父の書道
自分で墨を磨って、書道をする父。上手下手を超越した世界だ。
父は六月に肺炎を起こして以来ずっと入院している。その間、正直何度か危ない局面もあった。八月、父の見舞いに帰り、ロンドンに戻るために別れるときは、おそらくもう二度と生きて会えないものと、父も僕も覚悟をした。しかし、その後父は持ち直した。
父がリハビリで書道をやっていることは知っていた。友人のトモコが父の見舞に行ってくれた折、父の書いたものが病室の壁に貼ってあるのを携帯で写真に撮って、メールで送ってきてくれたからだ。
京都に着いた日の午後、僕は鴨川の畔にある父の病院を訪ねた。
「あなた、ロンドンの息子さん?」
と部屋を聞いた看護婦に逆に質問される。
「そうですけど。」
「お父さん、待ったはります。」
父は僕が戻ることを周囲に告げていたらしい。
父は八月に会ったときより、格段に肌の色が良かった。そして、壁に父の書いた半紙が貼ってあった。驚いたのは、僕が父の傍に三十分ほど居た後、父が、
「お前も着いたばかりで、疲れたやろうし、早う帰って休め。」
と言ったことだ。八月の父には、とても他人を気遣う余裕などなかった。
「精神的にも父は快復した。」
その言葉を聞いて僕はそう思った。
翌日、リハビリの時間に立ち会った。リハビリ室は太陽の光の差し込む、明るくて広い部屋だった。車椅子に乗ったまま父は机を前にする。先ず墨を磨り、それから半紙に字を書く。その姿は、数ヶ月前の父を知っている者にとって、一種の感動的なものだ。
その日からほぼ毎日父を見舞ったのだが、父は毎日書道をするので、壁に貼ってある作品は、常に変わっていく。嬉しいけれど、ちょっと参ったのは、「僕関係」の文字が増えたことだ。「英国」くらいならいいけど、「日通」とか「元博」とか直接的なものはこちらが見ていて赤面する。
父らしいと思ったのは、「正月」とか「七草」とかの文字が、十一月にして早くも登場したとき。昔から父は、先々と物を考える、せっかちな人であった。
父は、もう半年、口から食物を取っていない。口から物を食べると、それが気管から肺に入り、肺炎を引き起こすのだ。父の命を支えているのは、足の付け根から静脈に常に注入されている「高栄養輸液」だけだ。
父と話していると、時々食べ物の話になる。
「ロンドンでもお節料理を食べるのか。」
と父が聞いてきたときなど。父の前では、極力食べ物の話題は避けたい。食べ物の話になりそうなのを、何とか逸らせるのに苦労する。
リハビリ室の壁には、色々な人が作った色々な作品が貼られている。