アウシュヴィッツ、広島、そして・・・
キガリの記念館には壁に犠牲者の名前が刻まれている。今も増え続けているという。
「当時、コソボで同じような事態が起きており、ヨーロッパから近いこと、当事者がキリスト教徒であるという理由で、皆そちらに気を取られていたのです。ルワンダの危機など『部族同士の争い』くらいにしか考えられていませんでした。」
とダレールは後年、キガリ大学での講演でそう述べている。
「元はと言えば、馬鹿な『先進国』の植民地政策と、無関心の犠牲者でもあるんですね。」
と僕はエミーさんに言わざるを得なかった。
「今、私たちは、殺された人の身元を明らかにして名簿を作ろうと努力をしています。でも、それは難しい作業です。」
とエミーさんは言う。
「つまり、家族や親族が全員殺され、残っている人がいないから、身元を確認することができない、という意味ですか。」
と僕は彼に聞く。彼は寂しそうに言った。
「おっしゃる通りです、モトさん。私たちはこの場所を、できるだけ当時のままで残そうとしています。」
田舎の教会のこと、礼拝堂は粗末なレンガ造りで、他の建物は日干しレンガの壁、トタン葺きの屋根である。おまけに、虐殺者によって、壁や窓枠などが破壊されている。自分の身を守ろうとした人々も必死で抵抗したのだろうが、虐殺者たちは窓や壁を叩き割って中に進入するか、隙間からガソリンを流し込んで火をつけた。その破壊された跡がそのまま残っている。
「そのままでは、日差しや雨で、これらの建物は直ぐに崩壊するでしょう。我々は屋根を作って保護しています。」
と、エミーさん。主要な建物の上には鉄骨が組まれ、屋根が作られていた。
先にも書いたように、僕は前日首都キガリにある虐殺記念館を訪れていた。ルワンダには各地にこのような記念館がある。毎年四月に「虐殺追悼週間」があり、各地でセレモニーが行われている。Gさんによると、セレモニーの会場には救急車が待機しているという。フラッシュバックを起こして倒れる人が今でもいるという。よく分かる。しかし、キガリの記念館は、あまりにも「きれい事」過ぎた。背景などの知識を得ることが出来たが、全てにフィルターがかかっており、あまり胸を打つものではなかった。その夜、僕はGさんに、ダレール司令官の訪れた、頭蓋骨の並んだニャマタの教会跡に行きたいと言った。Gさんは、知り合いのタクシーの運転手に連絡してくれた。僕はその運転手、アネステゼさんの運転で朝八時にキガリを出て、九時前にはニャマタに到着。その日の最初の訪問者として、エミーさんと一緒に記念館を回ったわけである。
キガリからニャマタに向かう四十五分ほどの間、僕は助手席に座りアネステゼさんと色々と話をした。それは楽しかった。帰り道はさすがに無言の時間が長い。
「ごめんね、ちょっとショックを受けてるもので。」
と僕が言うと、アネステゼさんが言った。
「分かります、皆そうだから。」
僕はアネステゼさんに言った。
「人間が過去の過ちを繰り返さないために、訪れるべき場所が世界に三つあると思う。ひとつはアウシュヴィツ、もう一つは広島の原爆記念館、そして三つ目がニャマタ。」
何千人もの人が眠る共同墓地には花が供えられていた。