「塵の息子たち」
原題:Synir duftsins「塵の息子たち」
ドイツ語題:Menschensöhne「人の子たち」
(1997年)
<はじめに>
アイスランド人に苗字はない。姓の代わりに父親の名前に男性は「ソン」、女性は「ドティル」を付ける。アーナルデュル・インドリダソン、一度聞いただけで言えた人は偉い。従って、彼の父は「インドリディ」ということになる。レイキャビクを舞台にした、エーレンデュル警部シリーズの第一作。
<ストーリー>
一月のある日、パルミは精神科の病院に兄のダニエルを訪れる。彼は毎週、兄を見舞っていた。兄は部屋におらず、その部屋だけだはなく、病院のあちこちが、ひっくり返っている。ダニエルは屋上にいた。ダニエルは、説得しようとするパルミを振り切り、飛び降りる。
レイキャビクの街の反対側にある小さな家。椅子に括り付けられ、ガソリンを掛けられた老人がいた。庭にはガソリンのタンクが転がっている。部屋には、永年に渡って撮られた学校のクラス写真が並んでいる。そこにはダニエルも写っていた。老人はマッチで火を点ける。間もなく、家の中の全てが炎に包まれる。
パルミは、横たわるダニエルの傍に立ち尽くす。ダニエルは即死であった。ダニエルが運び去られた後、パルミは病院の職員たちと話す。これまで、弟のパルミの他に訪れる人のいなかったダニエルに、ここ数週間、初老の男が訪問していることが分かる。その男は、毎週木曜日の夕方五時に、書類のファイルを持ってダニエルを訪ねていた。看護師がダニエルとその男の会話を耳に挟んだが、「肝油ドロップ」と言う言葉が聞こえたという。ダニエルと一番仲の良かったヨハンという看護師は、一週間前に病院を辞め、話を聞くことはできなかった。
ダニエルより十歳年下のパルミは、亡くなった母親から譲り受けたレイキャビクのアパートで暮らしていた。子供の頃から本の好きなパルミは古本屋を営んでいた。十歳年上のダニエルは、これまで何度か自殺未遂を起こしていた。父親を早くに亡くし、母親に育てられたダニエルは、十三歳で酒とドラッグを始め、何度も警察に補導されていた。彼は、自分が、楽園から追放され、隕石となって地球にやってきたと思うようになった。医者は彼を統合失調症と診断した。母や弟に暴力を振るうようになったダニエルは、精神科の病院に収容される。そして、そこに二十五年近く暮らし、母が七年前に亡くなってからは、パルミの他にダニエルを訪れる人間はいなくなっていた。
パルミは隣人の女性ダグニーと弟の死について話す。弟が「他の者」と言う言葉を使ったこと、「我々は一番太陽に近い位置にいる」と言っていたことをダグニーに話す。宇宙に興味を持っているダグニーは、一月に地球と太陽の距離が一番短くなることをパルミに話す。
エーレンデュル・スヴェインソン警部と、その部下のシグルデュル・オリは、火事の現場に到着する。そこは、跡形もないほど激しく燃えており、男の焼死体が発見されていた。その死体は、熱でも融けない材質の紐で縛られており、その家の住人、ハルドール・スヴァヴァルソンのものと思われた。ハルドールは、数年前まで、小学校の教諭として働いていたが、今は引退していた。エーレンデュルは、燃え方からして、大量のガソリンを撒いての放火であると確信する。それを裏付けるように、空のガソリンタンクが庭に転がっていた。
パルミは、ダニエルが死ぬ直前に病院を辞めた、看護師ヨハンを訪れる。ヨハンは、年配の男が三回に渡ってダニエルを訪れていたこと、また、最初にその男を見た時、ダニエルが追い返したことを知る。しかし、二回目、三回目の訪問の際には、ダニエルとその男は長時間に渡って話し込んでいた。ヨハンの質問に対してダニエルは、訪問してきた男が自分の小学校の教師であるとだけ答えたが、それ以外は口をつぐんでしまったと話す。
エーレンデュルとシグルデュル・オリは、死んだハルドールの姉、ヘレナ・スヴァヴァルスドティルに、弟の死を告げにいく。姉は八十四歳で、老人ばかりを集めた高層アパートに住んでいた。彼女は、腹違い弟のハルドーが、父親の死後金に困っているときに、学校を出るための金を出してやったという。彼女は、ハルドーが死亡する日の夕方に彼と電話で話していた。ハルドーは姉に、
「やっと目的を達したので、これで安心して死ねる。」
と話していたという。ヘレナは、
「弟は性的に虐待されて育った。」
とエーレンデュルに話す。しかしヘレナは詳しいことには口をつぐんでしまった。
