第十章:金の匂い(人類最大の幻想)

 

 

 一五一九年、スペイン人のコルテスがメキシコを征服する。当時のメキシコ、アステカでは、金(きん)が通貨として使われていなかった。アステカ人は、スペイン人が実用性のない金に興味を持っていることを不思議に思う。コルテスは、

「心臓の病気を治す薬になる。」

と答える。もちろん嘘だ。しかし、「病気」という点では完全に間違ってはいない。ヨーロッパ人は「金を欲しがる病気」に冒されていたのだった。スペインでは、キリスト教徒とイスラム教徒の間で戦いが行われていた。キリスト教徒が勝った町では、十字架を刻んだ硬貨が発行された。これを「ミラレス貨幣」と言うが、その硬貨は、次第にイスラム教徒の支配する地域でも使われるようになる。

狩猟採集社会でも、個々の人間に役割はあったと考えられる。しかし、そこで生産された製品、提供されるサービスは、主にその部族内のみで流通していた。農業革命後も、しばらくはその状態は変わらなかった。しかし、都市が形成されるようになり、状況が一変した。人々は、自分が得意なものに特化し、それを売り、その代わりに、他の者が作った製品やサービスを手に入れることを望んだ。職業としてのワイン造り、土器造りなどが始まった。そこで、どのようにして、自分の作った物を他人が作った物と交換するかという問題が生まれた。物々交換は用を足さなくなっていた。リンゴを靴と交換したいと思った人がいる。しかし、靴を売りたいという人が、リンゴを欲しいとは限らないし、もしいたとしても、交換レートが定まっていない。そこで始まったのが「通貨」である。

通貨は、世界のあちこちで、ほぼ同時多発的に始まった。認識革命の結果、人々は「想像の世界にのみ存在するもの」を信じることができるようになった。その最たるものが、通貨、つまり、物の価値を表す基準である。通貨は、紙幣や硬貨に限られていない。貝、牛、塩、穀物なども通貨になった。現代でも、煙草が刑務所や、収容所などで通貨としての役割を担っている。また、現代では、通貨の九十パーセントが、コンピューターの中のデータとして蓄えられている。

通貨の便利な点は三つある。ひとつは、物やサービスの相対的な価値が分かること。これによって全ての物が、通貨を介して交換できるようになった。二番目は、貯蔵するのに場所が要らないこと。三番目は持ち運びが容易であること。これら特徴により、複雑かつダイナミックは商業活動が可能になった。

しかし、忘れてはならないことは、金はそれ自体に価値があるわけではなく、人々の幻想の中に存在するものであること。物質的なものでなく、精神的なものであることである。どうして、人々は、絵の描いた紙と引き換えに物を売るのか。それは、その紙を発行している者を信用しているからだ。通貨は、相互の信頼の上に成り立つシステムである。その信頼は、長期間に渡って、複雑な、政治的、社会的、経済的なネットワークの上に築かれていった。「隣人が信じているから、私も信じる」、その輪が徐々に広がっていったのだ。

最初にスメラ人によって使用された「通貨」は大麦であった。それは升によって計られ取引された。その大麦は物の売買だけでなく、給与の支払いなどにも使われた。それを計る厳密な単位も作られた。大麦は、それ自体を食べることができるという便利な点があった。しかし、持ち運びがやっかいであるという欠点があった。四千五百年ほど前、メソポタミアでは、それ自体価値のない物が「通貨」として使われるようになる。それは銀であった。最初銀は重量で取引されていたが、紀元前六七〇年、トルコのリディアで、最初の硬貨が発行された。それは、同じ重さで出来た、表面に刻印がなされたものだった。これにより、銀の重量を計るという行為が不必要になった。しかし、何よりも重要な点は、発行者(つまり国王)が、その硬貨の価値を保証していたことである。偽造したものは、権威への裏切りとして罰せられた。つまり、硬貨の価値を信じることは、すなわち、王の権威を信じるということになった。貨幣により王の権威が、より強固なものになった。

貨幣により、帝国内での価値の移転が容易になった。そのうち、帝国の外の人たちも、その価値を信じるようになっていった。ローマ帝国の貨幣「ディナーリ」は、隣国のみでなく、遠くインドでも通貨が流通するようになった。「ディナール」は今でも、イスラム圏で通貨の単位となっている。同時に中国の金貨、銀貨、銅貨も近隣諸国のみならず、「世界通貨」となっていった。これらの「世界通貨」は、ヨーロッパとアジアを一つの経済圏にまとめるのに大きな効果をもたらした。支配者や宗教は違っても、人々は金属で出来た通貨を信用した。

世界中の人々が「金」(きん)の価値を信じた。しかし、もしインドが金の価値を認めていないまま、交易を始めたらどうなるだろうか。インドで金を安く買って、他の国で売ろうとする輩が現れるだろう。そうなると、インドでの金の需要が高まり、金の価格が上昇し、価値が平準化されるのである。信じる人が多ければ多いほど、その価値は増す。互いに反発している国でも、金だけは信じられた。金を諸悪の根源と考えている人はいる。しかし、金は人間の寛容の証しであった。金が、文化の壁を乗り越えて、人々を一つにしたのである。

通貨の二大原則は、どこでも何とでも交換可能なこと、人々が互いに信頼し合い一緒に働けること、である。見知らぬ人々が一緒に働けるのはいいことだが、人間の信頼が金で置き換えられるしまうことに問題がある。金(かね)で買えないものも人間にはある。しかし、人間は金で大切なものを売り始めた。そういう意味では金は非人間的なシステムであると言える。金は、人間関係や、価値を崩してしまう危険も併せ持っている。現在、原則的には金の原理、市場原理が常に勝つと信じられているが、実際は金ではなく「信仰」や「武力」が勝利することも多かった。

 

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