第十九章:そして彼らは死ぬまで幸せに生きた(幸せとは何か)

 

 

過去五世紀、次々と革命的なことが起きた。経済が発展し、多くの人々は「贅沢」を享受できるようになった。しかし、人類はその結果「幸せ」になったのだろうか。そもそも、認知革命がホモサピエンスを幸せにしたのだろうか。農業、都市、文字、貨幣などの発見、発達は、人類の「幸福度」において、どんな意味があったのだろうか。

科学者、歴史学者、考古学者たちは、「幸せ」、「幸福度」に関して興味がない。しかし、結果的に「幸せになったのか」という問いには、答えなくてはならない。ところが、「幸せ」の定義はとても難しい。国粋主義者、共産主義者など、イデオロギーによって、幸せの定義が異なる。各々のイデオロギーを持った者が、各々の幸せについて語る。これは科学的と言えるだろうか。また「植民地時代の方が幸せだった」という人が現れるかも知れない。誰も、幸せという観点から歴史を見ないのには、それなりの理由があるのかも知れない。つまり、科学的な拠り所がないからだ。

「人間は能力を磨き、それにより『幸せ』を追い求めてきた。」という主張がなされる。そうすると、過去よりも今の方が幸せであるはずだ。しかし、人類の進化や発展が、必ずしも「幸せ」をもたらしてきたわけではない。農業革命という名の「発展」によって、農民は長時間働くことになった。また、西洋文明から見て「幸せ」なことであっても、それが、アフリカ人、アボリジニー、米大陸の原住民にとっても、「幸せ」であるとは限らない。むしろ、不幸な出来事として捉えられることが多い。

「文明は人類に不幸をもたらした」という、文明批評家もいる。彼らの論点は、「人々は自然にそむく生き方をして、その結果自然から乖離してしまった。」ということになる。しかし、「自然にそむく生き方」が、必ずしも悪いことばかりではない。例えば、医学の発達による乳児死亡率の低下は、「幸せ」な事象として捉えて間違いないだろう。そして、結果はともかく、人類は、「幸せ」になろうとして、その能力を磨いてきたのだ。戦争が減っていることが、ひとつの証拠に挙げられるかもしれない。戦争の減少については、短時間の観察にすぎず、まだまだ楽観はできないが。また、あくまで、西洋人の目から見た判断にすぎないが。

ホモサピエンスは環境の均衡を破った。今や、ホモサピエンスだけが栄え、他の種は滅亡への道を歩んでいる。他の動物の犠牲の上に人類の繁栄が成り立っている。これは大きな犯罪と言える。

幸福は物質的なものと関係があるのだろうか。例えば健康、栄養、福祉など。確かに、健康になり、裕福になるほど、幸福度が増していきそうな気がする。しかし、昔から多くの人が、幸せは、社会的、精神的、倫理的なものであると言っている。科学者は、幸福度を測れないかと考えた。本来主観的であるものを、何とか客観的に測定する方法を見つけ出そうとした。考えられたものが、質問にゼロから十までで答えるというアンケートだ。年収五万ユーロ以上のグループと、年収十万ユーロ以上のグループに実施された。

その結果、金はある程度までは人々を幸福にするという結果が得られた。また、病気は、短期的には幸福度に影響を与えるが、長期的ではないということも判明した。また、家族や社会的なつながりが、金や健康より、幸福度に影響を与えることも分かった。特に、結婚は大切な要因であった。幸せな結婚は、明らかに幸福度と関連があった。「貧しくても、病気でも、愛に満ちた家族を持っている人は幸福度が高い」ということになる。

産業革命は、生活を豊かにしたが、家族、コミュニティーの関係を疎遠にした。その結果、人々は孤独な社会で生きていくことになった。しかし、「幸せ」が最も依存するのは、人間関係だったのである。「幸福度」は同時に「期待度」にも依存する。「期待」に対する「満足度」と言ってもいい。「期待」の役割は「満足度」の効果を高めることにある。例えば、鎮痛剤の発達により、人の感じる痛みは以前より和らいだ。しかし、人々は、それ以上の効果を期待するようになってしまった。同じ鎮痛剤の効果でも、時代により満足度が異なるのである。

もし、過去に幸せな人がいたとして、その人と同じようにすれば「幸せ」を感じることができるのだろうか。否である。中世の人は、何週間もシャワーを浴びなくても、身体が臭くても、何とも思わなかった。定期的に身体を洗うことを期待していなかったからである。現代では、その「期待」を高めるために、マスメディアや広告が大きな役割を果たしている。また、「外の世界」について知ることが、期待に大きく関係している。例えば、第三世界の人々の不満は、マスメディアなどを通じて入ってくる、先進国の状況と比較してのことが多い。エジプトのムバラク大統領の下で死んだ人間の数は、かつてファラオの下で死んだ人間の数よりはるかに少ない。しかし、ムバラク政権は西側先進国の状況を知った民衆によって倒された。

将来、老化を止め、死を乗り越える薬ができたとする。その場合は怒りと不安が起きるであろう。「金持ちも貧乏人も死んだら同じだ」という貧しい人の論理が成り立たなくなる。また「事故でしか死ねない」というのも一種の恐怖である。

社会学者が、主観的な幸福感についてアンケートを実施した。そして、その結果を生物学的な調査結果と比べてみた。生物学的な「幸福感」とは、ある種のホルモンが血液中に出ることによって感じられるものだ。

