<第四章、ヴァランダー以降>
マンケルの「ヴァランダー」シリーズが、シューヴァル/ヴァールーの「マルティン・ベック」シリーズに大きな影響を受けていることを前章で書いた。この章では、「ヴァランダー」シリーズが、その後の作家に与えた影響について述べたい。
ヨー・ネスベーの小説の中でも最も成功を収めた「雪だるま」。
マンケルの描くクルト・ヴァランダーは「一匹狼」、「はみ出し刑事」である。彼はしばしば、警察官としての常識や行動規範、上司の意向を無視して行動する。それは、物語の最後に彼の「単独行」として現れることが多いのであるが。その「はみ出し」度において最高と言えるのが、ノルウェーの作家ヨー・ネスベーの描くハリー・ホーレ(Harry Hole)であろう。(1)オスロ警察の刑事であるホーレは重度のアルコール中毒である。これはヴァランダーの信じ難い食生活から来る糖尿病よりもっとひどい。どの物語でも、一応最初はアルコール中毒を克服しているのだが、途中でストレスに耐えられなくなり、大酒を飲んでしまう。そうなると、もう完全に性格破綻者となり、ホームレスと一緒に公園で寝たりする。(「こうもり男」Flaggermusmannen 一九九七年における。)良く言えば「ハードボイルド」と呼ぶこともできるだろうが、やはり「性格破綻者」という方が近いと思われる。
ヨー・ネスベーは、ロック歌手という面白い職業を持っている。私はロックミュージックに詳しくないが、ノルウェーは伝統的に、有名なヘビー・メタル、パンク、ハードロックのバンドを輩出しているという。ネスベーの作風はなかなかユニークで、「ヒーローは死なない」という「お約束事」を破り、第一作の「こうもり男」では、ヒロインを殺したりしている。
日本では余り知られていないが、ノルウェーはヨーロッパでも一二を争う豊かな国である。それは一九七〇年代に北海油田が開発されたことによる。ネスベーは豊かな国の中の社会矛盾、富の分配に対する不公平感を描いている。BBCの番組でのインタビュー(2)で、彼は、
「金が社会を汚した。」
と、自分の国について述べている。
ヤン・ゼグハースで推理小説を発表するまでは、本名のマティアス・アルテンベルクで既に著名であった。
ヴァランダーの「伝統」を最も忠実に受け継いでいるのが、ドイツの作家ヤン・ゼクハース(Jan Seghers)の「ロベルト・マルターラー(Robert Marthaler)」シリーズであろう。(3)最初に読んだときは、フランクフルト警察の刑事ロベルト・マルターラーの設定が、余りにも「ヴァランダー」のそれと似ているのに驚いた。
まず人物設定。マルターラーもヴァランダーと同じく、太り始めた中年男。死別、離別の違いはあるものの、パートナーと別れ、「ウジの湧く男やもめ」である。体重の増加が気になり、突然スポーツを始めたりするが長続きはしない。時々大酒を飲む。ふたりともクラシック音楽のファンである。どちらのシリーズの中にも、警官である主人公の私生活が詳細に描かれる。マルターラーはかつての恋人を銀行強盗の巻き添えで亡くし、それで警官になろうと決意したことになっている。新しい恋人との出会い、彼女との行き違い等が詳しく語られている。これは、「ヴァランダー」で主人公の妻、父、娘、他の女性との関係が詳しく語られるのに似ている。
また、マルターラーとヴァランダーの、警察での地位や立場、捜査班の構成なども似ている。例えば、捜査班に若くて「やり手」の女性メンバーがいるところなど。マルターラーの捜査班の紅一点のケルステン・ヘンシェルと、ヴァランダーの同僚アン・ブリット・ヘグルンドは、年齢も、性格も、役割も、酷似している。また、マルターラーの上司のヘルマンは、トンチンカンな理由で捜査を妨害し、主人公を窮地に陥れる。ヴァランダーもそのようなボスを持っていた。更に「小さな矛盾、不自然さを見逃さず、そこを徹底的に究明する」という点、これはヴァランダーの手法と同じである。
出版社も「マルターラー」シリーズの設定が「ヴァランダー」の二番煎じだとの批判を受けることを予期したのだろう。それを逆手に取って、
「ヴァランダーの兄弟がドイツにいた。」(4)
という文句を本の背表紙に載せ、その類似性をかえって「売り」にしている。
