フランス人は英語が得意
最後はイングランド王ヘンリーと、フランス王キャサリンの結婚で幕を閉じる。(グローブ座HPより転載)
後で、プログラムで調べたが、一役しかやっていない俳優は三人だけで、それ以外の二十人近い俳優は二役以上をこなしていた。グローブ座は、一つの役にひとりの俳優をあてがう金がないのだろうか。それともこれが「しきたり」なのだろうか。この辺りの理由を、一度調べてみたい気がする。しかし、落語では親旦那も番頭も丁稚も熊さんにも喜六も、全部一人の演者がやっている。それでいて、観客は、それぞれのキャラクターを区別して、ストーリーを理解しているのである。そう考えると、「一人何役」に対して、それほど目くじらを立てることもないかも知れない。
劇中、フランス側も英語を話している。英語で書かれ、英国人の前で上演されるのであるから当然と言えば当然。リアリティーを追い求め、フランス人がフランス語を話したら、誰も理解できず、そもそも舞台が成り立たない。しかし、フランスの王女キャサリンが、「英語の特訓」をする場面と、最後にヘンリー五世が、キャサリンにプロポーズする場面は、「英語」、「フランス語」の対立が浮き彫りにされている。何故かキャサリンだけは、基本的にフランス語しか話さない。劇の途中で突然フランス語が入ると、何となく調子が狂う。しかし、シェークスピアはフランス語も堪能だったのだと、彼の多能ぶりに改めて感心させられる。
一時間半の前半が終り、十五分間の「中入り」。椅子席の人々は、立ち上がって、背筋を伸ばしているが、立見席の人々は座り込んで疲れた足をいたわっている。僕も柱を背に座って、周りの人々を眺めていた。
「ヘンリー五世」はシリアスな劇である。強烈なカリスマ性を持った王が芝居を独りで引っ張る。しかし、シェークスピア劇の例によって、道化役も登場する。とぼけた会話が、観客の笑いを誘っている。僕も一緒に笑いたいと思う。しかし、残念ながら、そこまでいくには英語の力がついていっていない。
この劇の面白いところは、「コーラス」、つまり「語り手」が登場するところだろうか。場面転換の最初と最初に、「解説」が入るのだ。これは、分かり易くていい。「コーラス」は映画では男性であったが、この舞台では女性であった。
最後はヘンリー五世とキャサリンの結婚式、ダンスで終わる。シェークスピア時代の喜劇の結末は、必ず「結婚式」であるらしい。この劇は、コメディーではないが、その伝統を受け継いでいる。敵も味方も一緒になってダンスをする、なかなか爽やかな結末であった。しかし、フランスと英国の蜜月も長くは続かない。歴史では、この後、ヘンリー五世は急死し、フランスと英国はまたまた泥沼の百年戦争に逆戻りするのである。
五時に芝居が撥ねて、外に出る。サウスバンク、テムズ河の南岸は、大勢の人々で賑わっていた。テムズの岸にある一軒のパブに入り、ビールを注文する。パブの席は全て埋まっているので、ベンチに座ってビールを飲む。
「明日はいっぱつ、オリンピックを見に行くか。」
僕は行き交う人々(半分以上は観光客だが)を見ながらそう呟いた。
カーテンコールでの拍手喝采は道化役の方が多いかも。(グローブ座HPより転載)