王様の孤独

 

家族と一緒に仏に祈る王様。アジア系の顔の俳優をよくこれだけ集めたものだ。日本人も多数。

 

話は脱線するが、僕は京都出身、京都弁が「母国語」である。京都を舞台にした映画やテレビのドラマは結構多い。その中では「京都弁」(カッコ付き)が話されている。中には耳を覆いたくなるような、直ぐにテレビのスイッチを切りたくなるような、ひどい「なんちゃって京都弁」もある。

「しかし、『鴨川食堂』のショーケンの京都弁はひどかったな。」

しかし、京都出身でなくても結構上手な「京都弁」を話す俳優さんも沢山おられる。その方たちに敬意を表しながらも、やはり、京都以外の出身の人が話す「京都弁」は直ぐに分かってしまう。京都出身の三田寛子さんや田畑智子さんの京都弁は他の方と全然違うし、安心して聞いていられる。何が言いたかったかというと、京都人の演じる京都人、アジア人の演じるアジア人は、安心して見てられるということ。

今回切符を取ってくれたスミレに感謝したいのは、舞台の前から四列目という席に座れたことである。その位置だと、舞台の上の俳優とは、五メートルから十メートルの距離である。渡辺さんの、表情どころか汗や唾まで見えてしまう。つまり、俳優さんの息遣いまで聞こえてくる席だった。大俳優の迫力と、全力投球の演技が身近に感じられたのはよかった。指揮者もちょうど前におられたし。

新聞記事によると、今年三月、ロンドン公演決定の記者会見が行られたとき、渡辺謙さんは、

「王様の孤独とジレンマを表現したい。」

と話されていた。彼の演技はまさにそれの表現だった。

前回この作品を見たときは殆ど笑わなかったのだが、今回はよく笑った。この物語の会話が、こんな、コミカルなものだとは知らなかった。

「十数年間で僕の英語聞取り能力が進歩したのかな。」

ちょっと自信がつく。アナと王様の会話は、ときとしてまるで漫才。アナがつっこんで、王様がボケるのである。また、前の何気ない会話が、次の展開の伏線になっている構成にも感心する。例えば、大きなアンナの事業のとき、大きな世界地図が掲げられる。

アンナ:「ここがシャム。」

子供たち:「わあ、小さ〜い。」

アンナ:「ここがイギリス。」

子供たち:「わあ、もっと小さ〜い。」

こんな会話の後で、ひとりの生徒が、尋ねる。

「この緑の国はどこ?」

「ノルウェーよ、寒い国。」

とアンナは答える。何故ノルウェーでなくてはいけかかったのか。後の展開でその必然性を知ったとき、僕はうなってしまった。

 

自分より頭を上げるなと王様が命令し、最後は寝転んでしまうふたり。このポーズが劇場の劇場正面の看板に使われていた。

 

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