裏切られることはない。観客はしかしそれに満足する。観客、読者がマンネリズムを喜んでいる例であろう。

 特筆しておくべきなのが、ナブにしてもレオンにしても、フィレンツェやベニスの街を描写しているが、それが観光案内書的になっていないことである。「清濁併せ呑む」と言うが、美しい部分と同じくらい醜い部分も描かれている。そもそも、両方の街は、それほど清潔な場所ではない。しかし、ナブもレオンも視覚的な描写が見事であるだけではなく、教会から響く鐘の音も本当に聞いているような気にさせる。

 

多彩な文化的背景を持つペトロス・マルカリス。

 

 観光地を舞台にした、「ご当地ミステリー」として、もうひとつ挙げておきたいのが、ギリシアのアテネを舞台にした、ペトロス・マルカリス(Petros MarkarisΠέτρος Μάρκαρηςの「コスタス・カリトスKostas Charitos3シリーズである。主人公、コスタス・カリトスはアテネ警察の警視である。彼は一介の警察官から二十五年をかけて現在の位置に昇進した苦労人。現在は妻、アドリアニとふたりで暮らしているという設定になっている。ひとり娘のカタリーナは現在テサロニキの大学で法律を勉強中。教授に大学院への進学を勧められている。カリトスにとって、そんな娘は自慢の種である。しかし、薄給に加え、娘への仕送りで、暮らし向きは楽ではない。また、娘のボーイフレンドの、彼の目から見ると男らしさにかける性格も、不満の種である。ともかく、彼は娘がクリスマス休暇に帰省し、再会できるのを楽しみにしている。

 カリトスの変な趣味、それは「辞書」を読むことである。彼は何種類もの辞書を買い揃え、仕事を済ませ家に帰るやいなや、ベッドの上に腹ばいになりなり辞書を読み耽っている。そして、そんな楽しみを理解しない妻と、彼はいつも口論をしている。子供を送り出した、中年も後半にさしかかった夫婦の典型であろう。けんかをした後数日間は、ふたりは口を利かない。そして、妻が肉詰めトマトを作り、夫がそれを食べることにより和解するという奇妙な儀式が、ふたりの間にはある。そして、そこにはアテネだけではなく、ギリシアと風物が余すところなく描かれている。

 一九九五年から始まったこのシリーズを読み始めたとき、「ヴァランダー」シリーズを意識していないと言わせない、という確証があった。ヴァランダーが糖尿病なら、カリトスは狭心症である。二人とも、それが、食生活、運動不足から来るのが分かっていても、生活習慣を改められないところまで似ている。私が出版者ならば「ヴァランダーはアテネにもいた」というキャッチコピーを使うであろう。

 作者のペトロス・マルカリスは一九三七年、イスタンブール生まれ。アメリカ人の父と、ギリシア人の母を持ち、長くトルコ国籍を有し、ドイツで大学を出て、ギリシア語、トルコ語、ドイツ語で執筆している。彼はギリシアのテレビドラマの脚本などを手がけた後、一九九五年に最初の「コスタス・カリトス」を発表。それがベストセラーとなり、二〇一三年末現在までに八作を発表している。

 

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1「コミッサリオ・グイド・ブルネッティ(Comissario Guido Brunetti)」シリーズは以下の十四作が刊行されている。

·         「死のフェニーチェ劇場」Death at La Fenice (1992)

·         「異国に死す」Death in a Strange Country (1993)

·         「名前のないベニス人」The Anonymous Venetian (1994) aka Dressed for Death

·         「ベニス式の清算」A Venetian Reckoning (1995) aka Death and Judgment

·         「水位上昇」Acqua Alta (1996) aka Death in High Water

·         「死に絶えた信頼」The Death of Faith (1997) aka Quietly in Their Sleep

·         「高貴な輝き」A Noble Radiance (1997)

·         「死に至る治療」Fatal Remedies (1999)

·         「高い場所にいる友人」Friends in High Places (2000)

·         「苦難の海」A Sea of Troubles (2001)

·         「故意による行動」Willful Behaviour (2002)

·         「制服を着た正義」Uniform Justice (2003)

·         「学位の証明」Doctored Evidence (2004)

·         「血に塗られた石」Blood from a Stone (2005)

·         「暗いガラス越しに」Through a Glass, Darkly (2006)

·         「子供たちの受難」Suffer the Little Children (2007)

·         「夢の中の少女」The Girl of His Dreams (2008)

·         「顔にまつわる話」About Face (2009)

·         「信仰への疑問」A Question of Belief (2010)

·         「描かれた結論」Drawing Conclusions (2011)

·         「残忍な事柄」Beastly Things (2012)

·         「金の卵」The Golden Egg (2013)

·         「包まれて」By Its Cover (2014)

 

2「マーシャル・サルヴァトーレ・ガルナシア(Maresciallo Salvatore Guarnaccia)」シリーズは以下の十四作が刊行されている。

·         「英国人の死」Death of an Englishman (1981)

·         「オランダ人の死」Death of a Dutchman (1982)

·         「春に死す」Death in Springtime (1983)

·         「秋に死す」Death in Autumn (1985)

·         「マーシャルと殺人者」The Marshal and the Murderer (1987)

·         「マーシャルと狂女」The Marshal and the Madwoman (1988)

·         「マーシャル自身のケース」The Marshal's Own Case (1990)

·         「マーシャル報告書を書く」The Marshal Makes His Report (1991)

·         「トリーニ邸のマーシャル」The Marshal at the Villa Torrini (1993)

·         「フローレンスの怪物」The Monster of Florence (1996)

·         「血の資産」Property of Blood (1999)

·         「いくつかの苦い味」Some Bitter Taste (2002)

·         「無実」The Innocent (2005)

·         「ヴィタ・ノーヴァ」Vita Nuova (2008)

 

3「コスタス・カリトス(Kostas Charitos)」シリーズは以下の八作が刊行されている。

·         「深夜のニュース」Nυχτερινό δελτίο (1995)

·         「縄張り」Άμυνα ζώνης (1998)

·         「チェの自殺」Ο Τσε αυτοκτόνησε (2003)

·         「首謀者」Βασικός Μέτοχος (2006)

·         「以前、ずっと以前」Παλιά, πολύ παλιά (2008)

·         「返済すべき借金」Ληξιπρόθεσμα Δάνεια (2010)

·         「借金の清算」Περαίωση (2011)

·         「パン、生産、自由」Ψωμί, Παιδεία, Ελευθερία (2012)

 

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