進化が人間の幸福感を左右する。進化は、生き延びるために、子孫を残すために、注力した結果である。ホモサピエンスの雄は、雌と交わって子孫を残すことに幸福感を覚えるようになっている。しかし、同時に、その欲求が余りにも強く、そのことだけに耽らないように、調整されている。その結果、一時的な幸福と不幸が繰り返され、ある一定のレベルに保たれているのである。

同じ温度でエアコンをかけても、「暑い」と感じる人と、「寒い」と感じる人がいるように、幸福のレベル設定も人によって違う。生物学的に言うと、そのレベルが高めに設定されている人と、低めに設定されている人がいる。どの社会でも、いつも楽しそうな人と、いつも文句ばかり言っている人がいるのはそのせいだ。

どうして、心理学的に見ても、また社会学的に見ても、結婚している人間は幸福度が高いのだろうか。ここで原因と結果を取り違えてはいけない。結婚している人たちが幸せなのであって、結婚がその人たちを幸せにしたわけではない。幸せが結婚をもたらしてことも考えられる。つまり、幸せな人は、パートナーを見つける可能性が高いということだ。

生物学者は、幸福をホルモンなどの化学物質と結びつけ、精神的、社会的な要素を排除しようとしている。生物学者の意見が百パーセント正しいなら、歴史は、化学物質の量に影響しないので、幸福については影響力がないということになる。

フランスにおいて、家畜と一緒に住む中世の農民と、シャンゼリゼのペントハウスに住む現代の株のトレーダーではどちらが幸せだろうか。多くの人が、現代のトレーダーというだろう。幸せは脳で作られるのである。そして、脳はセロトニンのレベルだけを知っている。脳はペントハウスや家畜小屋のことは知らないので、もしふたりのセロトニンの量が同じなら、ふたり同じだけ幸せであると言える。フランス革命で王政が廃され、民主制になっても、それらは化学物質とは関係ない。外部的な要因が、セロトニンの量に関係しないことが分かったら。その物質を増やす努力をすればよいのである。幸福は、内部から作られるものなのだ。薬品業界は、その化学物質を増やすための研究をしている。

しかし、全ての科学者が、幸せが化学物質の作用であると考えているわけではない。ノーベル賞を受賞した、ダニエル・カーネマンは、人々が幸せと感じる一瞬一瞬を、一つずつ数えた。その結果、幸せは個々の体験の積み重ねでなく、全体で決まることを発見した。例えば、子供を持つと、ひとつひとつ数えたら大変なことが多い。しかし、子供を持つことに、人々は幸せを感じる。どのような文化に住む人も、喜びと悲しみを持つ。それに対して、人々は違った意義を見つけるのである。そこに満足感を見つけることを出来る人が幸せなのだ。例えば、中世の農民は、一瞬一瞬は大変だが、人生に対する満足度は高かったかも知れない。たとえ、「死んだら天国に行ける」と信じていたからにせよ。これは、科学的には解明できないことだ。

なぜ、人間は満足感を得られるか。我々の人生は、元々幻想に基づいている。ヒューマニズム、資本主義、科学でさえ幻想にすぎない。人は、周囲にいる、同じ考えを持つ、同じ幻想を持つ人と交わることにより、満足感を覚える。

もし、幸せが化学物質によるものであれば、その量を操作すればよい。また、人生の意義によるものなら、その幻想を作ればよい。もし、幸せが主観的なものであれば、それを知るために尋ねればよい。例えば民主主義の基本である選挙。自立している個人に、何をすれば幸福になるか、尋ね、判断させればよい。このような社会に育つと、幸せは主観的なものであるという考えが根付きやすい。

しかし、宗教では、善悪の客観的な基準が存在すると言っている。パウロとアウグスティヌスは、「人間は誘惑に弱く、祈りよりセックスを好む」と言っている。しかし、セックスをすると幸せになるか。また、幸せになるためにヘロインを吸うことがどうして悪いことだと思われるのか。人間の主観に任せることは賢い選択ではないと言う人もいる。例えばダーウィン。人類は、他の種と同じように、生き延びていくための選択を繰り返す。それが、必ずしも、幸せな道であるとは限らないと、彼は述べている。

仏教は少し違う。幸福の起源を追い求めている。現代の科学者の多くが、仏教の考え方に注目している。仏教では、幸福は主観的なものではないという。人々は「快感」と「幸福」を取り違えている。快感があっても幸せではない。なぜなら、人々はもっと大きな快感を求めようとするからだ。ありもしない幸福を探し続けること、それが苦しみの原因になるという。主観的な「幸せ探し」を止めるところから、心の平安が始まる。幸せを探すことは、海辺に立って、「良い波」、「悪い波」が来るのを待っているようなものだと、仏教は教える。ニューエージャーの「幸せは内面から来る」という考えの、正反対である。

幸福度のアンケートそのものが、「幸せは主観的なもの」という前提に立っている。また、幸せを追求することは、ある感情的な状態を追求することになる。それに対して仏教は、特定の感情を追求することが自体が、苦しみ、怒りにつながるという。

文明の発達により、人間は自分を以前よりよく認識できるようになったのだろうか。歴史的な事実については多くが語られるが、それに関する「幸福」に対しては、殆ど語られていないのは、どうしたわけなのか。

 

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