舞台となっているフランクフルトは、第二次世界大戦中壊滅的に破壊されたこともあって、現在では、伝統豊かなドイツの町々の中では、これと言った特徴のない退屈な街という印象が強い。個人的には、買い物には便利だが、見るべき場所は少ないという印象。ヘニング・マンケルのヴァランダー・シリーズの舞台はスウェーデンの風光明媚なスコーネ地方。これらに比べると、明らかにフランクフルトは魅力に欠けると思われる。しかし、それなりに、その「特徴のない街の特徴」が、話の中に巧に織り込まれている。
テレビ映画化された「ファン・フェーテレン」シリーズで主人公を演じるスヴェン・ヴォルター。
スウェーデンの作家、ホカン・ネッサーの「ファン・フェーテレン(Van Veeteren)」シリーズもスウェーデンの推理小説の伝統を守っている。(5)
スウェーデンの推理小説が世界中の人々に愛される理由のひとつに、その「透明さ」、「中立性」があると思う。英国、ドイツ、フランス、イタリアなどの国に対しては、比較的容易に、その文化や食事、国民性などについて想像ができる。しかし、
「スウェーデンの文化、国民性の特徴を挙げよ。」
と言われても、これはかなり難しい。これはスウェーデンが単に「あまり知られていない国」という理由だけではない。スウェーデンの国、町、人自体が、何処の文化にも属さない、同時に誰もが共感できる中立性、透明さを持っているからだ。それが、スウェーデンの推理小説に登場する人物、事物、思考回路が万人に受け入れられる理由のひとつだと思われる。
その「中立性」、「透明さ」を極限まで追ったのがホカン・ネッサーである。彼の小説には「国」が登場しない。もちろん舞台となる国と町はある。しかし、それが架空の国、架空の町なのである。主人公の刑事、ファン・フェーテレンが住むのはマーダムという架空の町。そこは、北欧のような、オランダのような、ドイツのような、不思議な場所である。
主人公の刑事、ファン・フェーテレンは、ヴァランダーと同じく、非社交的な人物である。彼は五十歳を過ぎ、定年退職が既に眼中に入り始め、身体にガタも来始めた。永年連れ添った妻イレーネとは別居中、成人した息子は刑務所で服役中と、あまり幸せとは言えない私生活を送っている。警察での仕事にも嫌気が差し、違う職に就きたいと思いつつも、彼の能力を買っている上司のヒラーの説得により、何とか職に留まっている。常に爪楊枝をくわえ、それを噛み、時々吐き出すという癖がある。
彼の警察官としての基本方針は、
「どのような捜査においても、もうこれ以上の情報は必要としないという時点が来る。その時点では必要なものはそれ以上の情報ではなく、それを捜査の解決のために利用していく頭脳である。良い捜査チームは、その時点が何時であるかを知っている。」(「Borkmanns punkt (ボルクマンの定理)一九九三年」より)
と言うことである。ファン・フェーテレンはその時点が来たことを知るや、チームと離れ、単独行動を取り、捜査を解決へと導いていく。この辺りもヴァランダーと似ている。
彼の能力は優れた分析力と洞察力である。同僚よりも、常に一歩進んで物事を考えている。そのため、同僚に「何を考えているのか分からない」という印象を与える。しかし、その洞察力の鋭さ故に、彼は上司のヒラーを始め、同僚からの尊敬を得ている。しかし、彼自身、その同僚からの尊敬を誇りに思うどころか、むしろ迷惑に思っている。家庭的にそれほど順調であるとはいえない彼は、休暇でリラックスすることと、退職してもっとイージーな生活を送ることに恋焦がれているのだ。
彼自身は、自分の洞察力が特に優れていることを知っている。
「彼にはどうしても確信が持てなかった。十件のうち九件まで彼は確信が持てる。正直に言うならばその確率はもっと高いかも知れない。二十件のうち十九件まで、ファン・フェーテレンは容疑者が真犯人であるかどうかを知ることができた。どうして自分のそんな才能を隠す必要があるのだろうか。物事の中には常に、色々な方向を指している小さな『印』が無数にあるものだ。そして永年の経験により、彼はその『印』が何を意味しているかを学んできていた。」「目の粗い網(Det grovmaskiga nätet 一九九三年)」(32ページ)
また、主人公だけでなく、ストーリーにも共通点が伺える。「ボルクマンの定理」は、司法の網から漏れた悪人たちに、個人が天に代わって復讐するという、「ヴァランダー」シリーズでも出た筋書きである。
主人公と同じく、税務担当の弁護士であるオーサ・ラーソン。
スウェーデンの冬は長くて寒い。また、針葉樹の森が国土を覆っている。その「暗さ」がスウェーデンの推理小説の基調となっている。同時に、人が住んでいる部分が少なく、延々と森と湖が広がっている。
