鷹山の挑戦
組みあがった山で練習をする人々。(朝日新聞ウェッブサイトより)
「どんなしたら、こんな大規模な祭を組織できるんやろ。」
話は祇園祭に戻る。今回、山鉾町の人の組織力に感心することが多かった。あれだけの大規模な山鉾を組み立て、お囃子をする人に練習してもらい、更に巡行ではそれを引き回す。おそらく、一基につき何百人という人が関与しているであろう。それには綿密な計画と、組織力が必要なはず。わずか数百世帯の「山鉾町」の人々で管理、運営されているというのは、驚きに値する。もちろん、千年以上続いている行事、その間にノウハウも蓄積され、ある程度はマニュアル化されているので、可能な部分も多いと思う。「歴史の力」である。僕は、その舞台裏を知りたくて、YouTubeやウェッブで、祇園祭についての情報を集めた。その中で、多くの人々が取り上げていた、感動的な話題があったので紹介したい。
それは、今年から復活した「鷹山」という「山」である。この山、ずっと祭に参加していたが、江戸時代の後期、一八二六年に大雨や火事に遭い、参加を取りやめ、「休み山」になってしまった。それが、今回百九十六年ぶりに「復活」するということで、話題になっていた。先ほども書いたが、これほど大人数が関与するイベントになると、これまで蓄積されたノウハウが物を言う。「復活」と言っても、何も残っていないので、鷹山は、ほぼゼロから、ノウハウやマニュアルなしのスタートであった。「山」を設計し、部品を調達し、組み立ててみて、何度も試運転をして、完成に漕ぎつけるまで、最初にアイデアの出た時から、十年の年月が必要だったという。YouTubeに載っていたドキュメンタリーのひとつでは、発案者が感動の祭の日を迎える様子が描かれていた。「俺の世代で復活させないと、二度と復活することはない」という、鷹山の町内に住む発案者の、強い意志が印象的だった。
また、他のドキュメンタリーでは、組み立てを担当する係、音楽を担当する係、鉾を引く係のたちの姿が描かれていた。これも、経験者がいないのである。これまで他の山鉾で経験を積んだ人たちに指導係になってもらって、未経験者を教育し、一人前に育てて行く過程を描いた動画。数カ月前に、山を別の場所で初めて組み立て、初めて引いて、辻回しなどの練習をしてみる。しかし、最初はなかなか上手く行かない、失敗の連続。しかも鷹山のある三条通りは狭くて、辻回し自体が難しい場所。何とか本番に漕ぎつける、これも感動的なストーリーだった。ともかく、鷹山の映像記録は、祇園祭の裏舞台を知る上で、僕にとって、貴重な資料であった。
「あんた、それだけ調査をしたのやから、実際、鷹山が稼働するのを見に行ったんやろね。」
と言われるであろう。しかし、僕は実際鷹山が動くのを見ていない。
「なんでやねん。」
それは、祇園祭には十七日の「前祭」と、二十四日の「後祭」のふたつがあり、それぞれ違う山鉾が巡行するからである。鷹山の出る二十四日は、僕は金沢から京都に戻る日。京都に着いたときには、すでに巡行は終わっていた。これが本当の「後の祭り」。
三条通りで初めて組み上げられ、引き初めが行われる。白木の色が初々しい。(中日新聞ウェッブサイトより)