第十八章:永久の革命(家族から国家へ)

 

 

産業革命は、エネルギーの転換と、商品の大量生産を可能にし、人間を自然環境から解き放った。人類が活動範囲を広げるにつれ、その他の多くの種が絶滅に追いやられた。現在、七十億の人間が地球上に住んでいる。その総重量は三億トンである。家畜の総重量は七億トン。野生動物の総重量は一億トンに過ぎない。ホモサピエンスは地球を征服したが、資源の枯渇と、環境破壊が、世界の終りの原因になりそうな気配がする。最大の環境破壊は、二酸化炭素の増加により地球温暖化である。海面の上昇、自然災害の増加などで、人類の存亡が脅かされている。それを抑えようとしても、いろいろな副作用が待っている。自然破壊は、これまで地球に常に存在した「変化」であると言えるかもしれない。恐竜の絶滅などがその例である。人類が滅んでも、その後、ネズミやゴキブリの時代が来るかもしれない。

一七〇〇年当時の人口は七億人だった。一八〇〇年は九億五千万人、一九〇〇年は十六億人、二〇〇〇年には六十億人になった。産業革命以降、爆発的に人口が増えている。人々は昔、年、日単位で生きていた。正確な時刻は必要なかった。しかし、産業革命以降、人々は秒単位での生活をしている。昔は、今年が何年か知る必要がなかった。誰かがタイムスリップをして、「今は何年だ」と聞いても、答えられる人はほとんどいなかったろう。

昔の靴屋は、全部一人で作った。他人との協調は必要なかった。しかし、現代では、靴作りは流れ作業による分業制である。他人との協調が必要になってくる。時間に基づいた計画を立て、皆がそれを基に作業しなければいけない。産業革命は、時間という概念と、ベルトコンベアをもたらした。人々は時間に縛られて行動するようになった。

交通機関の発達が、時間に縛られた生活に輪をかけた。英国ではかつて、各都市で別の時間を持っていた。ロンドンとマンチェスターでは、時間が違ったのである。しかし、鉄道に発達により、それでは不便になった。その結果、全ての地域が「グリニッジ標準時」を使わねばならないという、法律が出来た。その「グリニッジ標準時」は、後に世界基準となる。

その後、ラジオ、テレビの開始が追い打ちをかけた。人々は正確な時刻を知ることができるようになる。今でも、時報は重要な情報となっている。皆が時計を持ち歩くことになった。アッシリア、ペルシア、インカでは時刻がなかった。今では、全ての人々が時間に縛られている。

産業革命は、人類に大きな変化をもたらした。その中の最も大きな点は、家族とコミュニティーの役割が、国家にとって代わられたことである。

産業革命以前の人間の日常は、狭い意味での家族、拡張された家族(つまり親族)、狭いコミュニティー(地域共同体)で形成されていた。家族の経営する企業で働き、家族が病院、保険、銀行などの役割も兼ねていた。家族で手に負えない場合があると、コミュニティーが口を出した。全てが「ギブ・アンド・テイク」の社会で、皆が無料で助け合っていた。領主は、租税や労役を求める代わりに、安全を保障していた。市場で扱われる商品はごくわずか。領主は、領民を戦争や労役に駆り出したが、専任の兵士や、公務員を雇うほどの財政的な余裕がなかったからだ。自治が認められ、犯罪者は、血縁者により処罰され、領主もそれを認めていた。中国の明の時代には、地域全体の租税の量だけが中央で決められ、誰からどれだけ税を徴収するかは、その土地に委ねられていて、中央政府の負担は軽くなった。王や帝国は、ヤクザの「みかじめ料」のように、安全を保障することを条件に税を取り立てた。家族との生活は必ずしも幸福で安全なものとは限らなかったが、それ以外の選択はなかった。家族、コミュニティーから締め出されることは死を意味した。政府などからの助けは全く期待できず、男なら兵士になるか、女なら娼婦になるしか道はなかった。

しかし、ここ三百年の間に、家族中心の社会は大きく変わった。交通が発達し、人々の行き来が頻繁になった。また、官吏、教職、警察などの制度が出来上がった。しかし、旧態依然の社会は依然として存在した。コミュニティーは急速には崩壊しなかった。それで、中央集権を進めたい政府はそれをやめさせ、自分の意見を聞かせるように、色々と手を打った。まず、自治権を奪うために、政府による裁判権を発動させた。「自由な人間になれる、誰とでも結婚できる、どんな職業にも就ける」というキャンペーンを行った。「国家と市場こそが人間の父であり母である。市場は人間に職を与え、国家は人間の安全を保障する」と叫ばれた。教育、医療、社会保障、警察などの制度が作られ、他の家族のメンバーの助けなしで生きられる社会が作られた。かつては男性社会の従属物と考えられていた女性が、個人としてその権利を認められるようになった。

個人主義が、家族とコミュニティーを弱体化させ、国家と市場の役割を強化した。それに伴い、国家が、個人の生活に介入してくるようになった。国家と個人の間は、相互関係であるはずだったが、いつしか、国家は多くを要求するが何もしない存在、個人を抑えつける存在になっていった。これら全ては、ここ二百年の間に確立した。生活の核となる家族は、国家と市場に浸食され、今では完全に取って代わられた。

それまでは、子供をどう育てるかは、家庭に任されていた。現在では、ここでも国家が干渉している。子供を学校にやらないと、親が罪に問われる。また、昔は容認されていた体罰も、現在では国家が禁じている。両親の権限は弱体化している。