三十歳になるパルミは独身で、母親から譲り受けたアパートに独りで暮らしていた。彼の子供の頃の記憶は、母親に連れられて毎週兄のダニエルを病院に訪れるということから始まっていた。ダニエルは一度、幼いパルミをベッドに括り付け、ベッドに火を点け、パルミを焼き殺そうとした。パルミはやっとのことで脱出する。その焼け焦げた部屋は今でもそのままになっていた。パルミがラジオを付けると、ハルドーの焼死のニュースをやっていた。
エーレンデュルはシグルデュル・オリに借りがあった。エーレンデュルにはエファ・リンドという娘がいた。彼女は麻薬中毒であった。数年前、シグルデュル・オリが配属されて間もない頃、エーレンデュルがアパートに戻ると、怪我をしたエファがいた。彼女はボーフレンドに暴力を振るわれたという。エーレンデュルはシグルデュル・オリに電話をし、来るように言う。エーレンデュルは娘のボーイフレンドの麻薬ディーラーの男のアパートを訪れ、彼を挑発、掴みかかってきたその男を殴り倒す。シグルデュル・オリはエーレンデュルの公私混同を批難するが、エーレンデュルの行動を警察の上層部に話すことはしなかった。
パルミはダニエルの担当医を訪れる。担当医はダニエルの検死の結果をパルミに告げる。医者はダニエルが自殺の前には薬を飲んでいなかったこと、ダニエルの心臓が非常に弱っており、長く持って後数年の命であったと告げる。パルミはダニエルの遺品の中に、小学校の集合写真を見つける。クラスの皆がカメラに注目している中で、ダニエルだけは横にいる教師を見ていた。
ハルドーの死かから三日が経った。凶悪犯罪が少なく、あっても犯人が直ぐに見つかるアイスランドの状況の中では珍しく、警察は手掛かりをつかめない。捜査会議でも色々な意見が出る。学校の生徒が犯人ではないかという憶測も出始める。エーレンデュルは捜査の内容を漏らさないこと、自分がマスコミ対策を一手に引き受けることを同僚の警官に告げる。
レイキャビク郊外の城のような豪邸。サウナから出た七十代の男が携帯電話を取る。電話の主は、ハルドーの死を告げる。老人は、自分達の組織の証拠となるカセットを捜しだすように電話の主に指示をする。ダニエルの死で、真実を知るものはシグマーしか残っていないことが確認される。更に、背後に居る「韓国人」について言及され、電話は終わる。
エーレンデュルとシグルデュル・オリは、ハルドーの勤めていたヴィディゲルディ小学校を訪れ、校長と話をする。その学校は、レイキャビクの人口の増加と共に何度も拡張され、富裕層から貧困層まで、色々な階層の家庭の子供たちが通う、大きなものであった。校長によると、ハルドーは三十五年間この小学校で教鞭を取っていた。しかし、歳を取るにつれ、ハルドーは次第に、生徒に対するコントロールを失い、生徒たちは、彼に公然と唾を吐きかけるようなことをしていたと言う。ハルドーはそれに対して、
「自分はそのような目に遭って当然だ。」
というようなことを話していたと校長は述べる。
ダニエルの葬儀が行われる。その中に、貧しい身なりをした、大柄な男が参列していた。パルミはその男に声を掛ける。男は、自分はダニエルの同級生であると言う。そして、
「あれは肝油ドロップではなかった。」
という謎の言葉を吐いて、男は逃げるように立ち去る。
葬儀の後、パルミはヘレナを訪れる。パルミは自分の兄について、病気になる前はどのような人間であったか知りたい、そのために関係する人物を訪ねていると告げる。ヘレナは既に警官官が訪ねてきたことを話す。ヘレナは弟のハルドーが、かつて自分のやったことに対する罪の意識に苛まれ、いつかはそれを償いたいと言っていたと話す。
ヘレナの話は続く。ヘレナとハルドーは腹違いの姉弟であった。ハルドーの母は女中をしていたが、そこの家庭の男たちと関係を持っていた。そして、その男のひとりが、ハルドーを性的に虐待し、ハルドー自身も、男子生徒を性的に虐待する行為を始めたという。戦後、進駐してきた英米軍の兵士と、ハルドーの母親は関係を持つが、ある日、その兵舎の前で彼女は死んでいた。ヘレナはハルドーが学校を出て教師になるために、彼に金銭的な援助を与えた。そして、彼女はハルドーが個人的な話をする唯一の人間であったという。
翌日の新聞に、ハルドーの死に対して、警察が小学校の生徒も容疑者として捜査していることが報じられる。エーレンデュルは警察署長から、PTAや親から抗議の電話がかかっていること聞く。エーレンデュルは、同僚の中に警察に情報を漏らした人間がいることを批難し、朝の捜査会議を取りやめることにする。また、記者会見を開くことを受け入れる。記者会見の直前、ハルドーが前に勤めていた学校の、当時の校長から電話が入る。エーレンデュルは、シグルデュル・オリに地方にあるその町にすぐに行くように命じる。シグルデュル・オリは激しい雪の中、その町に着き、今は引退している校長グドニを訪れる。その町はハルドーが教師として最初に働き出した町であった。元校長は、ハルドーが男子生徒に対して異常な興味を示し、性的な行為に及んだため、町を追い出されたことを告げる。しかし、町民と校長は、スキャンダルになることを恐れて、ハルドーの行為を警察沙汰にすることはしなかった。
