夢の死に方?
四時間遅れで、やっとフランクフルト出発。飛行機の遅れはもう慣れっこ。
最初に日本から戻って来たのは、有給休暇が余り長く取れない、広告代理店に勤める末娘のスミレだった。僕は金曜日の夕方、彼女をヒースロー空港へ迎えに行った。帰りの車の中で、僕は、スミレから、義父の亡くなったときの様子、通夜や葬儀の様子、残された義母の状態などの話を聞いた。
義父は、亡くなった日の朝早く、近所のスーパーへ灯油を買いに行ったそうである。帰って来て、
「少し疲れたから。」
と言って、もう一度床に入り、汗をかいたからと言って一度パジャマを着替えた。昼前に義母が見に行ったら、布団の中で義父は死んでいた。急性心不全だったという。歯が悪い以外は至って健康で、百歳まで生きるのではないかと皆が噂をしていた義父の、八十歳での逝去だった。
突然、連れ合いを失った義母のショックは察して余りある。スミレは、
「お祖母ちゃんは、今は忙しいし、周りにママや叔母ちゃんがいるけど、独りになったら寂しくてガックリきちゃうかも。」
とちょっと心配そうに言った。
スミレにとって、ショックだったのは「お骨拾い」だったという。焼かれて骨になった義父が現れただけでもショックだったのに、それを箸で砕いて壺に入れるのは、初めて日本の葬式に出た彼女にとって、少しグロテスクに写ったようだ。
「わたしの夢の死に方だわ。」
とステファニーは言った。彼女は、僕の日本語の生徒の一人である。翌週の授業の後に、
「義父が亡くなってね。」
と話を始め、義父の死んだときの様子を話したら、彼女にとって、それは「理想的な死」だと言った。本人も周囲も苦しまないで死ねたのだから。誰でもそうありたいと思うが、自分の意志ではどうにもならない。それが出来た義父はラッキーだったのかも知れない。
二月十七日の日曜日、僕は、ロンドンからフランクフルト乗り換えで大阪に向かった。フランクフルトでは、乗ろうとしていた飛行機に故障が見つかった。別の飛行機が用意され、全ての荷物が積み替えられるまで、乗客は四時間待たされた。しかし、僕にとって、これこそ「急がぬ旅」、義父の納骨は木曜日なので、それまでには十分な時間がある。
妻や娘たちが日本に戻るとき、一番心配したのは、飛行機の遅れで、彼らが通夜や葬儀に間に合わないことだった。僕は、インターネットの「フライト・トラッカー」で何度も飛行機の位置をチェックした。そして、無事飛んでいたので安心したものだった。
月曜日の朝八時半に関空に着く予定のルフトハンザ機が、実際に着陸したのは正午過ぎだった。京都の母の家に着いたのが三時ごろ。夕食前に、ゆっくりと銭湯、「船岡温泉」で過ごす時間があった。日本に帰って良かったと思う瞬間だ。
義父の仏前と墓前には、大好きだったメロンパンが供えられていた。