第八章:歴史は公正でない(歴史の中で作られた差別)

 

 

農業革命以来の最大の課題は、どのようにして、多くの人間に共同作業をやらせるかということであった。生物学的に言って、ホモサピエンスは元々多人数での共同作業に向いていなかった。文字が作られ、それによって秩序が明確化され、共同作業は次第に大規模になっていった。その結果として形作られたのが「階級社会」である。そこでは、人々が、層に分けられている。

「アメリカ合衆国独立宣言」が、平等な社会をうたったとしても、男性だけが対象であり、奴隷やインディアンも対象外であった。奴隷を人間と考えていなかった当時は、奴隷は「人権」の埒外だった。そもそも、当時の「自由平等」は現在とは意味が違う。自由とは「国家が個人に干渉しない」という意味であった。勤勉な者は富み、怠け者が貧しいのは当然、平等と考えられていた。

「階級」は、フィクションの中に成り立っている。しかし、上位階級は、その「フィクション」がいかに自然であるか、真実であるかを主張していた。例えば、「白人」と「黒人」、白人たちは、いかに自分たちが「生物学的に言って」黒人より優れているかの説明に余念がなかった。

ヒンドゥー教のカースト制度では、階級は生まれたときに決まっている。そして、多くの人は、自分たちの階級は自然だと思っている。どの社会も多かれ少なかれ階級はある。その根底にあるのが、人間の「他の人間より強くありたい」という願望である。階級があるから、初めて会った人とも話しやすいと言う人もいる。「階級など関係ない、天性の才能があれば、人間は伸びていける」という人もいる。しかし、天性の才能も、発見され、発展させられて初めて、使えるようになるのである。同じような才能を持っていても、属している階級によって、その発展のさせ方には、大きな違い出てくる。

階級社会は、その地域によって大きく異なる。それは、特定の階級の人間が有利になるように、永年積み重ねられた歴史があるからである。例えばインドでは、三千年前にアーリア人が土着民を征服した。少数派であるアーリア人は、自分たちが支配しやすい体制を作った。それがカースト制度である。人々を階層に分け、階層間の交流を禁止する。「純潔」や「病気を忌む心理」を巧みに利用し、各階層内でしか子孫を残せない体制を作る。それによって上位階層の支配は安定する。更に、そのカーストをどんどん細分化させていく。それによって変革が行われにくい社会体制が出来上がった。インドの独立後、民主化の努力にも関わらず、カースト制度が緩和される様子はない。

もう一つが、米国における、白人と黒人の階層である。十六世紀から十八世紀にかけて、米国は大量のアフリカ人を奴隷として移住させた。奴隷貿易のためのネットワークが確立し、労働力として大量の黒人が存在した。白人と黒人には、経済的、身分的に差がついたが、白人側は、その身分の違いを、正当化する必要があった。キリスト教会は、白人の優位性を正当化するために、黒人はハムの子孫であるという説を主張した。また、生物学者は、黒人は生物学的に劣ると主張した。奴隷制度が廃止され、法的に黒人が白人と同じ権利を持つようになっても、多くの黒人は経済的に貧しく、その地位は低いままである。黒人は馬鹿であるとレッテルを貼られ、教育を受けたとしても、社会では重用されない。これも、支配階級が、階層社会を利用し、自らの地位を保全している例であろう。

白人の言い分は、「黒人はもう何世代も自由なのに、未だに、黒人の弁護士、医者、教授は少ない」と言うことで、白人の優位性、黒人の劣等性を主張する。しかし、これは「白人が黒人を支配した」という歴史、その結果の「差別的な扱い、不十分な教育の機会」、そこから派生した「黒人に対する偏見」、その負の連鎖の結果なのである。また、米国の社会における「美しさ」の基準が白人によるもので、黒人の特徴が醜いものとされている点も大きい。そしてその階級社会は、インドのカースト制度と同じように、近年になって解決される気配さえない。

社会的な階層に、生物学的な、あるいは論理的な裏付けはない。単なる、歴史的な偶然によって長年に渡り形作られた結果に過ぎない。想像の産物が、残酷な結果を作り出したわけである。ある社会での階層は、他の社会では何の意味もない。