ヘレナは自宅で何者かによって殴り倒され、重傷を負って病院に運ばれる。パルミは警察署にエーレンデュルを訪れる。一方、ヘレナを襲った男はその依頼者と話していた。彼は、ヘレナの部屋には、捜していたカセットテープは見つからなかったことを告げる。依頼者は、事実が明るみに出ると、「韓国人との契約」が潰れることを心配している。
警察署を訪れたパルミを、エーレンデュルは同僚に紹介する。パルミはヘレナとの会話、ダニエルの葬儀に現れた同級生と名乗る男について話す。学校の集合写真から、その男がシグマーという名前であることが分かる。警察は、その男を捜しだすことにする。捜査員のひとりが、肝油ドロップは実は麻薬ではなかったのかと推理をする。また、ハルドーの家の庭に転がっていたガソリンのタンクは、ハルドー自身が買ったものであることが分かる。ハルドーが性的な暴行を働いていたことが、かつて彼の働いていた学校の親の談話として、新聞に載る。
翌日パルミは警察から電話を受ける。シグマーが見つかったという。彼は、別の犯罪で既に刑務所にいたのだった。シグマーは警察官の質問には口をつぐんでいるが、パルミだけには話をしてよいと言っているという。パルミは警察署に向かう。シグマーはパルミに対して、学校で自分達は人生を狂わせるような薬を飲まされた、クラスメートの殆どは廃人になるか死んでいると言う。その薬はハルドーが男子生徒に肝油ドロップとして配ったという。そして、時々、看護婦が学校に来て、男子生徒の血液を調べていたという。シグマーはその背後にいる人物についても知っているようであったが、彼は何かを怖れて、警察にもパルミにもそれ以上は話さなかった。
シグマーの証言を基に、エーレンデュルと彼のチームは、ダニエルの同級生と、その家族に当たってみることにする。彼とシグルデュル・オリは、十三歳で死んだアグナーという少年の母親を老人ホームに訪れ話を聞く。彼女は、息子は体調が悪く、サッカーをやった後に心臓麻痺で死んだと言った。自分たちの住んでいたところは貧しい地域で、子供たちも酒やドラッグに溺れてロクなものにならなかったが、彼らのクラスが一度だけ学年で一番になったことがあるという。彼女は息子とその友人が写っている写真を見せる。一緒に写っているキディという少年の片目が潰れている。喧嘩で失ったと彼女は言った。
パルミは、学校の集合写真を撮った写真館を訪れる。ダニエルがハルドーのクラス写真を見せると、写真館の主人はハルドーを覚えていた。ハルドーは、生徒たちを毎年同じ順番に並ばせ、集合写真が配られる前に、それを自らチェックしにきていたという。パルミは、写真に写っていた女生徒のソルヴェイグを捜しだして彼女を訪ねる。彼女は、自分達のクラスは、特定の貧しい地域の子供たちばかりが集められた「特別クラス」で、男子生徒は荒れていたと話す。しかし、彼女は、ハルドーは決して声を荒げることのない教師で、クラスの中にある程度秩序は保たれていたと話す。
シグマーは、突然態度を変え、エーレンデュルの尋問に応じる。当時、各地域には、子供たちがギャング集団を形成し、万引きや引ったくりを働くとともに、集団同士で喧嘩に明け暮れていた。ある日、シグマーやダニエル、その他のクラスの男子生徒は、地下室にたむろしていた。そこに年長の別の集団が殴り込みをかけてくる。彼らは弓矢で武装していた。シグマーたちは叩きのめされ、矢がキディの目に突き刺さり、彼は失明する。
その日の深夜、エーレンデュルはシグルデュル・オリからの電話で起こされる。シグマーが拘置所の房で首を吊って自殺したという。シグマーは死ぬ前に指を切り、血で自分の腹にメッセージを書き残していた。しかし、そのメッセージはほとんど判別不能で、AとEという二文字しか読み取ることができなかった。
パルミは、ヘレナを襲った男がカセットテープを捜していたとエーレンデュルに伝える。エーレンデュルとシグルデュル・オリは、ハルドーが勤めていた学校の、前校長を訪れる。前校長は、自分の在任中は、ハルドーの行動が特に問題になったことはなかったと述べる。また、肝油ドロップは職員室の中に保管されており、教師が必要な分だけ、自由に持って行っていたと語る。
