何たる偶然
「あそこにいる娘、ちょっと可愛くない。」「確かに俺好み、後で電話番号聞こうっと。」
「あれれ、ミスター・サウス。」
「あれれ、モトさん。」
午後四時半、ナンバーワンコートでの第三試合が始まって間もなく、隣の席にやってきた人を見て驚いた。どこかで見た顔。会社の部長のサウスさんだった。隣の席は、朝誰か別の人が座っていたが、その人は、比較的早い時間に帰ってしまった。そして、その代わりに現れたのが、昨日の夕方まで、一緒に仕事をしていた上司とそのお奥さんだったのだ。
「リセールチケットで入ったの。」
とサウスさん。「リセールチケット」とは何か。誰かが観戦していたけど、早く帰らなければならなかったとする。十一時から夕方八時まで九時間もやっているのだから、飽きたり、疲れたり、用があったりして途中で帰る人は結構多い。そんな人は、帰り際、ゲートにある「リセールボックス」に使用済みの切符を入れておく。その切符が、切符なしで順番を待っている人にリセール、再販売されるのだ。そして、その収益は、主催者がポッポナイナイするのでははく、チャリティーに寄付されるのだという。
「世の中、こんなこともあるんや。」
僕は「偶然の悪戯」に驚いた。そもそも、三万人近い人が、その日、ウィンブルドンを訪れていたと思う。リセールチケットは選ぶことができないので、サウスさんが隣に来たのは全くの偶然。僕と同じナンバーワンコートのチケットをサウスさんが手に入れる確率自体がそれほど高くない。そして、ナンバーワンコートは数千人の観客が入れる。その中で、隣同士になる確率なんて、何万分の一だと思う。
「それで、モトもサウスさんも奥さんと一緒だったの。」
翌日の昼休み、僕が同僚のスニタにサウスさんと偶然会った話をすると、スニタはそう聞いてきた。
「うん、僕も部長も自分たちの奥さんと一緒だった。」
「よかったわね。もしどっちかが『奥さん以外の女性』と一緒だったら、話がややこしくなるところだったね。」
確かに、スニタの言うとおり。
上司の横にずっと座っているのも、気詰まりなので、また「散歩」に出る。平らなコートの試合は、ほとんどがダブルスになっていた。サーブを打つ前、選手が何やら小声で話している。作戦だろうか。
「近くに美味しい、ベトナム料理があるんだけど、今日食べにいかない。」
「いいわよ。」
そんな会話だったりして。どのダブルスの選手たちも、サーブの前にお互いの必ず掌をパチンとタッチさせている。流行だろうか。勝った時だけでなく、負けた時も。女子選手は可愛くていいけど、髭面の男子選手がそれをやると何だが、ゲイ、おかまっぽい。
夕方になり風が強くなる。外のコートでは、サーブのトスが流れて、難しそう。