多くの社会で、男性と女性の間には階層が存在する。紀元前十二世紀の時点で、中国では、女の子が産まれることが、不運、不幸と考えられていた。最近では、中国の「一人っ子政策」で、多くの女の赤ちゃんが殺された。多くの社会で、女性は男性の「所有物」であるという扱いを受けている。例えば強姦罪であるが、これは未婚の女性に限られる。夫による性的な虐待は、ごく最近まで罪に問われなかった。確かに生物学的に言って、男性と女性は異なるが、どちらかに優位性があるのだろうか。長い間、多くの社会で、生物学的な違いが、優位性であると考えられてきた。民主主義の進んでいたことで有名な古代ギリシアにおいても、「子宮のある人間は法律的に人間ではない」と考えられ、政治には参加できず。教育も与えられず、職業にも就けなかった。しかし、現代のギリシアでは、女性の社会進出が著しい。

次に、同性愛者など、特定の性質を持った人への差別、階層化である。「異性に興味を持つことは自然」「同性に興味を持つことは不自然」ということが、多くの社会では通念になっている。しかし、生物学的には、「自然/不自然」という概念はない。「自然/不自然」を定めているのは、文化、つまり「神話」なのである。例えばキリスト教での「自然」とは、キリスト教の神の意図に合致しているということである。神は、身体の器官をある意図を持って作った。神の意図に反して、その器官を使うのは「不自然」であるという。しかし、人間は本来栄養を採るために作られた口をおしゃべりやキスのために使っている。昆虫は本来身体を守るという意味で作られた殻を、羽根として飛ぶことに使用している。本来は子孫を残すために作られた性器や、子孫を残すために行う性交も、今では社会的な別の目的で使われている。

女性を、子供を作る者と定義したり、同性間の性交は不自然であると主張したりするのは、生物学的に意味はない。生物学的に男女を定義するなら、XYの染色体を持つのが男性、XXの染色体を持つのが女性ということだけである。社会的な性と生物学的な性は別だと主張する学者もいる。女性として生まれてきても、社会的に女性と認知されるには、多くのことを学ばねばならない。

農業革命の後、世界各地で家父長制の社会が出来た。どうして、男性が「主」、女性が「従」になったのか。どうして、女性の権利、活動が制限されるようになったのか。エリザベス一世のように、女性の支配者はいるにはいる。しかし、彼女をサポートする者は、全て男性であった。また、エジプトでは、アッシリア、ペルシャ、マケドニア、ローマ、アラブ、マメルク朝、トルコ、英国と、支配者は変わっても、ずっと家父長制の国であった。なぜ、互いに関係のない国で、時代を超えて、同じ制度が成り立ったのだろうか。

その説明の一つは「筋肉説」である。男性は女性より筋肉が強い。力の強い者が支配者となるという説だ。しかし、これには無理がある。六十歳の人間が、二十歳の人間を支配することもある。また、マフィアのボスなどで、体力的に恵まれない者も多い。

次は「攻撃性説」である。暴力を好み。戦争を好む男性が、支配者となり、その地位を利用し、より暴力的に、攻撃的になるという説。確かに男性は戦いのホルモンも多く、歩兵や戦闘員に向いているかも知れない。しかし、普通、指導的な地位にある者、支配者は直接戦闘に参加しない。女性は身体的には弱く、戦闘を好まないが、軍隊を率いるのに必要なものは知力と、持久力であり、これは男性の専売特許ではない。

さらに「分析力説」がある。武将は攻撃力だけでは成功しない。広い視野を持ち、分析力に長けた者が成功する。初代ローマ皇帝のアウグストゥスは戦争では弱かったが、広い視野と中庸があった。男性は分析力に優れているという説である。しかし、女性にも分析力に長けた人はいる。

男性と女性は、別の生存戦略を持っているということが、比較的説得力のあるものだ。男性は生存競争に勝つことが使命である。その結果、競争力のある者の遺伝子が残っていく。しかし、女性は、子孫を残すために、妊娠し、出産し、育児をしなければならない。その間、男性の保護を受けなくてはいけない。その際、男性の出した条件を飲むことができる、従順さがある者がより有利になる。結果として従順な者の遺伝子が残っていく。この説にも弱点はある。女性は庇護を必要とする期間、男性に頼らないで、同性に頼ることもできるからである。動物の中には、ゾウなどの母性社会がある。しかし、ホモサピエンスの世界はどうして男性社会なのか。最終的な答えはまだ見つかっていない。

 

次へ 戻る