ダンシングクイーン
キオニの湾。クラゲがいるため、余り泳げなかったが、ここも美しい場所。
船は三時にキオニの村を離れ、帰路に就く。往路では、船の中に、ギリシアの民族音楽が流れていた。どれも、ちょっと物悲しいメロディー。それが、帰路はポップスに。最初の曲は「アバ」の「ダンシングクイーン」。これは、否が応でも盛り上がる。特に、中年の客が多い時には。乗客は皆ビールを飲んだりしてリラックスし、夕方の太陽を楽しんでいる。
海峡を渡り、ケファロニアに着いてから、最後の「スイム・ストップ」があった。船が舳先から砂浜に乗り上げるように泊まり、客は前から降りる。そこもきれいな浜だった。もちろん、きれいな所を選んで客を連れて行くんだから、当たり前なのだが。僕たちは、六時ごろ、スカラに戻った。
翌日、六日目は、娘たちとは別行動ということで、娘たちは数日前にも訪れた「穴場」に行き、ポロスのレストランで昼食を取るという。妻と僕は、ホテルの下にある海岸で過ごす。そこは岩場だが、小さな船着き場があり、そこの梯子を下りると海に入れるようになっている。僕はデッキチェアに寝ころびながら、ポッドキャストを聴いていた。中国語である。実は、僕はケファロニアから帰った三日後に、中国語の試験を受けることになっていた。三年前に息子が中国人の女性と結婚、彼女の親戚とコミュニケーションを取るために始めた中国語。やり始めるとのめり込む僕の性格、検定試験に挑戦し始めた。一級から始まり、二級、三級、四級と徐々に難しくなっていったが、これまで、幸い一発合格できた。そして、今回はいよいよ上級の域に入る五級。読む方は自信があるのだが、聞く方はかなり危うい状態。それで、休暇と言えども、耳を鍛えるために、常に中国語を聞いているのだった。
暑くなったので、妻と海に入る。岩浜で泳ぐのも、結構スリリングで、それなりに面白い。一緒に泳いでいる男性に声を掛ける。
「どこから来たんですか?」
チェコからだと言う。
「チェコには、ウクライナに対して、迅速な武器援助と、難民の受け入れをやっていただいてますよね。有難うございます。」
と、ゼレンスキー大統領に成り代わり礼を言う。彼は言った。
「昔、民主化運動『プラハの春』をソ連軍に潰されたことがあるので、ウクライナのことを他人事だと思えないんですよ。」
その後、僕たちはウクライナ戦争についての意見を交換。それを、立ち泳ぎをしながら、水の中でやっていたのである。
「ようやるわ。」
夜、テラスで夕食を取りながら、周囲の客を観察する。アジア人は僕たち家族だけ、インド人と思しき夫婦が一組、黒人の女性が一人。その他は全て、白いヨーロッパ人である。
「ここは白人の来る島なんや。」
レストランのメニュー。一応発音は出来るのだが、半分以上、何か分からない。英語のメニューもある。