第十二章:宗教の掟(人間はどのようにして神を創ったか)

 

 

中世のサマルカンドの街。市場では、色々な国から来た商人が、金貨で取引をしている。一二八一年、日本を襲ったモンゴル軍であるが、実は多国籍軍であった。一三〇〇年ごろ、メッカを訪れた人は、世界各国から来た、色々な宗教を持った人々を観察できたであろう。当時から人々は、異文化間で協力、交流をしていた。そこには、宗教の存在が大きい。

現在、宗教と言うと、差別、非寛容、争いと、悪いイメージを持つ人も多い。しかし、宗教は人間を結び付ける第三の力で、離れていく傾向にある人間の心を結び付ける重要な力となっている。宗教は、疑いを持たないで人々の心を統一させるもの、人々に共通の価値基準を与えるシステムとして働いている。宗教は、次の二つの点で定義される。

@      人間の考えの及ばない、超人間的な規則を持っている

A      異なる宗教を越えて、共通した部分がある

多くの宗教には、社会的、政治的な秩序を正当化する目的がある。しかし、全ての宗教がそうとは限らない。宗教が広がるためには、全ての地域の人に受け入れられる必要がある。そのため、宗教は他民族との交流、統一に、重要な役割を果たした。

狩猟採集社会では、人々は「アニミズム」であったと、つまり、全ての事物に神が宿っていると考えていたと思われる。他の動物や植物も、人間と同じように、性格や欲求を持っていると考えていたのだ。彼らは、特定の地域に住む、特定の動植物を守ろうとした。しかし、それは部族間のみで、他の部族にそれを強制することはなかった。農業革命は、「宗教革命」と呼んでもよい。農業革命で、ホモサピエンスは、他の動植物、つまり自然を支配するようになった。その結果、これまで対等に見ていた、動植物を、一段下のものとして、見下すようになった。人間は「自分たちは特別な存在なのだ」と考え始める。

とは言え、人間は完全に自然を支配できたわけではない。天変地異、災害、不作など、人間にコントロールできない部分が多く残された。そこで人々は「神」に辿り着く。「神」により、自然と人間の間にあるギャップを埋めようとしたのだ。旧約聖書の、「神との契約」がその代表例である。人間は神に「いけにえ」を捧げ、その代わりに、豊作を約束してもらうことになる。アニミズムから発展した神は、多神教であった。それぞれの神が、それぞれの事業を担当する。アニミズムは神によって衰退したが、完全になくなったわけではなかった。

現在、多神教は、一神教より一段下に見られているが、それは過去二千年に渡る、一神教による「洗脳」の結果である。最初は多神教であった。そのうちに、神々の中に「序列」が生まれる。そして、その頂点に立つ「神の中の神」が誕生した。その神は人間の運命をつかさどる神であり、抵抗できない。「運命の神」は人間の幸福とは無関係な位置にいる。人間は全てを捨てて初めて、その運命の神に近づき、その神と同じ視点で物を見ることができると考えられるようになった。また、「運命の神」の下には、その家来の「神」が複数存在する。人間は自分の都合の良い神を、その中に参加させた。そのうち、その「運命の神」を唯一の神として見る、「一神教」が登場するのである。

キリスト教は最初、ローマ帝国と対立し、迫害される。ローマ人としては、自分たちがそれまで信じていた神も、認識してほしかったのである。何千人ものキリスト教徒が殺された。しかし「わずか数千人」なのである。その後、キリスト教徒同士が、教義の違いから殺し合うことになる。カトリックとプロテスタントの対立など、宗教戦争で殺された者は、数百万人に上る。カトリックとプロテスタントには「神の愛」の解釈について、齟齬があったからだという。「愛」のために、多くの人が死んだ。

最初の頃の多神教では、神は自分たちの問題には関心がないと思っていた。しかし、次第に、神は地球の出来事にも関心を持っていると考えるようになった。神は人を助け、罰する。神は喜びもするし、怒りもする。その神が、一神教の神のモデルになった。

最初の一神教はユダヤ教であった。しかし、ユダヤ教はユダヤ民族のみを対象にした「地域限定版」の宗教であった。その地域、民族の壁を打ち破ったのがキリスト教である。キリストの弟子のパウロは、キリストこそが、ユダヤ教で待ち望まれていた救世主であり、キリストの説く神は、全世界の人々の神であると言う。キリスト教は、地域を超えた布教の末、広い地域で信仰されるようになった。

七世紀になって、イスラム教が登場、急速に広まる。これにより、一神教が世界のほとんどを支配するようになった。一神教は多神教に比べて、武力的な方法で地域と信者を拡大した。その結果、現代ではほとんどの国が、一神教を信じている。理論的には、一神教になったら、他の神は存在しないはずだ。しかし、実際は「聖人」と言う形で、より身近で、数多くの人間が、信仰の対象になっている。