「スウェーデンで犯罪小説が発達したのは、死体を隠す場所が随所にあるから。」
とBBCの番組では述べられている。
暗い、寒いと言えば、スウェーデンの女性作家オーサ・ラーソン(Åsa Larsson)の「レベッカ・マルティンソン(Rebecka Martinsson)」シリーズに尽きる。(6)スウェーデンの最北の町キルナを舞台にしている。キルナは北極圏、ラップランドに属し、これ以上北に町はない。主人公のマルティンソンは、この町の出身ということになっている。ラーソンは、作家になる前に税理担当の弁護士であったが、主人公の女性、レベッカ・マルティンソンも同じ職業であるという設定である。
オーサ・ラーソンの作品を読むと、徹底的に男性社会を糾弾し、女性の肩を持っている。いかに女性作家と言えでも、そこまでするかという気がする。
作家以外にもジャーナリストとして多方面に活躍する、リザ・マークルンド。
女性作家による女性を主人公とした推理小説と言えば避けて通れないのが、リザ・マーククルンドの「アニカ・ベングツソン(Annika Bengtzon)」シリーズである。(7)作者、リザ・マークルンド(Liza Marklund)は、一九六二年生まれ、スウェーデンのジャーナリストであり作家である。彼女はコラムの執筆活動、ユニセフの大使などの多忙な仕事を抱えながら、十冊の「アニカ・ベングツソン」シリーズを発表している。
主人公のアニカは、小さな息子と娘を抱えた大衆紙の新聞記者。作者と同じく、多忙な生活を送っているという設定になっている。
女性の書いた小説だけあって、中心人物は皆女性で、男は添え物として出てくる程度に過ぎない。いくら女性が書いた小説とは言え、ここまで登場人物を女性で固めると、ちょっと「えげつなさ」を覚える。「ここまでしなくても」と思ってしまう。
ここでも、「ヴァランダー」シリーズと流れを汲む「お決まり」通り、主人公は家庭的な悩みを抱えている。「終身刑(Livstid)二〇〇七年」では、アニカは、火事で家を失い、小さな子供達と一緒に焼け出され、肝心の夫は愛人と家を出て、離婚を迫っている。おまけに自分は、放火の容疑を受けている。こうして散りばめられた、アニカを巡る悩みの数々によって、小説は現実感を得ている。
いよいよインターネットの時代に突入した頃の作品、主人公のアニカも、インターネットの「サーチエンジン」を駆使して、情報を得ていく。彼女自身は記者なので、警察のように捜査の際に収集した情報に自由にアクセスできないこともある。自然と、インターネットに頼るわけだ。
「ビンゴ!」
アニカは自分の期待した結果が検索の結果現れるとそう叫ぶ。インターネットと携帯電話は、推理小説の世界でも、避けて通れないアイテムになった。これらがないと、現実感が欠如してしまうというくらいに。
テレビ映画化の中でイレーネ・フスを演じる、アンゲラ・コヴァクス。長身で男勝りのキャラクター。
ヘレネ・トゥルステンの刑事「イレーネ・フス」シリーズも、女性作家の描く、女性警察官を主人公とした小説ということでは避けて通れない。(8)他の小説と最も異なる点は、イレーネは、理解のある料理の上手な夫と、ティーンエージャーのふたりの娘に囲まれ、「幸せな家庭生活を送っている」ことである。作者のヘレネ・トゥルステンは作家になるまでは歯科医をやっていたという変り種である。スウェーデンではストックホルムに次ぐ都会であるイエーテボリが舞台。主人公のフスは、柔道のヨーロッパチャンピオンであったという、長身で男勝りの女性である。
ヘルストレームとロスルンド。ヘルストレームは刑務所に入っていた経験がある。
事件の解決のためには、家庭も顧みず、昼夜を問わず捜査に没頭するヴァランダーは、ある意味では日本のサラリーマン的である。しかし、周囲はそんな働き方をしないので、ヴァランダーは妻からは見放され、同僚からは浮き上がってしまう。
そんな「仕事中毒の中年男」の刑事はヴァランダーだけではなかった。ロスルンド/ヘルストレーム(Anders Roslund & Börge Hellström)の「エヴェルト・グレンス(Ewert Grens)」シリーズ(9)に登場する老刑事が、ヴァランダーの伝統を受け継いでいる。
