<第三章 シューヴァル/ヴァールー>

 

マイ・シューヴァル。2013年撮影。

 

マイ・シューヴァル(Maj Sjöwall)とペール・ヴァールーPer Wahlööのおしどり作家は「現代の推理小説の原型を作った」と言っても過言でないほど、後の推理小説作家に影響を与えた。彼らは、一九六五年から十年間に渡り、今や推理小説の「古典」となった「マルティン・ベック」シリーズ、全十作を発表した。そして、このシリーズこそ、スウェーデンのみならず、ヨーロッパの警察小説の「原点」であると言われるものである。

英国人のジャーナリスト、ルイーズ・フランス(Louise France)は、シューヴァルに対するインタビュー記事(1)の冒頭で、

「彼らなしには、イアン・ランキン(Ian Rankin)の『ジョン・リーバス(John Rebus)』シリーズ(2)や、ヘニング・マンケルの『クルト・ヴァランダー』シリーズも生まれなかっただろう。」

と述べている。

 また英国のジャーナリスト、スティーブン・ピーコックはその著書「スウェーデンの犯罪小説」の中(3)で、

「誰もが、スウェーデン推理小説の創始者と認めるのが、シューヴァル/ヴァールーの夫婦作家である。彼等は一九六〇年代から七〇年代にかけて、十作の『マルティン・ベック』シリーズを発表した。このシリーズは全て映像化されている。この点、このシリーズが現代警察小説の原点という価値だけでなく、外国でも映像化された最初のスウェーデンの作品としての価値を持っている。」

と述べている。

 シューヴァル自身がBBCとのインタビューの中で次のように述べている。

アガサ・クリスティーを読み慣れたご婦人たちから、私たちの小説が『リアル』すぎると言われたと、出版社から連絡を受けた。(第一作の)『ロゼアンナ』で裸の女性を描いたが、そんなことは不謹慎だ、探偵の私生活とミステリーを混ぜないでほしい、というのがそのご婦人方の希望だった。」

その後、同じ番組のコメンテーターとして登場したノルウェーの作家、カリン・フォッスム(Karin Fossum)と、英国の批評家バリー・フォーショー(Barry Forshow)は、

「主人公のマルティン・ベックはそれ以降の探偵のプロトタイプとなった。」

「マイ・シューヴァル/ぺール・ヴァールーの成功がなければ、現在の推理小説の世界は今のようにならなかっただろう。」

と述べている。

 このように、最大の賛辞を送られる「マルティン・ベック」シリーズは、どのような経緯で生まれたものなのであろうか。

 

 

第一作「ロゼアンナ」、英語版の初版。運河に浮いていた若い女性の話である。

 

前述のルイーゼ・フランスによるシューヴァルへのインタビュー記事の中で、作者自身がその作品の作られた背景、環境について語っている。

「マルティン・ベック」シリーズは、夕食後、子供達が寝静まった食卓で、シューヴァルとヴァールーのカップルにより、一章毎に交代で書かれた。シューヴァルは全く本を書いた経験がなく、ヴァールーも文筆業ではあるが、それまで推理小説など書いたことはなかった。彼等は最初から十冊の本を書くことを決めていた。そして、シリーズは毎年一冊のペースで十年に渡って書き続けられる。十冊目が完成すると同時に、ヴァールーは四十九歳で亡くなる。

このシリーズを通じて、シューヴァルとヴァールーは、一九六〇年代のスウェーデンの社会問題を掘り起こそうとしたという。ヴァールーはマルクス主義者であった。このシリーズはマルクス主義者の目から見た、当時の社会への問題提起であったのだ。彼等は、自分達の本が、それほど売れるとは期待していなかった。

「私は自分の書いた本が、生涯自分に付いてくるなどと思いもしなかった。」

とシューヴァルは言う。しかし、結果的にシリーズは世界中で一千万部を越えるベストセラーとなる。しかし、不思議なことに、自分達が書いた本が売れたわりには、ふたりは金銭的には恵まれなかったという。

「金持ちになるより自由なままがよい。」

シューヴァルはインタビューでそう述べている。

シューヴァルはインタビューの中で彼女の私生活についても語っている。彼女の父はホテルのマネージャーをしており、ストックホルムのホテルに住み込んでいた。スイートルームを借り切る金持ちの客から、地下の厨房でジャガイモを剥く従業員まで、ホテルはありとあらゆる階級が存在する場所である。シューヴァルはそれを見ながら育った。ティーンエージャーのとき、彼女は積極的にパブやレストランなど大人の世界に入り込んだという。

シューヴァルとヴァールーが出会ったのは一九六二年のことだ。ジャーナリストとしての道を歩み始めたシューヴァルは当時二十七歳。ヴァールーはシューヴァルより九歳年上で、既婚、娘がひとりいた。彼は、新聞記者で共産党員であった。彼等はジャーナリストが集まる一軒のバーで出会い、意気投合する。そしてヴァールーは妻と幼い娘を捨ててシューヴァルの元に移った。

一緒に住むようになったふたりは、推理小説を書くことを計画する。彼等は自分たちの意図を、

「推理小説の執筆を『書斎』から『表通り』に引きずり出そうとした。」

と表現する。ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon4やダシール・ハメット(Dashiell Hammett5の影響を受け、彼らも社会問題を取り扱った作品を書こうとする。

