三つの夢

 

内灘海岸にて。貝殻が白い模様を作っている。

 

大学に通うために金沢に来て、最初はある家に下宿をしていた。ごく普通の家の二階の三つの部屋に、三人の学生が暮らし、下におばさんと娘さんが住んでいた。下宿に入った翌日の朝ご飯のときのこと。大学の入学式はまだ数日後で、僕はその日何をしようかと思っていた。そのとき、おばさんが、

「内灘海岸へ行って来たら?金沢へ来た人はたいていあそこへ行って感激してるから。」

と言った。僕は、そのアドバイスに従うことに決め、金沢駅までバスに乗り、そこから電車に乗り、内灘駅で降り、そうしてこの道を歩いていた。もう四十年以上前のこと。まだ、四月の初めで、海は鉛色をしており、風も冷たかった。そこは海岸というより砂丘だった。朝鮮戦争の頃、米軍の試射場として使われていた海岸には、まだカマボコ型の壕が立っていた。でも、海のない京都から、海の近くに引っ越して来て、何となく嬉しかった。当時は、故郷の京都を離れて、新しい環境での自分「ニュー・モト」のデビューの頃、何もかもが新鮮だったこともあるが。

下宿のおばさんは、悪い人ではなかったが、食事が余りにも粗末だったのと、ガールフレンドが出来たことで、半年ほどでアパートに移った。「弥生荘」というアパートで、家賃が一万円。台所は付いていたがトイレは共用。隣にヤクザのお兄さんが住んでいた。ビールのケースを並べて、その上に畳を乗せて「ベッド」も作った。名付けて「キリンベッド」。

話は飛ぶが、僕は三種類の同じパターンの夢を繰り返し見る。そのひとつが、この金沢の「弥生荘」に戻るという夢だ。実はそのアパートを僕は解約をしておらず、今も僕を待っていたという夢。僕の荷物ももちろん残っている。実際にはもう取り壊されているだろうが。

ふたつ目のパターンは、締め切りが数か月後に迫ったのに、まだ修士論文を書き始めていないとい夢。何故か他の仕事に忙しくて、気が付いたら締め切りまで数か月。どうやって論文をでっちあげるか、頭を抱えている、そんな夢。実際には、僕は修士論文を早めに仕上げ、一月八日が締め切りなのに、十二月に帰省する前にもう提出した。

「川合くん、本当にもうこれでいいの?」

と事務の人に念を押されたことを覚えている。

三つ目のパターンは、ドイツのマーブルクの工場でまた働き始めるというもの。その工場で、僕は卒業した年から、六年余そこで働いていた。その工場で、また働くことになり、昔の同僚に挨拶をしているという夢。もちろん、当時の同僚はもう誰もいないだろうし、亡くなった人々も多いだろう。

金沢の「弥生荘」に住んでいたのは四十年前、修士論文を書いたのも、マーブルクで働き始めたのも三十数年前。なのに、まだ夢に見る。

「きっと、それらのイベントは、僕の心の中で、結構重要な意味を持っているんだ。」

と再認識する。本当にフロイト博士ではないが、夢というのは、自分の意外な一面を知ることができて面白い。

 

浅野川線の終点、内灘駅。何とここまで観光に来た、オーストラリア人と出会った。

 

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