エヴェルト・グレンス、定年を数年後に控えた警視である。独身。オフィスに寝泊りし、ろくにシャワーも浴びていない。臭いそうな人物である。警察署内の自動販売機で買ったジャンクフードで命をつないでいる。同僚には「他人の迷惑を顧みず」深夜であろうが電話をかけまくる。いつも自分のオフィスで、女性歌手シヴ・マルムクヴィスト(Siw Malmkvist)(10)の曲を大音量でかけている。聴くだけではなくそれに合わせて踊っている。何故彼が今も独身で、シヴの曲を好むかには理由がある。その過去の出来事がシリーズを読み進む間に、だんだんと明らかになっていく。
彼は二十五年前に買ったカセットレコーダーでその曲を聴いている。しかし、毎日使っているカセットレコーダーが、二十五年も持つものなのか。ダン・ブラウン(Dan Brown)の「ダヴィンチ・コード(The Da Vinci Code)」(11)の主人公は、同じく二十数年前に買ったミッキーマウスの腕時計を使っていたが、どうもその設定には無理があるようで、ひっかかる。細かいことであるが。
ともかく、グレンスが一度シヴの曲をかけ始めると、その曲が終わるまで、絶対に中断してはいけないという不文律が、彼の周りの人間にある。誰かが演奏中のカセットを止めると、グレンスは例えそれが上司でも怒り狂う。
グレンスと対象的に描かれているのが、部下のスヴェン・スンドクヴィストである。彼は事件の為に、幼い息子と約束していた誕生日をパーティーのために帰宅することができなかったことを悔やみ、約束を守れなかった自分を恥じる。彼は家族思いの父親である。スヴェンは、「家族、家庭」とは一切縁のないように振舞っているグレンスと対極をなしている。スンドクヴィストは常に自分の職務に疑問を持っている。その行動は「ヴァランダー」シリーズのマルティンソンや「マルティン・ベック」のコルベリと似ている。
さて、グレンスが独身を通している理由だが、二十五年前、グレンは同僚のベングトと同僚であり愛人であったアニとで、被疑者を護送中であった。被疑者はアニを護送車から突き落とし逃亡を図る。その事故が元で、アニは植物人間となってしまう。今もグレンスは病院にアニを訪れ、彼女と二人で聴いたシヴの歌をかけている。
グレンスの捜査方法は、一言で表現すると「やりたい放題」。やたら私情を持ち込む。また、彼は、スコーネ地方から病気の警官の臨時補充として来た、若い女性警察官にアニの面影を見つけ、彼女を自分の部下にしようと画策する。この点は、気持ちは分かるが、「公私混同」。ともかく、グレンスは、「仕事に私情を持ち込んでしまう男」として描かれている。
ロスルンド/ヘルストレームの小説はどれも刑務所が登場する。そして、囚人同士の会話など、その描写が実に生々しい。それもそのはず、ヘルストレームは服役の経験がある。スウェーデンの安部譲二というところか。どの作品も、単に謎解きに終わらず、社会的な問題を深くえぐっていて、読者に疑問を投げかける。典型的なものが、加害者が別の犯罪の被害者であるという構図。加害者をそのまま罰してよいものかと、考えさせられるものがある。
このように、シューヴァル/ヴァールーが種を撒き、マンケルが育てた木が、今実をつけていると言える。
***
(1)
「ハリー・ホーレ」シリーズは、二〇一三年末現在、以下が出版されている。
l 「こうもり男」Flaggermusmannen (1997)
l 「ごきぶり」Kakerlakkene (1998)
l 「ロビン」Rødstrupe (2000)
l 「心配なし」Sorgenfri (2002)
l 「悪夢」Marekors (2003)
l 「救世主」Frelseren (2005)
l 「雪だるま」Snømannen (2007)
l 「豹」Panserhjerte (2009)
l 「幽霊」Gjenferd (2011)
l 「警察」Politi (2013)
(2)
Nordic Noir, The Story of
Scandinavian Crime Fiction, BBC Four, Time Shift, 21:00-22:00, 21 August 2011
(3)
「ロベルト・マルターラー」シリーズは、二〇一三年末現在、以下が出版されている。
l
「美しすぎる少女」Ein allzu schönes Mädchen (2004)
l
「雪の中の花嫁」Die Braut
im Schnee (2005)
l
「死の楽譜」Partitur des Todes (2008)
l
「ローゼンヘルツのファイル」Die Akte