「私たちは『左翼的な』視点から見た社会を描こうと思った。ペールは一度政治的な本を書いたが、三百冊しか売れなかった。人々が推理小説なら読むことを発見し、『福祉国家』というスウェーデンのイメージの裏に存在する、貧困、犯罪、暴力など別の層があることを読者に訴えることを目的に書き始めた。私たちは、スウェーデンが資本主義的な、冷たい、非人間的な方向に向かっていること、そこでは富める者は益々富み、貧しい者は益々貧しくなることを訴えたかった。」

とシューヴァルは動機を説明する。

かくしてふたりは小説を書き始めた。それはふたりきりの「プロジェクト」であった。シリーズは最初から十冊と限定されていた。最初の本は、スウェーデンの運河を船で旅をする途中で殺された米国人の女性を描いた「ロゼアンナ」。今ではそうでもないが、当時は「余りにもリリスティック過ぎる」という批判を浴びた。しかし、彼等は児童虐待、殺人狂、セックス産業、自殺と言ったテーマを次々に扱っていく。彼らの本は彼等自身の予想を超えてベストセラーとなる。しかし、不思議なことに、本が売れたことはふたりにそれほど金をもたらさず、彼らはずっと印税だけで生活ができなかったという。

当初の計画通り、十冊の本を発表する上での大きな障害が現れる。それはヴァールーが病を得たことである。彼等は何とか十冊目の本「テロリスト」を一九七五年の五月に書き上げる。ヴァールーはその出版を待たず、同年の七月に亡くなる。インタヴュアーのフランスは、シューヴァルに尋ねている。

「あなた方が予想し、怖れていた社会は実際に来ましたか。」

「全てが予想したより早くやってきました。市場が支配し、人々が『人間』ではなく『消費者』として理解される社会が。」 

とシューヴァルは答える。

「では、あなた方の『プロジェクト』は失敗に終わったのですか。」

とフランスが更に聞くと、シューヴァルは笑いながら答えている。

「はい、失敗しました。でも大事なことは、私たちの本の読者が既に私たちと同じように考えるようになってくれることです。そのままでは何も変わらない。自分たちで変えるようにしなければ。」

フランスとのインタビューの最後で、シューヴァルはそう答えている。

 

舞台となったストックホルム。数多くの島から成り立っている街である。

 

シューヴァルとヴァールーがマルティン・ベックの人物像を考案したとき、どこにでもいる警察官の典型、プロトタイプを考えたという。しかし、マルティン・ベックと、その他の登場人物には、四十年後も人を引き付けて離さない「何か」がある。私自身も、このシリーズにのめりこんだ時期があった。

記者のフランスも例外ではなく、彼女自身が、マルティン・ベックとの出会いについて、以下のように書いている。

「私は数年前、偶然このシリーズに出会った。当然のこととして、第一作の『ロゼアンナ』から読み始めたのだが、掛け金が外れたようになり、普段の生活を忘れ、上司に嘘をついて、ベッドの中で、一冊また一冊と読んでしまった。それは強烈なミントの入った食べ物を、次から次へと口に入れているような経験だった。私は、主人公のマルティン・ベックに恋をしてしまうのではないかと心配になったくらいだ。」

何故、マルティン・ベックがこれほど多くの人に愛されるのだろうか。それは、彼がひとりの「血の通った普通の人間」であるのが大きな理由だと思われる。今では当たり前のことだが、当時はそれが新しかったのだ。彼はスーパーマンなどではない。地味で、冴えない、ごく平均的な警察官として描かれている。そして、物語では、彼だけではなく、ごく普通の人間である彼の同僚が、地道な努力を重ね、力を合わせて事件を解決していく。その過程では、数週間、数ヶ月の間何も起こらないこともあれば、大きな無駄足もある。

それまでの推理小説の主人公は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズにしても、アガサ・クリスティーのエルキュール・ポアロにしても、「失敗をしない探偵」であった。彼等の行動は、全てが事件を解決するための伏線である、つまり無駄足がない。また、その周囲の登場人物も、物語を前へ進めるためだけに存在していた。シムノンの「メグレ警部」シリーズあたりから、登場人物がだんだんと「普通の人間」、「悩める人間」になりはじめるが、まだまだ十分とは言えない。「悩める人間」が「試行錯誤を繰り返しながら」事件を解決していくという、現代の推理小説の定番は、この「マルティン・ベック」によって開かれたと言える。

フランスも書いているが、ヘニング・マンケルの描く、悩める中年男クルト・ヴァランダーは、マルティン・ベックの血を引いている。マルティン・ベック以降、推理小説の探偵は、慧眼のスーパーマンではなくなったのである。

 

***

 

(1)

The queen of crime 20091122日、英国「オブザーバー」紙、日曜版に掲載。

(2)

英国、グラスゴー出身の作家、イアン・ランキンが、1987年から発表している、刑事ジョン・リーバスを主人公としたシリーズ。リーバスには、軍隊時代に受けた非人間的な訓練によるトラウマがある。

(3)

Swedish Criminal Fiction, Novel, Film, TelevisionSteven PeacockManchester University Press 2014(英国)

(4)

ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon1903年−1989年。ベルギー出身の小説家。フランス語で執筆。メグレ警視シリーズで好評を博す。世界で最も読まれたフランスの作家は、ヴィクトル・ユーゴー、ジュール・ヴェルヌについで、シムノンという説があるほど。

(5)

ダシール・ハメット(Dashiell Hammett1894年−1961年。米国のミステリー作家。推理小説の世界にいわゆるハードボイルドのスタイルを確立した。代表作は「血の収穫」、「マルタの鷹」、サム・スペードやコンチネンタル・オプ等の探偵を創造した。

 

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