嘘をついてもいい職業
夏の太陽に白い砂がまぶしい下鴨神社。
「ひもろぎに梅干す巫女の紅襷」(弘子)
継母の句である。某著名俳句同人誌の巻頭を飾った。「ひもろぎ」というのは、神社の境内のこと。母は京都北野天満宮をイメージしているという。天神さんと言えば「梅」。お参りに行くと、境内で干した梅を売っている。
「世界で一番高うて不味い梅干しや。」
と母は言う。梅林で採れた梅の実を巫女さんが干す作業をしている。その紅色の襷(たすき)が艶やかだ、そんな情景であろうか。
「ほんまは、巫女さん、赤いたすきなんか、してはらへんかった。」
と母。
「していたら艶やかやろな。」
という気持ちで書いたという。いわば「創作上の虚構」である。母は割り切っていて、
「芸術のためなら、多少嘘はついてもかまへん。」
というスタンス。それには僕も同調する。僕も、良い絵を描くためには、多少実際にあるものを変えたり、ないものを加えたりしている。僕は嘘が嫌いだ。人間として、嘘をつくことは最大の過ち、一番やってはいけないことだと思う。嘘がバレると、信用を失うだけでない。嘘をついていることで自分の心も蝕まれていく。しかし、嘘をつくのが「仕事」の政治家以外に、「唯一嘘をついてもいい商売」それがあるとするならば、それは、アーチスト、芸術家だと思う。母に言った。
「良く分かる。僕もそうすることがある。例えば、この前、祇園祭の絵を描いて、浴衣を着た若いお姉ちゃんたちを登場させたん。ほんまは皆マスクをしたはったんやけど、絵ではそのマスクを全員に外してもろたん。」
しかし、俳句と絵は似ていると思った。普段暮らしていて、目に入って来るものを常に鋭く観察している。良い題材があれば、その一部を切り取る。そして、その一部をアレンジしてひとつの作品に仕上げる。母のしている作業の楽しさ、難しさが分かった気がした。
もうひとつ驚いたのこと。母は、去年、その著名俳句同人誌の正式会員になれたという。いわば新人。しかし、母はそのとき九十歳。しかし、仲間内では「新人」、「若手」扱いだという。俳句というのは、何と奥の深い世界なのだろうか。
午後四時、継母の家を辞して、自転車で生母の家に戻る。
「あれっ、セミの声がしいひん。」
紫明通は木が多く、普段なら、セミの声がうるさいくらいなのに、妙に静か。
「セミも鳴き止む暑さなんや。」
祇園祭の頃は、比較的涼しかった。そのときは、御池通はうるさいほどのセミの声で溢れていた。しかし、気温が三十八度の今日は、セミも暑くてお休みらしい。自転車で走っても、熱風がまともに身体に当たり、じっとしているより暑かった。関東では四十度の便りが聞かれる。
近くの建勲神社。良い散歩コースなのだが、「殺人的」と形容される暑さで、昼間は散歩どころではなかった。