波乱の年末年始
息子の婚約発表の席で。
本来、二月に休暇を取って日本へ帰るつもりはなかった。
「だって寒いもん。特に京都は。」
三月上旬は、友人のいるルワンダに行く予定だった。日本に帰るのは、四月か、五月、もう少し暖かくなってから、そう思っていた。しかし、義父の「四十九日」、納骨に参列するために、帰国を早めたのだった。金沢に住む義父は正月の明けた、一月四日に亡くなった。二月二十一日が四十九日目なのだ。
年末年始はなかなか波乱万丈だった。クリスマスが終わった後、息子のガールフレンドがシンガポールからやってきた。息子は、ウィンザーの近くの湖の畔で、彼女にプロポーズし、彼女も即座にオーケーしたとのこと。十二月二十八日に、ふたりの婚約が発表された。僕には三人子供がいるが、結婚するのは息子が最初。可愛い娘さんが義理とは言え子供たちのひとりに加わるのは、とてもうれしいニュースだった。
しかし、一月四日の朝五時、に金沢の義母から、
「お父さんが亡くなった。」
との連絡が入った。これには正直驚いた。義父はそれまで、医者にもかかったことのない、元気な人だったから。何よりも、早く妻を日本に帰さねばならない。彼女が荷造りをして、仕事関係の人にメールを書いている間に、僕が飛行機の切符を取った。幸い当日の便が取れ、妻は五時間後の午前十時には、日本へ向かって旅立って行った。
「朝五時に連絡が入って、五時間後に飛行機に乗れる。これは奇跡に近いよね。」
妻と僕は車の中で話した。
妻を送った後、シンガポールに帰った息子に電話し、末娘のスミレを訪ねる。スミレが姉のミドリに電話。皆、お祖父ちゃんの突然の死に驚いている。休暇の時、妻の実家でよく過ごし、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんと仲の良い娘たちも、葬儀に出ると言い出した。
翌朝、僕はふたりをヒースロー空港まで送って行った。僕は、自分が日本に帰ることは全然考えなかった。家族三人を超急ぎで日本に帰すには、誰かが裏方に回って、切符の手配や、送迎をした方がいいと思ったからだ。幸い三人は義父の通夜にも葬儀にも間に合った。それを聞いたときには僕もホッとした。
馬牧場の主宰者のジュリーには、
「妻の父が亡くなったので、今週は数日来られないかも知れない。」
とだけ伝えた。しかし、僕は葬儀に出なかったので、結局、馬牧場の仕事には穴が開かなかった。
「本当に、お義父さんのお葬式に出なくていいの?」
と、ジュリーは念を押した。僕は、そのとき、
「『四十九日』には帰ろう。」
と心に決めていた。そして、葬儀を終えて日本から帰って来た妻と、ジュリーには、その意向を伝えることにした。
正月、毎年のように雑煮祝ったのだが・・・