「タブー」
Tabu
2015年
<はじめに>
法廷弁護士としても活躍するシーラッハの第二作である。今回はある芸術家、写真家が巻き込まれた、死体の無い殺人事件に、ベテラン弁護士のビークラーが挑む。芸術とは何か、現実とは何かを考えさせる作品。
<ストーリー>
プロローグ
一八三八年パリ、舞台の背景画家であったダグエーレが写真を発明する。最初の写真は、靴を磨かせている男を写したものであった。ゼバスティアン・フォン・エシュブルクは、写真に写っている男が自分自身であることを感じていた。
緑
エシュブルクは、ミュンヘンとザルツブルクの間にある町である。二十世紀の初頭、企業が創立され、町は栄えたが、タイタニック号の沈没で主が死亡してから、町と創業家の没落が始まった。広い屋敷は代々の主が旅と猟で集めた獲物で溢れていたが、建物は荒れ果てていた。そんな中で、ゼバスティアンが生まれた。彼は普通の人間以上に、色を識別する能力を持っていた。十歳になったゼバスティアンは、スイスの修道院の中にある寄宿舎制の学校へ送られる。ゼバスティアンは父親の運転する車で、山の中にある学校へ向う。ゼバスティアンがそこで暮らし始めてしばらくして、彼は父親が重病だという知らせを母から受ける。彼は、父親を助けるために、深い谷に沿って歩く。
休暇で実家に戻ったゼバスティアンは、父と猟に出かける。父は鹿を射止め、それを解体する。夏休みにゼバスティアンが再び実家に戻ると、両親の仲は悪くなり、父は酒浸りになっていた。そして、ある日の夕方、銃声を聞いたゼバスティアンが父親の部屋に駆けつけると、父親は散弾銃で自分の頭を撃って死んでいた。
父の葬儀の席で、母親は、屋敷を売り払うことを、参列した親戚たちに伝える。業者が呼ばれ、屋敷の中の物が運び出される。ゼバスティアンは、父親が大切にしていた物が、容赦なく捨てられるのを見る。不動産屋が呼ばれ、屋敷は値踏みされる。
夏休みが終わり、学校に帰ったゼバスティアンは図書室に入り浸り、読書に没頭する。彼には、本の中の虚構も現実も区別がなかった。そんな彼の様子を心配した教師は、ゼバスティアンを精神科医に連れて行く。
乗馬に凝っていたゼバスティアンの母親は、屋敷を売った金で厩舎と調教場のついた家を買う。ゼバスティアンは休暇の間、その家の屋根裏部屋に住むことになる。ゼバスティアンが十六歳になったとき、母親はボーイフレンドをゼバスティアンに紹介する。「マッヒャー(仕掛け人)」とあだ名の、自信満々でお喋りな小男を、ゼバスティアンは好きになれない。二年後、ゼバスティアンの母親はその男と結婚する。
「アビトゥア(卒業試験)」を終えたゼバスティアンは、学校の先輩である写真家に弟子入りする。そして、その写真家の家に住み込み、写真の技術を学び、彼独特の技術を開拓する。数年後、師匠の写真家は次第に歳を取り、仕事は殆どゼバスティアンが引き受けることになる。学ぶものがなくなったと感じたゼバスティアンは、写真家の下を去り、ベルリンに出て、そこでスタジオを開く。そこでゼバスティアンは認められ、徐々に仕事が入り始める。
ゼバスティアンがベルリンに来て四年が経とうとしていた。ある日、ソフィーという三十代の女性が彼のスタジオを訪れる。フランスの電力会社の広告のコンサルタントをしているという彼女は、電力会社の広告に、ゼバスティアンの写真を使いたいと持ちかける。彼女は、かつてゼバスティアンの師匠のところで、ゼバスティアンの写真を見たという。ゼバスティアンはソフィーに写真を撮らせてくれと頼む。カメラの前で、ソフィーは全裸になる。
ソフィーは電力会社の人間に会うために、パリに来てくれるようにゼバスティアンに頼む。数日後パリの空港に着いたゼバスティアンをソフィーが出迎える。ホテルへ向う途中、激しい雨のために立ち往生した車の中で、ふたりはセックスをする。
ベルリンに戻ったゼバスティアンは、電力会社の広告のための仕事を始める。しかし、会社から派遣されたモデルに満足でない彼は、写真を撮ることが出来ない。ソフィーがそんなゼバスティアンを連れてマドリッドに向う。彼女は昔、ある男の情婦としてマドリッドに住んでいたことがあるという。トレド美術館の中で、ソフィーはゴヤの「着衣のマハ」と「裸体のマハ」の絵を見せる。それまでにも女性の裸体の絵は描かれたが、ニンフや女神等として正当化されていた。ゴヤは初めて「正当化されない、言い訳を許さない」女性のヌードを描いた。
「裸にされたのは女性ではなく、それを見ている男性なのだ。」
とソフィーはゼバスティアンに語る。マドリッドのホテルに戻ったゼバスティアンは、ソフィーが自分には欠かせない存在になりつつあることを感じる。
