ノアの箱舟でマヨルカ島へ
暖かくなると、仕事帰りの人々がパブの外で飲んでいる。
英国気象庁並びに水道会社によると、二年続けて雨の少ない冬を経験した英国は「旱魃」(かんばつ)だという。三月に入り「ホース・パイプ・バン」(ホースによる草木への水やりや、スプリンクラーの使用禁止)が発令された。皮肉なもので、そのとたんに連日の雨。四月には、これまでの月間降水量の記録を更新し、あちこちで大雨や洪水の被害が出た。誰もが真剣に、ぼちぼち「ノアの箱舟」が必要じゃないかと思ったくらい。しかし、それでもまだまだ「旱魃」なのだという。いくら川や貯水池の水量が増えても、地下水のレベルが低いからというのが理由。不思議なものだ。
僕は正直ちょっと疲れていた。昨年来、父の病気見舞いや葬儀のため、有給休暇を全部日本行きに使っていたし、父の葬儀の後も出張続き。精神的にも肉体的にも何となく不安定。
「どこか暖かい所へ行って、太陽の下でノンビリしようよ。」
と妻に言うと、彼女も同意。それで、五月の末、マヨルカ島で一週間の休暇を過ごすことになった。
またまた皮肉なもので、出発の数日前から、英国も急に暖かくなりだした。マヨルカ島に発つ前日は気温が二十度を超えた。出発の前日、僕は車がなかったので、会社の帰り電車に乗り、パディントン駅で乗り換えた。
「まあ、休暇の前だからいいか。」
と、パディントン駅前のパブに立ち寄り、ビールを飲みながら、前を通り過ぎる仕事帰りの人々を眺めていた。つい数日前まで、コートを着てスラックス姿だったお姉さん達が、肩を出したワンピース姿で通り過ぎていく。
「女性の変わり身は早いなあ。」
僕はビールを飲みながら、お姉さん達の、まだ日焼けしない白い素肌を眺めていた。
マヨルカ島は、スペインのバルセロナの沖に浮かぶ四つの島のひとつである。その存在については、二十年以上前ドイツに住んでいる頃から「知りすぎるほど」知っていた。この島はドイツとの結びつきが強い。ドイツ人の同僚や友人達の多くが、マヨルカ島で休暇を過ごしていた。つまり、その頃からドイツ人に超人気のある保養地だったのである。
十年前、再びドイツで働いているとき、夕方いつも事務所にやってくる掃除婦のおばちゃんと仲良くなった。おばちゃんがある日、
「明日からしばらく来れないからね。」
と僕に言う。
「おばちゃん、どないしたん?具合でも悪くて入院でもするの?」
と聞くと、
「明日から二週間、ウアラウプ(休暇)でマヨルカに行くんだもん。」
とのこと。僕は少しマヨルカ島に興味を持った。
「う〜ん、掃除のおばちゃんでも行ける場所、行きたい場所。どんなところなんだろう。」
ロンドン・ルートン空港からマヨルカ島へ出発。着いたときにはコードは要らない。