金沢で変わったこと
僕の通っていた金沢大学の前身、第四高等学校(四校)の建物。井上靖さんも通った。
内灘海岸で、しばらく砂浜に座って、打ち寄せる波を見ている。僕は打ち寄せる波を見ているのが好き。五年ほど前も、ニュージーランド南島の西海岸で、何時間も波を眺めていた。あれは良かった。左右五キロに渡って、海岸には僕の他に誰もいなかった。たった一人で何層にもなって打ち寄せる波を見ているのは感動的だった。あれが自分の転機にもなったような気がする。吉田兼好の書いているように、川の流れや波は、二度と同じものが現れない。それが良い。天気の良い日曜日の午後、海岸には何台か車が停まり、人々が海岸沿いを散歩している。波が運んできた白い貝のかけらが、波打ち際に抽象画のような模様を作っている。
結局金沢には八年間いた。ずっとここに住むのではないかと錯覚するくらい、僕の第二の故郷になりつつあった。北陸の天気や、雪にも慣れた。しかし、就職が決まり、僕は金沢を離れることになる。そして、その後一年間は目まぐるしく住む場所が変わった。富山県黒部市、ドイツ、ゼーリゲンシュタット市、同じくドイツのマーブルク市と次々に移り住んだ。そして、二十数年前に英国移り、それからずっと英国にいる。
その後も金沢には毎年のように来ている。それは、妻の実家があり、義父母や妹夫婦が住んでいるからだ。
「えっ、モトさん、独りで奥さんの実家で泊めてもらうの?!」
友人の何人かには驚かれた。過半数は、
「独りでは、配偶者の両親の家に、絶対行かない。」
と言った。僕は、結構早い時期から、独りで日本に帰ったときも、義父母の家に泊めてもらっていて、それが当然だと思っていた。まあ、ともかく、配偶者の両親と良い関係であるなら、それに越したことはないと思う。
内灘海岸に行く前日の朝、僕は東京のお台場にいた。そして、昼前の北陸新幹線に乗った。東京から金沢まで新幹線に乗るのは初めて。何と二時半にはもう金沢に着いた。しかし、何となく味気ない。高崎を過ぎるとトンネル。軽井沢を過ぎると長野までまたトンネル。長野を過ぎると、本当に長いトンネル。それを過ぎると、もう新潟県に入っていて、右側に遠く日本海が見えた。金沢に着いた夜は、妹夫婦も交えて食事。昔は、義理の弟とは、ふたりで一升を空けるくらい飲んだものだが、今は二人とも大人しい。弟と言い合う。
「お互い、随分、酒の量が落ちたよな。やっぱ、歳だね。」
最近金沢に帰って、変わったなと思うことがふたつ、正確に言うと、グッと増えたなと思うこと。それは「外国人観光客」と「ノドグロ」。翌日金沢の観光地の幾つかを訪れたが、五人に一人は外国人だった。金沢は昔から観光地だが、東京からの新幹線が開通した二年ほど前から、外国人が激増したようだ。もうひとつの「ノドグロ」は、「アカムツ」とも呼ばれ、文字通り喉の黒い魚。近江町市場へ行っても、寿司屋へ行っても、今一番人気のある魚のようだ。昔からあることはあったが、いつの間にか脇役が主役になってしまった感がある。
「金沢の台所」近江町市場の魚屋さん。市場には観光客相手の店が増え、鮮魚店や青物店はグッと減った。