「首都」?「首村」?
ブドウ畑の背後にそびえる岩山に登っていく。
その日、日本のJRほどではないが、時間に正確なDB(ドイチェ・バーン、ドイツ国鉄)にしては珍しく、ダイヤが乱れていた。ケルンに着いたときには十分の遅れ。その後、ウルム行きの「インターシティー」にボンまで一駅だけ乗るのだが、それも大幅に遅れて、十二時三分前にやっと列車はボン中央駅に着いた。マンフレッドとの約束は十二時だったので、滑り込みセーフ。列車を降りたら、マンフレッドが迎えに来てくれていた。彼は、今働いている会社の同僚である。
駅前に停めてある車の中に、彼の奥さんが待っておられた。クリスティーネというお名前。ちょっと低めの抑えた声で、静かに話される方である。デートレフの奥さんのビアンカは、高い声で抑揚のある話し方だったので、その差に最初ちょっと戸惑ってしまった。おふたりはボンからライン河を挟んで対岸の、ケーニクスヴィンターという場所に住んでおられる。
ボンは僕にとって馴染みの深い場所である。ドイツに住んでいた二〇〇〇年に、初めてフルマラソンを走ったのがボン。結局二回ボンマラソンに出場した。市役所広場、ベートーベンの生家の前がスタート。主にライン河の畔を走るコース。起伏は少ないし、参加者も三千人くらいと小規模で、走り易かった。僕はこのコースを気に入っていて、英国に戻ってから、もう一度ボンまで走りに来たこともあるくらい。
ボンは、人口三十万人ほどの小さな町にも関わらず、一九四九年から一九九〇年まで、西ドイツの首都であった。
「西ドイツの首都はボン。」
と子供の頃、良家のボンボンである僕は覚えたものだ。ちなみに日本で同じくらいの人口がある都市は、高知市、福島県の郡山市など。ボンが首都になると聞いて、ドイツ人は皆驚いたという。
「えっ、それどこ?」
と言う人も多かったとのこと。
「今日から高知市を首都にするぞ。」
なんて決まったら日本人は皆びっくりするよね。その後も、
「あそこは『首都』(ハウプトシュタット)ではなく『首村』(ハウプトドルフ)だ。」
なんて陰口もたたかれていた。首都がベルリンに移った今でも、国連関係の機関がボンに残っている。小さいけれど、政治的には重要な都市なのだ。
「お腹減ってない?」
とマンフレッドが聞く。
「二時間前にたっぷり朝ごはんを食べたから、全然減ってない。晩御飯まで大丈夫だと思う。」
と僕。それで、僕たち三人は、早速歩きに行くことになった。目指すは、ボンの対岸にあるケーニクスヴィンターの街の背後に聳える、「ドラーヒェンフェルス」(竜の岩)と呼ばれる古城である。
途中、ライン河を見下ろせる場所が随所にある。雨の少ない夏の後で水量は少ない。