テロ事件の翌日
なかなか格調の高い、プリンス・エドワード劇場の内部。
十一月のある土曜日、翌日が末娘の誕生日ということで、僕と妻、ふたりの娘、末娘のボーイフレンドという五人で、ミュージカル「ミス・サイゴン」を見に行くことになった。ロンドンの繁華街、ソーホにある「プリンス・エドワード劇場」での公演である。
前日の夜、パリでイスラム過激派によるテロ事件が起き、サッカー場や劇場、カフェなどが襲撃に遭い、百二十人以上の方が犠牲になった。土曜日の朝は、日本の友人から、
「大丈夫?」
と、安否を気遣うメールがあった。僕が今年、何度も仕事でフランスに行っているのを皆知っているから。そんな時期、ロンドンの繁華街へ行くのはちょっと心配だったが、
「まあ、テロ事件の起こった翌日は、皆が警戒しているし、警備も厳しいからかえって安全かもね。」
と自分と家族に言い聞かせ、夕方に妻と真ん中の娘と三人で家を出た。地下鉄の通っている場所まで車で行き、駅前に車を停め、地下鉄でロンドンのウェスト・エンドに向かう。レスター・スクエア駅で地下鉄を降り、外に出ると、雨模様に関わらず、真っ直ぐ歩けないほどの人出。
「テロ事件の影響なんて微塵もないね。」
と妻に言う。そこには、いつもの土曜日の夜の盛り場の風景があった。
ピカデリー・サーカスで末娘と落ち合い、劇場に向かう前に、末娘ご推薦の店、「本格博多風トンコツラーメン・ライジング・ドラゴン」で腹ごしらえをする。「本格博多風」と書いてあるのだが、英国人に合わせるためか、かなりマイルドな味付け。皆美味しかったと言うが、トンコツスープ独特の、良く言えばコク、悪く言えば動物臭さが抑えてあり、僕にはちょっと物足らない味であった。
妻と僕は、ボーイフレンドと待ち合わせているという娘より一足先に劇場の中に入る。内部は、なかなか古式床しい造りである。一九三〇年に開場した「プリンス。エドワード劇場」は、大きくも小さくもなく、クリーム色の壁、濃い赤の椅子や調度が、伝統を感じさせる。席に着くと、ストール(舞台前の平土間)の何と前から七列目。これまで、何度となくミュージカルを見たが、こんな良い席で見るのは初めて。よくこんな良い席の切符が四十ポンド(七千円ほど)で取れたものだと思う。末娘が、数日前の会社の昼休みに、レスター・スクエアにある安売り切符のブースで買ったとのことだった。
「よくやった、スミレ。」
僕は、末娘を褒めてやることにした。
しかし、考えれば考えるほど、「ミュージカル」というのはおかしな世界である。本を読んだり、演劇を見たり、テレビや映画を見たりして、多くの人は、
「この作品にはリアリティーがない。」
とか
「この物語には必然性がない。」
などと言うことをすぐに言う。しかし、ミュージカルというのは、「リアリティー」とか「必然性」からかけ離れた世界なのである。
冒頭はサイゴンのナイトクラブ。色っぽいお姉さんたちが、きわどい衣装で登場。中央がオーナーのエンジニア。右端が主人公のキム。