第十五章:科学と世界帝国(科学の最大のスポンサーは誰?)

 

 

十八世紀の後半、太陽との距離を測るために、科学者たちが、水星の太陽面通過を世界各地で精密に観測しようとした。そのため、ヨーロッパから調査団が、世界各地に派遣された。英国から西太平洋に派遣される船の船長に、ジェームス・クックが任命された。クックは、当時船乗りの間で問題になっていた壊血病の研究結果に注目し、ビタミンCを摂ることで、最初に壊血病を予防した人物である。彼は、一七六八年に出港して、一七七一年に帰国した。クックは航海の間に発見した島々を、片端から英国領とした。その中に、タスマニアもある。タスマニアは一万年間、外部との接触なしに暮らしていた。そこに、クックが到着。多くの原住民が殺された。元々、クックの航海は科学のためである。しかし、同時に軍隊が乗船しており、征服も行った。当時、科学と帝国主義は、表裏一体であったのだ。

十八世紀、小さな島国、英国は、南半球をほぼ占領した。ローマ人でさえ、興味を持たなかった国だった英国は、十五世紀から、軍事、政治、経済、文化に発展を見せた。それまでアジアにも大帝国はあった。オスマン帝国、ムガール帝国、明、清などである。一七七五年当時は、アジアが世界経済の八十パーセントを握っていた。しかし、一七五〇年から一八五〇年の間に、世界の中心はアジアからヨーロッパに移った。一九五〇年では、世界の半分の人々が、アメリカとヨーロッパに支配され、人々はヨーロッパ的な生活を送るようになった。また、経済も、ヨーロッパ式が取り入れられている。

では、何故、ヨーロッパが世界を支配できたのだろうか。それは、軍事、工業、科学の共同体が出来たからである。スポンサーの投資により数々の発明がなされ、それによる利益が更なる投資として科学に還元された。最初は軍事が牽引したが、そのうち、民需でも国を強くした。医療、交通機関等の発達である。

しかし、一八五〇年前後で、まだヨーロッパとアジアの間に差はなかった。どうして、その後、ヨーロッパは急速に発展できたのだろうか。最初産業革命が英国で起こったが、どうして、米国、ドイツ、フランスなどの国はそれに追随できたのに、中国やトルコやペルシアでは、それをまねることができなかったのだろうか。そこに欠けていたのは、価値観と神話である。司法制度、政治制度、社会制度など、ヨーロッパが何百年もかけて培った土壌があったからこそ、産業革命が可能になったのだ。ドイツやフランス、米国には、英国と同じようなシステムと価値観があった。ヨーロッパは一五〇〇年ごろから、その価値観を築いていて、それが産業革命で開花したのだ。科学と資本主義が根付いたことにより、ヨーロッパの人々は、科学的、資本主義的に考えることに慣れていたのだ。例えるなら、家を建てるのに、アジアの人は木と泥を使っていたが、ヨーロッパ人は鉄とセメントを使った。ある程度の高さになると、差が出てしまうことは明らかである。

科学は帝国主義と深く結びついている。いや、表裏一体と言ってもよい。近世までは、発明や発見は、色々な地域で行われていた。しかし、科学革命後、発明や発見は全て西ヨーロッパで起こるようになる。それは、何もヨーロッパ人が優れていたわけではない。西ヨーロッパの国々が、ちょうど帝国主義の隆盛期であったことが理由だ。同時に、科学革命により、支配者たちの間にも、無知を知り、自分の欠けているところを補おうという風潮があった。領土拡大のための遠征は、発見の旅でもあった。征服した土地で、その土地を支配するだけでなく、その土地を知ろうとした。征服者たちは、遠征に科学者たちも同行させるようになった。一八三一年、英国はビーグル号を南太平洋に派遣した。それは、訪れる土地の調査と、制圧を兼ねたものであった。このとき、チャールズ・ダーウィンも乗船している。

十五世紀、十六世紀に作られた地図には、空白の場所が多かった。それまでは、分からない部分には、竜などを書いて埋めていた。しかし、当時発行された地図は、敢えてそこを空白にした。「その空白を埋めてみたい」、そんな願望を、研究者と征服者の両方が持つことになる。「空白の場所を埋めたい」という心理的、思想的な機運が高まった。

そのような中、コロンブスは大西洋を西に向かう。彼は、日本が七千キロメートル先にあると予測していた。しかし、実際はその三倍の距離があり、その間には広大なアメリカ大陸があるのだが。コロンブスはカリブ海の島に到達し、そこがインドであることを信じた。多くの人々は聖書を信じており、聖書に記載されていない大陸の存在を認めたくなかったのだ。一五〇七年、アメリゴ・ベスプッチはアメリカ大陸の入った地図を作る。彼はそこに、別の大陸であることを明記する。アメリカの発見は、「聖書は役に立たない」という考えを増長させ、科学革命のひとつのきっかけとなった。

ヨーロッパ人は、世界に進出し、世界各地に拠点を作った。そして、その拠点を徐々にネットワーク化させていった。征服と探検の混合物、それは当時として革命的なものであった。ローマ帝国も拡大したが、それらは自分の国を守るため、近隣の土地を服従させただけであった。明の時代、中国人の鄭和は、艦隊を率いて遠征し、インド、東アフリカまで達した。しかし、彼は訪れた土地を支配する気はなかった。海外遠征は皇帝が代わった後中止された。このことから分かるように、当時遠洋を航海する技術を持っていたのは、ヨーロッパ人だけではなかった。しかし、領土を拡張したいという野望は、ヨーロッパ人だけが持っていた。

