桃源郷

 

上離宮の「窮窪亭」庭を眺めながらここに佇んだら、最高の気分だっただろう。

 

下御茶屋(しもおちゃや)を出て、入った時と反対側の門を潜ったとき、皆が歓声を上げた。余りにも、広々としていた場所が広がっていたからだ。棚田が広がり、その間に枝ぶりの松の木を配した道が延びている。そして、借景に山の緑。借景は山だけではない。見下ろした際の里の方も、立派な借景になっている。

「両側の田んぼも、修学院離宮の敷地です。近所の農家の人たちに耕してもろうています。後ろの山も敷地です。その向こうの比叡山は・・・残念ながらうちのものではありません。」

とガイド氏が言った。離宮の総地面は五十四万平方メートルという。ピンと来ないが、甲子園球場のグラウンド面積は千三百平方メートル、その四十一倍ということになる。広さが何となく分かってもらえると思う。借景の山が私有地だと、家が建ったりする危険性もあるわけで、幾つかの山は、離宮からの景観を守るために、後で買い足されたとのことだった。

中御茶屋(なかおちゃや)を見学した後、最上層の上御茶屋(かみのおちゃや)に登る。最後に石段を登るのだが、ガイド氏が、

「一番上まで上がるまで、後ろを振り返らないでください。」

と何度も念を押す。それほど天邪鬼ではない僕は、正直に後ろを見ずに登り、登り切ったところで振り返った。

「・・・」

言葉にならない。眼下には池をあしらった庭園、その向こうには植え込み、田と松林、その後ろは狭い市街地があり、借景の山。最初にも書いたが、

「『桃源郷』というイメージを形にしたら、こんな景色になるのかも。」

と思ったのはその時だった。上御茶屋で十分ほど休憩する。

「こんな景色に説明は要りません。私は黙ります。」

と言いながらも、ガイド氏は夏目雅子さんを案内したときの話などをしている。昼近くになり、気温が少し上がってきた。丘の上を吹き渡る風が心地よい。

「離宮」は天皇の「別荘」ということになるが、ここに立っている建物は、休憩用のものだけで、宿泊施設ではないとのこと。つまり、後水尾天皇(当時は引退して上皇)は、朝御所から輿に乗ってここまでやって来られて、夕方には戻られたということになる。しかし、歩いたら御所からここまで二時間以上はかかるのではないだろうか。

「江戸時代、天皇家や公家は貧乏だったと聞いているのに、どうして、後水尾上皇には、こんな大規模な造営工事ができるだけの金があったのだろう。」

僕は不思議に思った。江戸時代の初期に作られたこの離宮、建物は遥かに粗末だとは言え、土木工事の規模だけを考えれば、ベルサイユ宮殿にも匹敵すると思われる。後で調べたのだが、後水尾天皇の婚姻関係にあるらしい。二代将軍徳川秀忠の娘を妻にしていたのだった。一種の政略結婚だと思うが、少なくとも、天皇は幕府より、莫大な金を貰っていたのだった。

 

振り向いちゃいけないって言っているのに、振り向いちゃったおばさん、日本語が分からない英国人。

 

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