ふたりは、ゼバスティアンの故郷を訪れる。そこで、田舎に住む、ポルノ映画の監督を訪れる。ソフィーはその家を改造して、ゼバスティアンのスタジオにしようと考えていたのだ。映画監督はふたりに自分の撮った映画を見せる。それは、素人の女性が、大勢の男性から精液をかけられるという映画だった。監督は出演する男たちは、皆ボランティアであり、金を払っていないと言う。帰り道、ゼバスティアンはかつて自分が住んでいた町をソフィーに見せる。町はすっかり変わっており、自分の住んでいた屋敷の跡は、ゴルフ場になっていた。
ゼバスティアンは「マハの男たち」という作品を発表する。二枚組の写真で、一枚ではソフィーが裸で横たわり、それを服を着た男たちが取り囲んでいた。もう一枚は、服を着たソフィーを裸の男たちが取り囲んでいる。何人かはペニスを勃起させ、精液をソフィーにかけていた。彼らは皆、ボランティアで出演を引き受けた男たちであった。展示の際には、その二枚の写真を、一定の間隔で、一枚ずつ見せるという仕掛けが施された。その写真は反響を呼び、写真は金持ちの日本人に買い取らる。ゼバスティアンは大金を得る。展覧会の人ごみから逃れるために家に戻ったゼバスティアンは、ベランダで日光浴をしている、同じ建物に住むゼーニャ・フィンクスという女性と会う。彼女は、体中に傷跡があった。展覧会の成功をよそに、ゼバスティアンは独りでプールで泳ぎ、映画館へ行く。
ゼバスティアンとソフィーは、マヨルカ島で休暇を過ごす。休暇が終わり、ゼバスティアンはベルリンへ、ソフィーはパリに戻る。ゼバスティアンは、ソフィーのいないことを寂しく思いながらも、コンピューターによる画像処理を駆使した新しい作品に取り組む。
ある日、ゼバスティアンが家に戻ると、家の前で、ゼーニャが二人の男に捕まっていた。男たちは彼女をナイフで刺して逃げる。ゼバスティアンは彼らを追いかけるが、銃で撃たれる。幸い弾はゼバスティアンの頭をかすっただけで、命には別状はなかった。病院で寝ているゼバスティアンをゼーニャが訪れる。彼女は、自分はウクライナから男たちに騙されて連れて来られ、体中を鞭打つというサディスティックな見世物に使われてきた。その組織から逃げ出したが、居場所を発見され、刺されたと述べる。ゼバスティアンは彼女の願いを聞き入れ、警察には届けないことにする。
ゼバスティアンは新しい作品の最初の展覧会をローマで行うことにする。そして、そこでプロモーションのためにテレビに出演する。展覧会は好評であった。煙草を吸うためにテラスに出たゼバスティアンにひとりの若い女性が話しかける。彼女は、ゼバスティアンの下で、アシスタントとして働きたいと言うが、ゼバスティアンは、アシスタントは不要だと答える。その若い女性は去る。彼女は極めて平均的な女性であったが、ゼバスティアンは彼女に魅力を感じた。彼はそのとき、美しさが真実であると思っていた自分の誤りに気付く。真実は平均の中にあるのだと、彼は思う。
「真実は血の中にある。」
彼は父親と、父親が撃ち殺した鹿を思い出し、そうつぶやく。ソフィーが彼に近づく。
「行ってくれ。」
ゼバスティアンはそう言って、ナイフで自分の手を切りつける。
赤
検察官のモニカ・ランダウは、困難な事件を担当していた。数日前に、若い女性の声で警察に電話があった。
「車のトランクルームに拉致されている、助けてくれ。」
と女性は言い、自分の居る場所を告げる。その場所に警察官が急行する。ひとりの男がその家に住んでいた。家のゴミ箱には血のついた女性の衣服が捨てられており、家の中や、男が借りたレンタカーの中にも血痕があった。しかし、女性の姿はなかった。男は逮捕され、取調べを受ける。
その尋問にモニカも立ち会う。担当の刑事は、情に訴えたり、脅したり、何とかしてその男から証言を得ようと色々な策を弄するが、男は「知らない」と答えるだけであった。モニカは捜査、尋問に限界を感じる。しびれを切らせた刑事は、濡れたティッシュペーパーさえあれば、証拠を残さずに、おまえを殺すことができると脅す。モニカはその尋問に耐えられなくなって外に出る。モニカはその刑事に何故そのようなことを言ったのかと問い質す。刑事は、昔、自分が捜査していた誘拐事件で、捜査の遅れから幼い子を見殺しにしてしまった経験を語る。モニカは、尋問調書の中に自分の注記を書き入れる。その調書は、ゼバスティアン・フォン・エシュブルクのものであった。
青
弁護士のコンラット・ビークラーはチロルの山の中にあるホテルに滞在していた。彼は弁護士歴三十一年のベテラン、しかし数週間前に心臓発作で倒れ、医者から休養を勧められ、ホテルに来たのだった。ビークラーは田舎での暮らしが性に合わず退屈していた。彼は妻のエリーに電話をして、退屈な生活、不味い食事の愚痴を言うが、その度に、妻に最低数週間は我慢するように説得される。そんなある日、彼は事務所の若い弁護士から電話を受け取る。殺人容疑で逮捕された男が、ビークラーに弁護を依頼しているという。彼はその話を受けるように言い、車でミュンヘンに向かう。そして、ミュンヘンのホテルで、送られてきた調書を読む。彼は、容疑者の自白調書の中に書かれた、検察官による「注記」に目を止める。
