回想シーン
一言も喋らなかった子役の男の子が一番大きな拍手をもらっていた。
第一幕で、どうしてキムがクリスと一緒に米国帰ることができなかったのか、詳細は明らかにされていない。クリスが、米国でアメリカ人妻と暮らしていることから、
「やっぱりダメだったのか。」
と、想像がつく程度である。実際に何があったかは、第二幕のキムの回想シーンで語られる。
映画やテレビだと回想シーンというのは比較的簡単であろう。先にまとめて撮っておいて、あとで流せばよいのだから。ところが舞台ではこれがなかなか大変そう。最初はアンサンブルの俳優さんたちはアメリカ兵を演じている。南ベトナムが崩壊し、米軍が撤退した後のシーンでは、ベトナム兵を演じる。そこに十分ほどの回想シーンが入ると、その間だけまたアメリカ兵に扮することになる。わずかな時間に衣装をとっかえひっかえしなくてはならないわけで、おそらく舞台裏はとても忙しいことになっていると思う。ご苦労様である。
アメリカ大使館は閉鎖され、キムを含む大勢のベトナム人が、出国ビザを持ちながら取り残される。最後のヘリコプターが大使館の構内から飛び立つ。まさか、ヘリコプターは現れないと誰でも思うところ。ところがギッチョンチョン、ヘリコプターが出てきてしまうのだ。まずバリバリというヘリコプターの音が、客席の後方から聞こえ、その音がどんどん大きくなりながら舞台の方に移動してくる。最後は耳を覆いたくなるほどの轟音である。そして、ヘリコプターの胴体が舞台の上方から現れる。ローターは回っているが、プロペラはもちろんない。梯子が掛けられ、クリスとジョンが乗り込む。柵の外では、ベトナム人たちが、
「俺たちを置いていくな。乗せてくれえ。」
と叫んでいる。ヘリコプターは轟音とともに上昇していく。いやはや、こんな大掛かりな装置は後にも先にも見たことがない。度肝を抜かれる演出であった。
クリスがバンコクに来ていることをジョンから聞かされて、キムはホテルに駆け付ける。しかし、そこにいたのはクリスではなく、妻のエレンであった。時間が止まる。衝撃的な一瞬である。キムは息子をアメリカに連れて行ってくれとエレンに頼むが、エレンは、子供は母親と一緒にいるのが一番幸せだと言って断る。キムは走り去り、最後はクリスから預かった拳銃で自らを撃って死ぬ。
あれ、これって、どこかで聞いたストーリー。お察しの通り、プッチーニのオペラ「マダム・バタフライ」である。マダム・バタフライは、かつての恋人で米国軍人のピンカートンの帰りを、息子と一緒に待つ。そして、三年後ピンカートンが戻ってくる。アメリカ人の妻を連れて。マダム・バタフライは失意の余り自殺する。一緒である。プッチーニが今生きていて、著作権がまだ残っていたら、絶対に盗作騒ぎになっていると思う。
最後のシーンは、キムがクリスの腕の中で死んでいく。涙を誘う。
そして、カーテンコール。なかなか良く考えられた舞台で、それぞれ俳優さんの個性も光っていて、満足できるものであった。観客の拍手はスタンディングオベーションに変わる。事実、それに値するものだったと思う。エンジニア役の俳優さんとキム役の俳優さんに拍手が集まったのはもちろんだが、一番大きな拍手をもらったのは誰でしょう。それは、キムの息子役の小さな坊やだった。
カーテンコール。観客はスタンディングオベーションで応える。