Rosenherz (2010)
(4)
Jan Seghers, Ein allzu schönes Mädchen,
RORORO Taschenbuch, 2007 (ドイツ)
(5)
「ファン・フェーテレン」シリーズは、二〇一三年末現在、以下が出版されている。
l 「目の粗い網」Det
grovmaskiga nätet (1993)
l 「ボルクマンの定理」Borkmanns punkt (1994)
l 「帰還」Återkomsten (1995)
l 「痣のある女」 Kvinna med födelsemärke (1996)
l 「警視と沈黙」 Kommissarien och tystnaden (1997)
l 「ミュンスター事件」 Münsters fall (1998)
l 「跳ね返り」Carambole (1999)
l 「エヴァ・モレノ事件」Ewa Morenos fall (2000)
l 「つばめ、猫、薔薇、死」Svalan, katten, rosen, döden
(2001)
l 「ファイルG」 Fallet G (2003)
(6)
「レベッカ・マルティンソン」シリーズは、二〇一三年末現在、以下が出版されている。
l 「太陽嵐」 Solstorm (2003)
l 「飛び散った血」Det
blod som spillts (2004)
l 「黒い径」 Svart stig (2006)
l 「汝の怒りは過去に尋ねるまで」Till dess din vrede upphör (2008)
l 「モレクへ」 Till offer åt Molok; English translation (2011)
(7)
「アニカ・ベングツソン」シリーズは、二〇一三年末現在、以下が出版されている。
l 「ボンバー」Sprängaren (1998)
l 「スタジオ・セックス」Studio sex (1999)
l 「パラダイス」Paradiset (2000)
l 「プライム・タイム」Prime Time (2002)
l 「赤い狼」Den Röda Vargen
(2003)
l 「ノーベルの遺書」Nobels testamente (2006)
l 「終身刑」Livstid (2007)
l 「陽のあたる場所」En plats i solen
(2008)
l 「古き自由な北の国」Du gamla, du fria
(2011) スウェーデン国歌である。
l 「幸せな通り」Lyckliga gatan
(2013)
(8)
「イレーネ・フス」シリーズは、二〇一三年末現在、以下が出版されている。
l 「壊された唐の馬」 Den krossade tanghästen (1998)
l 「夜の巡回」Nattrond (1999)
l 「刺青のある胴」Tatuerad torso (1999)
l 「冷たい殺人」Kallt mord (2002)
l 「ガラスの悪魔」Glasdjävulen (2002)
l 「金の子牛」Guldkalven (2004)
l 「火の踊り」Eldsdansen (2005)
l 「小さな顔の男」En man med litet ansikte (2007)
l 「陰湿なオンライン」Det lömska nätet (2008)
l 「暗闇で目を覚ます者」Den som vakar i mörkret
(2010)
(9)
「エヴェルト・グレンス」シリーズは、二〇一三年末現在、以下が出版されている。
l 「野獣」Odjuret (2004)
l 「コインロッカー二十一番」Box 21 (2005)
l 「エドヴァルド・フィニガンの矯正」Edward Finnigans upprättelse (2006)
l 「道路の下の女」Flickan under gatan (2007)
l 「三秒」Tre sekunder
(2009)
l 「ふたりの兵士」Två soldater (2012)
(10)
シヴ・マルムクヴィスト(Siw Malmkvist)
一九三六年生まれのスウェーデンのポピュラー音楽の歌手。特にドイツで人気があり、一九六〇年代にドイツでヒットチャートの第一位になったこともある。
(11)
ダン・ブラウン(Dan Brown)
米国の作家。第四作目となった「ダ・ヴィンチ・コード」は世界的なベストセラーになると共に、その聖書解釈から論議を醸し出した。