上手にグレるには
生母の作ってくれた夕食。生母も食事を写真に撮る癖がある。
「今日はなかなか楽しかったな。」
とタクシーの中で僕は考えた。カズヨはニュージーランドに住んでご主人とペンションを経営している。何処であれ、外国に住んでいる人とは、考え方に共通点がある。それだけに話していて疲れないのだ。
どんな共通点があるかと言うと、例えば、
「男女は結婚する前に一度一緒に住んでみるべきだ。」
と言う点。これは欧米社会では結構常識だと思う。恋人としてたまに会っているときにはお互い気にならないことも、一緒に住み始めると気になることがある。
「一度一緒に暮らして、お互いを曝け出して、それでも大丈夫なら結婚しましょう。」
それなりに理に叶っていると思うのだが。
それともうひとつは、
「大人も子供も『ぐれる』ことが必要だ。」
ということ。「良い人間であり続けること」は非常に疲れる。僕も「良い夫、良い父親、良い隣人、良い同僚」を演じ続けることに疲れ果てることがある。どこかで「ぐれ」て、息を抜かなければ、世の中、とてもやっていけないと思う。
「いかに上手に『ぐれる』かがポイントね。」
とカズヨが言った。
「ケベは上手にグレてるわ。」
と彼女は褒めてくれた。光栄だ。
日本へ帰って日本に住む誰かと話そうとすると、まずお互いに住んでいる世界が余りに違うので、まずその背景の説明をしなければならない。その背景の説明に時間がかかって、いざ「本題」を話す頃には疲れてしまうことがある。
「ああ疲れた、もうええわ。」
とそこで話が止まってしまう。しかし、今日話したおふたりは、そんな背景の説明なしに、いきなり本題に入っていける。そういう意味では三人は「同類」なのだと思うし、貴重な話し相手であると思う。
これまで日本に帰って、同窓会的な集まりに出ることが数回あった。当時は三十代から四十代、「子供の教育」が誰にとっても最大の関心事である年代だったのだろう。当然、「子供の教育」、「子供の学校」が話題になる。
「あんたの息子さんどこの学校行ったはんの?」
そうなると、僕はもう付いていけない。僕の子供達は英国で教育を受けているので、日本の教育制度については殆ど知識がないのだ。そこに「テレビ番組」の話なんかが出るともうダメ。僕は何時の頃からか、京都へ帰っても、限られた友人に会うだけになり、「集まり」には出ないようになっていた。だって、何を話していいのか分からないんだもの。
鉄筋コンクリートの家が増えて、昔の町家は少なくなっていく。