宗教によって、「善」と「悪」の扱われ方が違う。二重主義では、「善」と「悪」が共存している構図になっている。対立主義では「悪」は神から独立した存在で、この世は、善と悪の戦場であるという世界観になっている。一神教では、「なぜ悪いことが起こるのか」、「なぜ神は悲しみや苦しみを許すのか」という点に答えることが難しい。ある場合は、「人間に自由を与えるため」と答えている。対立主義では、悪いことは全部「悪魔」の責任にできるし、神と悪魔の戦いには、人間の助けが必要だと、人間を巻き込むこともできる。「宇宙は善の神と悪の神が鎬を削る場所」という考えは、三千年から三千五百年前のゾロアスター教に始まり、広く中央アジアに広まった。「人間は良い神に味方をすべきだ」と、人間の行動規範も定めることができる。このゾロアスター教は紀元後にも続き、中国から北アフリカにまで波及した。しかし、ゾロアスター教は、キリスト教、イスラム教に取って代わられることになる。しかし、一神教になっても、対立主義の要素は、キリスト教やイスラム教の「サターン」として、受け継がれることになる。また、「人間は良い神に味方すべきだ」の考え方は、イスラム教のジハードや、キリスト教の十字軍として行動に移される。対立主義は、「精神は善、肉体は悪」という方向にも進んでいった。いずれにせよ、現在の一神教は、これまでの数々の宗教の混合体であると言える。

これまで出てきた宗教は、超自然的な存在を信じていた。しかし、全ての宗教が「神」を信じているわけではない。インドで発生したジャイ教、仏教、中国のタオ教、儒教、ギリシアのストア派、エピキュロス派などが紙を信じていない。それらの宗教でも、人間を超えた自然の秩序、法則が存在する。しかし、神と言えども自然の法則に逆らえない。その代表的なものが仏教である。

ガウダマ・シダルダは、紀元前五百年、インドのある国の王子として生まれた。シダルダは、人々の苦しみを見て、分析した。人々は何を得ても満足しないで、もっと欲しがる。また、同時に病気や死を怖れている。人生はハムスターの輪の中で走っているようなもの。シダルダは、どうしたらその輪から抜け出せるかと考えた。彼は二十九歳の時宮殿を出て、苦しみから逃れる方法を求めて旅に出る。しかし、どのような方法をもってしても、満足する結果は得られなかった。彼は、苦しみの原因は己の中にあると考える。そして、欲望こそが苦しみの原因であると悟る。持てるものほど、苦しみ、心配事が多いのである。全てをあるがままに受け入れることができれば悩みは消える。今ある以上のものを望まなければよいのである。彼は瞑想を通じて、あるがままを受け入れ、「欲望の炎」を消そうと試みた。そして、遂に到達したその境地を「涅槃(ねはん)」と名付けた。シダルダは涅槃を悟った後、「仏陀」(悟った者)と呼ばれるようになった。彼は、「欲望こそが人間の苦しみの原因である」、「そのためには、物をあるがままに見なければいけない」という教えを、人々に広めた。彼は自然界の究極の法則を「達磨」と名付けた。神は存在するが、「達磨」は神でさえも越えられないと、シダルダは説いた。彼の教えを聞いた者は、それを書き止め、経典とした。

過去三百年間、宗教は大きく意味を失った。しかし、それは「自然科学」という名の別の宗教に取って代わられたにすぎない。「自然科学」の中には、「自由主義」、「共産主義」、「資本主義」、「国粋主義」などの分派がある。そして、その「布教活動」は、時には戦争を通じて行われてきた。この宗教の信者は、「宗教」という言葉にアレルギーを示し、その代わりに「イデオロギー」という言葉を使いたがる。しかし、基本的には同じである。仏教も共産主義も、「変えることのできない法則」の実在を信じている。そして、「共産主義」にも経典や予言が存在する。マルクスの「資本論」などである。色々な点で、共産主義は見事に「宗教」としての条件を満たしている。唯一の違いは、古典的な宗教では「神」と呼ばれているものが、新しい宗教では「自然法則」と呼ばれていることくらいである。

新しい宗教では、人々は一つの宗派にだけ属しているとは限らない。古典的な宗教では「神」を讃えていた。しかし新しい宗教では「選ばれた者として他の動物とは一線が画されるホモサピエンス」を讃えている。それは「ヒューマニズム」と呼ばれる。しかし、ヒューマニズムもいくかのセクトに分かれている。

ひとつが「自由ヒューマニズム」である。一人一人の人間には、意味のある特性が備わっている。その特性を守る権利、つまり人権があるという考え方。自由ヒューマニズムは、神の存在を否定するものではない。それどころか、基本的にはキリスト教から来ていると考えてよい。人間は「神によって創られた者」であるがゆえに、大切に扱われなければならないのである。

もうひとつのセクトが「社会ヒューマニズム」である。人間の特性は、個人の中にあるのではなく、集団の中にあるという考え方。彼らは、「全ての人間が平等に扱われる」ことを目指す。

最後は「進化論的ヒューマニズム」である。この信者は、人間は「優等な種」と「劣悪な種」に進化したと説く。そして、優秀な種を残し、劣悪な種を根絶することが、人間の使命だという。ナチスドイツに見られる考え方である。劣悪な種との混血は避けるべき、劣悪な種は、ネアンデルタール人のように滅びる運命にある、と彼らは言う。しかし、現代の研究では、例えばユダヤ人は、生物学的に見ると、大きな違いがないことが分かっている。ヒトラーは、このセクトを日の当たる場所に持ち出し、その後挫折した。しかし、今もなお、この説を信じている人は多い。

ダーウィンの進化論は「強者が生き残る」、「自然淘汰」の上に成り立っている。しかし、「ヒューマニズム」、「共産主義」は「弱者を助ける」ことに重きを置いている。そうなると、人類はどんどん弱くなり、最後は滅亡することになる。ヒトラーの唱えた、「進化論的ヒューマニズム」は現代ではタブーになっている。しかし、最近、生物学的に優等な種を残そうという動きが出てきている。いずれせよ、ヒューマニズムと生物学の間に溝が生じているのは確かだ。生物学が、キリスト教的な考え方に、疑問を投げかけ始めている。

 

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