再びレイキャビク郊外の豪邸に住む男。部下から、カセットテープは見つからなかったという報告を受ける。その豪邸の塀の外に佇む男がいた。パルミは、郵便局で小包を受け取る。中を開けると、カセットテープが入っていた。それは、ハルドーが死の前日に投函したものであった。パルミは突然見知らぬ男に襲われる。
「カセットテープはどこだ。」
とその男はパルミの首を絞めながら詰問する。しかし、そのとき、別の男が現れ、襲って来た男を殴り倒す。別の男は襲撃者を連れて立ち去る。
警察は、ダニエルやシグマーの居たクラス「六L」のかつての生徒たちの消息を追う。その結果、男子生徒の全員が、自殺したか、不慮の死を遂げたか、行方不明になっているかで、誰も残っていないことが判明する。エーレンデュルは、クラスの生徒が、製薬会社のモルモットとして使われたことを疑い、そのクラスに出入りした看護婦を捜すことにする。
パルミはカセットレコーダーを買ってきて、ハルドーから送られたテープを聞き始める。それは、ダニエルを訪れたハルドーが、病院でダニエルとの会話を録音したものだった。その内容により、パルミは今回の事件の背景と真相を知る・・・
<感想など>
アイスランドという、日本人はともかく、欧州の人々にも馴染みの薄い国の物語である。アイスランドと言えば、二〇〇八年に金融システムが崩壊し数多くの欧州の投資家が大損をしたこと、また火山が爆発しその灰のため欧州全域で飛行機が飛べなくなったこと、それくらいしかニュースになっていない。そもそも、国の人口が三十万人程度だという。面積は結構広く、韓国と同じくらいあるのに。しかし、そんな国にも、独自の言葉と文化が存在し、本が出版され、しかも、それが高いレベルを保っているということが、不思議でもある。
アーナルデュル・インドリダソンを初めて知ったのは、二〇一一年に放送されたBBCの番組「スカンジナビア推理小説の物語」であった。その中で、十人ほどの北欧を代表する推理作家が紹介されていたが、アーナルデュル・インドリダソンもその中のひとりだった。その後、現代の北欧の犯罪小説に関する文献を読んでみて、彼が度々登場するので、今回読んでみたというわけである。冒頭でも述べたが、アイスランドには苗字が存在せず、インドリダソンは彼の父親の名前を表す。「誰々の息子の(娘の)何某」ということである。
とにかく暗い。しかも、この小説のテーマが、子供に対する性的な虐待である。途中で、嫌になって、何度か投げ出そうかと思った。一言で表現するならば、薬のモルモットに使われ、その後遺症で廃人になった少年たちと、それに関係した性的錯綜者である教師の話。おまけに舞台が冬のアイスランド、暗くならない方がおかしい。しかし、小説としての面白さ、筋の巧妙さはなかなかのレベルである。そして、最後に、ストーリーは思ってもみなかった方向へと展開していく。
事件の真相を追うのはふたり、エーレンデュル警部と、自殺した兄の背景を探るパルミである。エーレンデュルは、離婚して独り暮らし、娘は麻薬中毒、仕事上では公私混同が激しく、閉鎖的な性格、マスコミ嫌の一匹狼・・・どうも、このような「はみだし刑事」が最近のミステリーのステレオタイプになってしまった。ノルウェーの作家、ヨー・ネスベーの描く刑事ハリー・ホーレ、カリン・フォッスムの描く刑事コンラッド・ゼーヤーなど、続けて読むと誰が誰か分からなくなるくらい。もちろん、この本は一九九七年に書かれているので、当時は「この手の」警察官は、小説の中の類型でなかったのかも知れないが。
アイスランドの社会問題が描かれている。そう意味では、社会的な小説である。荒れた学校、若年犯罪の増加、特に高齢者に対する公共サービスの低下、アルコール問題、麻薬問題、製薬業界と癒着した医療システム、これらが余すことなく描かれる。同時に、心理描写、特にパルミの心理描写には素晴らしいものがある。兄を死なせた自責の念、兄に一度は殺されかかった恨み、それらの混ざり合った複雑な彼の心理が、巧妙に描かれている。
この物語を読んで強く思ったこと。それは、世間体を気にするあまり犯罪を表ざたにしないことで、その犯人を生き延びさせて、次の犠牲者を生んでしまうということである。それが、作者のメッセージのような気がした。作者のアーナルデュル・インドリダソンは一九六一年レイキャビクで生まれ、多くのミステリー作家と同じく、最初ジャーナリストとして活躍している。この本は、一九九七年に出版された彼の処女作であり、多くの国で翻訳されているが、まだ日本語の訳は出ていないようである。
(2015年6月)