一五一七年、アメリカ大陸に上陸したスペイン人は、「アステカ帝国」の存在について知る。その数年後には、帝国は滅ぼされていた。十年後にはピサロが、インカ帝国を滅ぼす。当時、アステカ人、インカ人は、ヨーロッパの存在を全く知らなかった。現地人にとって、スペイン人は「宇宙人」と同じであった。現地人は、船、馬、銃などを知らなかった。アステカ帝国を征服した時、スペイン人の数はわずか三百五十人であった。スペイン人は、現地人を懐柔し、騙すノウハウを持っていた。コルテスは帝国の内紛に付けこみ、首都に入り、国を制圧する。ピサらも、ほぼ同じやり方で、インカ帝国を制圧した。

スペインは最初、カリブ海の島々を占領した。そこで、原住民を何かと理由をつけて殺害した。また、ヨーロッパ人がもたらした感染症で、免疫のない現地人はバタバタと死んでいった。二十年間で、現地人が殆ど死に絶えたため、スペイン人は、西アフリカから奴隷の輸入を始めた。

ヨーロッパ人がアメリカ大陸を発見したというニュースは全世界に広まったが、アジアの国は興味を示さなかった。中国の技術力をもってすれば、アメリカ大陸に到達できていたはずだが、中国は単に興味がなかった。その間に、ヨーロッパは、アメリカ大陸、オセアニアを支配した。アジアの国々がその重要性に気付いたときには遅すぎた。既にヨーロッパ人による支配は確立していた。

今日では、帝国主義を敵視する傾向が強まっている。一九五四年、アルジェリアの独立戦争により、ヨーロッパの支配による反旗が掲げられ、アルジェリアは他の国や世論の支持を受けた。また、ベトナム戦争における、北ベトナムの勝利で、小さい国でも、大国に抵抗できることが証明された。

帝国主義と科学には共通の理念がある。「地平線の向こうには、何か素晴らしいものが待っているに違いない」という期待、それが両者の推進力になった。しかし、理念だけではなく、帝国主義と科学は行動も伴っていた。英国がインドを制圧した時、あらゆる分野の科学者が同行し、インドについて徹底的に分析、研究をした。天然資源などの他、文化的、地理的な調査も行われた。モヘンジョダロは、当時のインド人は興味を示さない場所だった。その遺跡を英国人が調査し、楔形文字の解読など、歴史的な発見がなされた。また、英国軍の将校であったヘンリー・ローリンソンは、ペルシアで三か国語の文字が刻まれたモニュメントを発見。古代ペルシア語の解読に成功した。その結果、当時の様子が現代に蘇った。

言語学者のウィリアム・ジョーンズは、インドに赴任し、アジア協会を設立、サンスクリット語の研究を始めた。彼はサンスクリット語とヨーロッパ諸言語の相似に気付く。彼はヨーロッパ諸言語が共通の起源を持つのではないかと考え、それらの言語をインドゲルマン語族というグループにまとめる。彼の手法は、比較言語学と呼ばれ、後の言語学研究の定番となった。

つまり、支配者が、よりよく支配するために、被支配者の文化を徹底的に研究したのだ。当時、インドに赴任する兵士や官吏は、インドの文化や言語を学んだ。当然、それらに対する研究も進んだ。英国が、インドの支配を二百年も続けられた理由として、その研究と努力が挙げられる。しかし、その研究は、支配者側の恥部を隠すことにも使われた。しかし、現地にヨーロッパ人の文明をもたらし、被支配者も恩恵を受けたことは否定できない。

とは言え、英国のインド支配は、インド人に大きな苦しみと犠牲をもたらした。一七六四年のベンガル地方支配のあと、換金作物のプランテーションのために農業が変わり、裕福だった地域に飢餓が訪れる。ベンガル地方は、そのために人口の三分の一を失った。植民地となったインドの歴史は、圧政と迫害の歴史なのである。

しかし、ヨーロッパ人にとっては、彼ら自身が「正義」だった。何故ヨーロッパ人が、アジア人やアフリカ人を支配していいのか、その問題の説明のために、ヨーロッパ人は「科学」を持ち出した。サンスクリット語をインドにもたらしたのは「アーリア人」という人々である。アーリア人はその後、インドの支配階級になった。ヨーロッパ人は、言語学的な意味を持つ「アーリア人」という概念を、生物学的に広げていった。「アーリア人は支配階級」、「ヨーロッパ人はアーリア人の伝統をより濃く受け継いでいる」という理論で、ヨーロッパ人のアジア人支配を正当化しようとした。これはもちろん根拠のないことである。ここ数十年、人種論はタブーとなった。しかし、差別はなくならなかった。それは単に「人種」が「文化」に置き換えられたにすぎないからだ。現代でも、多くの人が、この民族はあの民族より優れている、キリスト教文化はイスラム文化より優れているなどと考えている。しかし、生物学者は、人間の民族間の差異など、とるに足らないものだと述べている。しかし、一方、歴史学者や文化人類学者は、その差異に注目して研究を行っている。

科学と帝国主義は、手を取り合って発展した。科学は帝国主義者に、正当化の道具を提供した。そして、帝国主義者はスポンサーとして科学に資金を提供した。しかし、帝国主義の他に、科学の発展のために、もう一つのファクターがあったことを忘れてはならない。

 

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