二日後、ベルリン。ビークラーは拘置所で、依頼者のゼバスティアン・フォン・エシュブルクに面会する。ゼバスティアンは、自分は殺したとの自白調書に署名したが、それは強制されたもので真意ではないと述べる。ビークラーは、誰か他の犯人がいる可能性をゼバスティアンに尋ねるが、彼は誰もいないという。ビークラーはどうして自分を弁護士に指名したのかとゼバスティアンに尋ねる。彼は、ビークラーが「真実」と「現実」の違いを理解できる数少ない人間のひとりであるからという理由を挙げる。
公判を前に、ビークラーは裁判長と検察官のモニカ・ランダウと会う。彼は、自白があるものの、取り調べをした刑事が、拷問をするという脅しをしたこと、また、殺人事件というが死体がないこと、そのことから、これを殺人事件として立証することは無理があると述べる。被害者が特定されていない犯罪は有り得ないと述べる。それに対して、検察官のモニカは、DNA鑑定の結果、被害者が特定されたと述べる。衣服に付いていた血液、ゼバスティアンの住まいで見つかった血液の持ち主は、ゼバスティアンの異父兄弟、または異母兄弟のものであった・・・
<感想など>
シーラッハの小説の特徴だが、極めて即物的な短い文で、淡々と語られる。文の構造が簡単で関係代名詞などが殆ど使われていない。また凝った比喩などもない。だから、スラスラと読める。写真家のゼバスティアン・フォン・エシュブルクを主人公とした「緑」という前半が終わり、検察官のモニカ・ランダウを主人公にした「赤」という章が唐突に始まる。
しかし、不思議なストーリーである。どこまでがゼバスティアンの想像なのか、どこまでが物語の中の「現実」なのか、その境目がよく分からない。また、ゼバスティアンがそもそも裁判にかけられた「若い女性の殺人事件」の「真相」もよく分からないままに話が終わる。更に、物語の中に登場する、ゼーニャ・フィンクという女性の「実在」もよく分からない。そもそも、この物語のテーマは、「現実」、「真相」、「実在」というものに、問いを投げかけることにあるのだから、当然のことかも知れないが。
ゼバスティアンは、ビークラーを自分の弁護士に指名した理由として、
「あなたはWahrheit (真実、真相)Wirklichkeit(現実、実在する物)を区別できる人だと信じるから。」
と述べる。そして、それを説明するために、法廷で彼自身が陳述を行う。それは、彼自身の話と、コンピューターグラフィックスのビデオで行われる。彼は一七七〇年に、ヴォルフガンク・フォン・ケンペレン男爵の作った「チェスをするトルコ人の人形」の話をする。その人形は、当時の宮廷で、次々と強い相手を破っていった。その人形、機械仕掛けのように見せているが、実は中に人が入っていたという。しかし、それを当時は誰も見破ることができなかった。
「真実」:中に人間が入ってチェスをしている。
「現実」:機械仕掛けで動く。
そして、当時はその「真実」と「現実」が違うことに、誰も気づかなかった、とゼバスティアンは言いたかったのだろうか。これはあくまで読者である私の想像である。解釈については、本の中に何も書かれていない。
その他、最後まで説明されないことが沢山ある。プロローグに出て来る、世界で最初に写された写真を見て、ゼバスティアンが、そこに写っているのは自分であると考える描写は何を意味するのか。また、ゼーニャ・フィンクが本当に存在したか女性なのか、ゼバスティアンの空想の中の人物なのか。この辺り、ゼバスティアンが、普通の人間以上に色を認識する能力を持っていた、また、在学中、本の中に存在する虚構と現実の区別がつかなくなり、精神科医に連れて行かれた、そんなエピソードが添えられ、読者による解釈の幅を広げている。しかし、この本の解釈について「正解」、「確定版」というのは、出てこないと思う。
シーラッハの第二作であるが、前作の「コリーニ事件」に引き続き、法廷でのシーンが見せ場になっている。一見動機の不明な、謎のような被疑者の行動を、弁護士が裁判で明らかにしていくという設定である。その描写の迫力は、自身が法廷弁護士であるシーラッハの真骨頂と言える。
読み終わっても、謎が完全に解決されないフラストレーションは残る。しかし、巧みに構成され、読者を否応なしに引き込む魅力を備え、しかも読み易いという、類まれな作品である。
(2016年8月)