と言っても、ホモサピエンスは元々群れを作って生きる動物である。そう簡単には家族やコミュニティーはなくならない。人間には帰属感が本能的に必要なのだ。そこで、失われたコミュニティーを埋めるために、「作られたコミュニティー」が現れる。祖国、宗教などがそれに当たる。また、「消費者」というのも、ひとつのコミュニティーかも知れない。しかし、これらの「作られたコミュニティー」は想像の産物にすぎず、その中に帰属する人々は互いに顔を知らない。

祖国にしても、かつては、ニュルンベルクに住む人は、自分がドイツ人で、ドイツという祖国に属しているとは、誰も考えていなかった。祖国に対する帰属意識が芽生えるのは、産業革命の後である。そもそも、国という概念も、中東やアフリカでは、植民地時代に、支配している国が、支配しやすいように、線を引いたにすぎない。確かに、民族的な背景も、一部は存在していたかもしれないが、今ではそれは国家の存続意義のために、利用されているにすぎない。最近、国家を越えたコミュニティーが出現している。例えば「レディー・ガガ」のファンクラブ、「バイエルン・ミュンヘン」のファンクラブ、菜食者のコミュニティーである。

産業革命以来、二百年間の変化は大きかった。それまでの伝統的なコミュニティーもそれにストップをかけられなかった。産業革命以前は、社会秩序が厳然として存在し、それを変えようとする者は少なかった。しかし、それはここ二百年で急速に変化している。今。我々は、永続する変化、革命の中にいると言える。そして、そのスピードはどんどん速くなっている。

現代社会の特徴を表すことは、カメレオンの色について語るようなものである。語順年前の物は、ほとんど全て古くなっている。社会秩序もどんどん変わっており、唯一「変化」だけが変わらないとも言える。政党などの指導的役割の者も、秩序を打ち壊し、新しい秩序を作ろうと説いている。それは保守党にさえ当てはまる。

プレートの動きが、地震や火山噴火を引き起こすように、急速な変化は時として「爆発」を引き起こす。それは、戦争、虐待、革命、世界大戦、ホロコーストなどである。しかし、その間には平和な時期もあった。第二次世界大戦後は比較的平和な時代かもしれない。プレートは動いているのに、火山は大噴火していない。ニュースは局地的な戦争やテロを伝えるが、悪いニュースはすぐに大々的に伝わるものだ。これまで争いの絶えなかった、インドやブラジルでも平和が続いている。

二〇〇〇年、三十一万人が自然災害で亡くなった。また五十一万人が暴力や犯罪で亡くなっている。これは、死亡者全体の一点五パーセントにすぎない。これは自殺者より少ない。かつては、十五パーセントの死が、他人とのいさかいによるものだった。今は、ほぼ世界中の国を、安心して旅行できる。殆どの国で、子供たちは暴力や虐待の心配なく育ち、女性は夫の暴力から守られている。この暴力の減少は、国家の発展によるところが大きい。これまで、家族やコミュニティーが守っていたことを、国家が肩代わりしている。

現在は、十万人につき九人が殺されている。その殆どが、ソマリアやコロンビアなど政府そのものが存在しない国である。しかし、四百年前には、十万人中四百人が殺されていた。殺された人の数が目立って減ったのは、一九四五年以降である。戦争が終結、帝国主義侵略もほぼ終わり、国際間の紛争も、ほぼ平和的に、外交的に解決されるようになった。大英帝国の植民地はほぼ返還され、それも平和的に行われた。ベトナムやアルジェリアで戦争が起こり、多くの人命が失われたが、それもフランスの撤退後の事件であった。驚くべきことは、ソビエト連邦の解体が、平和的に行われたことである。ソ連は解体されたが、戦争に敗れたわけではない。共産主義の終焉が、さらに人類に平和をもたらした。もし、あのときゴルバチョフが別の行動を撮ったら、と考えると恐ろしくなる。

帝国の後を継いだ国々は、あまり戦争に興味を持たなくなっていった。一九四五年以降、侵略戦争はほとんど起こっていない。アフガニスタンなどの例外はあるが、宗教戦争も起こっていない。南米でも、ここ百年間は国と国の戦争が終わっていない。中東でも、イラクのクウェート侵攻以外、大きな動きはない。アフリカにおいても、内戦はあるが、他国への侵略はない。これまで、一時的に平和な時期はあったが、現在はその時期と一線を画していると考えられる。

現代は、戦争を考えにくい時代になっている。何故だろうか。科学者たちは、その原因を見つけようとしている。そのひとつが、戦争は金に見合わないものになっているという点を挙げる人が多い。原子爆弾を発明したオッペンハイマーがノーベル平和賞を貰った。考えるとおかしな話だが、核兵器が、戦争の抑止力になっていることは確かである。現在戦争をしても、勝者はいない。また、他国を侵略、占領しても得る物は少ない。例えば、ある国が、米国のシリコンバレーを占領したとする。しかし、そのときには、人的な資源はほとんど国外に逃げているだろうし、占領は殆ど意味を持たない。今の時代、貿易を通じて、「経済戦争」に勝つ方が、費用対効果がはるかに大きい。また、「戦争は悪」というという理念が政治に確立していることが大きい。これまでは「戦争は必要悪」と考えられていた。また、どの国も、一国では生きていけなくなっていることが大きい。このように「貿易の発展」、「平和主義」、「核兵器の抑止力」で戦争の危機は遠のきつつある。この動きは、世界規模での「帝国主義」と言える。世界がひとつとなり、戦争の勃発を抑えているのだ。

 

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