第六章: ピラミッド造り(共同作業を始めた人類)

 

 

農業革命を、ある人は人類の進歩と繁栄の礎だと言い、またある人は、人類が自然とのコンタクトを失うきっかけだと言う。いずれにせよ、気付いたときには、もう後戻りができなくなっていた。人口が爆発的に増えた結果、狩猟採集経済では、人口を養っていけなくなった。一万二千年前には、五百から八百万と言われた地球上の人口が、紀元前後には、二億五千万人に増えていた。人々は定住し、家の中に住むようになり、閉じられた空間を快いと感じるようになった。人々は限られた土地に住み、その土地が柵で囲まれるようになる。外部からの侵入者を食い止めるためである。また、人とだけではなく虫との戦いも始まった。とはいえ、紀元一四〇〇年ごろ、地球上に占める耕地面積は、まだ全体の二パーセント程度であった。

人々が定住するにつれて、所有物も増えていった。道具、余剰物などであり、人々は、物や土地に対する愛着を持ち始めるようになった。人々は、それらを失うことを怖れ、余計に一か所に留まるようになった。また、農民は、何年か先のことを考えるようになり、先を見越しての作業をするようになった。つまり、未来に対して「計画」を立てるようになったのだ。狩猟採集経済は「計画」と程遠いものだった。農業革命の後、「未来」、「計画」が重要な位置を占めるようになった。

農民は、ひとつの作物に頼っていたので、自然災害の影響を受け易かった。農民は不作に備え、食料の備蓄を始める。その「備蓄」が、政治、社会システムの基になったのだ。そのうち、その備蓄をかすめ取ろうとする、支配者やエリートが現れる。そして、その支配者たちが、宮殿を作り、学問を奨励した。つまり、その「備蓄」こそが、人類の文化の原動力になったのだ。  

近代化まで、人口の九十パーセントが農民だった。彼らは朝から晩まで働いて、一部のエリートたちを支えていたのだ。そして、歴史はその一部のエリートたちによって書かれた。余剰作物の集結と、交通の発達により、徐々に村から町ができ、それが更に国になっていく。人がたくさん集まるようになると、そこに住む人たちに対する規則が必要になる。そして、誰かがその規則に従わない場合、それが争いの種になる。争いは、食料が十分になく、餓えた農民たちが起こすだけでなく、食料の豊かな時代でも起きた。その原因だが、元々ホモサピエンスは、多くの知らない人々との共同作業に向いていなかった。その結果、数十人のみの共同作業を何万年も続けてきた。しかし、ホモサピエンスは「神話」を信じられるようになった。そして、その共通の神話を信じる、より多くの人たちとの共同作業ができるようになった。「神」、「祖国」などの神話はどんどん広がり、「国」が形作られることになる。そして、その中心としての町も、どんどんと規模が大きくなる。そこには劇場などの娯楽施設も作られるようになった。共同作業が常に公平であったわけではない。そこには搾取があり、奴隷も生まれた。多くの大規模な建築物は、奴隷によって作られた。

その神話の代表的なものは、紀元前一七七六年に出された、バビロニアの「ハムラビ法典」である。バビロニアは当時、世界最初の大帝国であった。そこに住む人々が暮らしていくための「規則」の集大成がハムラビ王によって作られた。法典は、王の死後も何代にも渡って使用された。法典の適用は、自由民、通常民、奴隷に対してそれぞれ違う。ハムラビ王は、この規則が一般的であり、どの時代にも、どの地域でも適用できると考えていた。また家族の構成員の中にも序列がつけられている。法典が、人々が平和に暮らしていくことを願って作られていたことが分かる。

次の例は、アメリカ合衆国の独立宣言である。宣言は、人間は神の下に平等であるとうたっている。また、その原則が、何時の時代でも、どこでも通用すると言っている。しかし、人類は、本当に生物学的に言って「平等」なのだろうか。アメリカの独立宣言も、元を正せば、聖書の「天地創造」に基づいている。「ハムラビ法典」も「独立宣言」も、人類が作った神話にすぎない。法典の定める「階級」も、独立宣言のうたう「平等」も、生物学的には、何の根拠もない。それらは人間の考えの中にあるファンタジーに過ぎない。生物学的には、単に、器官、能力、特徴があるだけ。また「幸せ」は、生物学的に定義はできない。

「独立宣言」、「人権宣言」もひとつの神話にすぎない。「神話」の頂点には、支配者がいる。その「神話」を信じず、そこにある「規則」に従わない人が多くなれば、そこで全てが終わってしまう。その神話を常に成立させておくために、人類は色々なものを考案した。例えば、警察、裁判所、刑務所などの、国家による暴力である。しかし。罰するだけでは秩序を保つことはできない。例えば、軍隊では、兵士の意思を統一するための何かが必要となる。アレキサンダー大王と、樽のディオゲネスの話しがあるが、シニカルの人間ばかりだと、秩序は守れない。それを信じる人間がいるので「神話」は成立するのである。人々にどのようにして「神話」を信じ込ませるかが、支配者、為政者にとって鍵になってくる。

では、どのようにして、人々に「神話」を信じさせるのだろうか。まず、「神話が空想の産物である」ことを絶対に知らせないで、「客観的な真実である」とアピールをする。また、しつこく繰り返すことにより、人々を「洗脳」してしまう。

その中で、一番多くやられている方法が、「神話」を無理やり「自然科学」と結び付けてしまうことだ。「神」を「自然の摂理」と結び付けて説明するというのが、よくやられている方法であろう。

次の方法が、「神話」を「憧れ」「願望」の対象と結び付けてしまうという方法。チンパンジーは自分のテリトリーを離れたがらないが、現代の多くの人間には、海外を旅行したいという「憧れ」がある。これは、十九世紀から二十世紀の間に、「ロマンチック」なものとして、人々に刷り込まれたものである。また、消費主義も、「新しい製品を買えば幸せになれる」という、生産者、供給者の作った神話に、消費者が乗っているにすぎない。

三つ目の方法が、「相互主観性」の利用である。「客観」とは、人間の認識に関わらず常に存在するもの、「主観」とは個人の意識の中に存在するものである。「相互主観」とは、集団の中に存在する主観とでも言うもの。できるだけ多くの人に信じさせ、「主観」をあたかも「客観」であるように錯覚させることである。会社は、社長の想像の産物ではない。多くの人たちの想像の産物であり、それを変えようとすると、時間もかかるし、より強い秩序が必要になってくる。これを使うと、人々は永久に、作られた秩序の中から抜け出すことができなくなる。

 

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