安野光雅

 

 

津和野城址から津和野の町を望む。

 

「夏草や 兵どもの 夢のあと」

津和野城址で、そんな俳句が口を突いた。どうして?おそらく。「つわの」から「つわもの」への連想だと思う。しかし、夏草に覆われた城の跡には、ピッタリの言葉だった。城の石垣の上から見下ろす、津和野の町はすばらしかった。町は三方を山に囲まれ、本当に「ひなびた里」として存在している。

津和野出身の有名人は多い。森鴎外、西周、安野光雅・・・森鴎外は言うまでもないが、西周(にしあまね)は哲学者。そもそも、Philosophyという英語に対して、「哲学」という言葉を作ったのが、西周である。その他、彼は「芸術」、「理性」、「科学」、「技術」、「知識」、「意識」、「概念」などの訳語を作った、すごい人なのである。彼の作ったこれらの言葉は、中国にも輸出され、中国人は今でも「哲学」、「科学」、「知識」などの言葉を、中国式に発音して使っている。

安野光雅さんは画家である。津和野に着いた日の午後、駅前にある「安野光雅美術館」に行った。その日の津和野の最高気温は三十五度。その中で午前中津和野城址に登り、僕はかなり体力を消耗していた。これ以上歩き回るのはとても無理。涼しい美術館で過ごすのがちょうどいい。

 美術館で、安野さんの原画を見た。

「安野さんの絵と、僕の絵は似ている!」

まず気付く。基本的に風景画であり、黒いペンと水彩という技術も似ている。また、風景画の中に必ず人を描くという点も同じだ。しかし、僕はこれまで、安野さんの絵の真似をしたことはない。意識したことさえなかった。まったくの偶然である。しかし、安野さんは、僕と同じ感性を持った人だったのだ。展示されている絵を見ると、安野さんの「遊び心」が随所にうかがえる。安野さんは、「鳥瞰」というのだろうか、ドローンを飛ばして上から見たような視点での絵が沢山あり、それが僕とは違う。

 美術館は二つの建物に分かれていた。ひとつは展示室。もうひとつは「学校」である。木造の建物に、教室や図書室など、学校が再現されているのだ。図書室には、安野さんがこれまで出版された本が並んでいる。英国シリーズ、イタリアシリーズ、中国シリーズ、三国志シリーズ等、実にいろいろな題材で描かれていた。僕は、二時間以上図書館に籠り、安野さんの絵の本を、一冊、また一冊と見ていった。

 津和野の町はゴーストタウンのように人がいなかった。日本人は、観光をするのに二の足を踏む暑さ。京都でも日本人の観光客は少なかったが、いわゆる「インバウンド」、外国からの旅行者が、暑さにも関わらず観光をしていた。しかし、ここ津和野は、外国人には余り知られていないよう。従って誰もいない。昼間食堂などの前を通ったが、営業している気配はなかった。夕方を食べる場所があるか心配したが、かろうじて、老夫婦がやっている超ローカルな食堂を見つけ、そこで「唐揚げ定食」を食べることができた。八百円。メッチャ安い。

 

 

駅前にある安野光雅美術館。三時間以上ここで過ごした。

 

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