ドイツ歴史(四)第二次世界大戦後
<ドイツはどうなるのか>
戦争が終わったが、ドイツ全土は瓦礫の山となっていた。生き残った人々も、希望を持てる状態ではなかった。前線から戻った人々は、今度は生きるために戦わなければならなかった。多くの男性が戦死するか捕虜になったので、女性が代わって働かねばならなかった。食料が不足し、人々は闇市で持ち物を食糧に替えて命をつないだ。モラルよりもまず生き延びることが重要な時期であった。戦勝国の間では、ドイツを今後どうするかが話し合われていた。1945年、ポツダムにチャーチル、スターリン、トルーマンが集い、ドイツから軍国主義と国家社会主義を撲滅し、ドイツが二度と戦争を起こさないようにする方法が話し合われた。ドイツはソ連、米国、英国、フランスの四つの国に分割して管理される、オーデル・ナイセ川より東はソ連、ポーランドの管理下におかれる、国家社会主義者の公職からの追放、新しい国境より東に住んでいるドイツ人はドイツへの移住を認める、等が決定された。その結果、東から大量のドイツ人が西側に押し寄せ、ドイツは混乱を極めた。英米仏の三国とソ連の足並みが乱れ始める。ふたつの超大国、米ソが競い合う「冷戦」の時代が始まったのだ。西側の国は、ドイツの共産主義化を阻み、ドイツを共産主義から欧州を守るための防波堤にするべく、ドイツの復興に対する援助を始めた。米国の国務長官マーシャルは「マーシャルプラン」と呼ばれる欧州の復興プログラムを実行に移した。1948年、「新ドイツマルク」が西側の地域に導入された。ソ連はそれに反発し、西ベルリンへの陸路の交通を全て遮断した。英米はこれに「空の橋」と呼ばれる飛行機による物資の輸送で対抗。200万人の西ベルリンの人々は、11か月の間、空輸された物資で生き延びた。これにより西側の結束は固まり、ソ連への対抗する意識が一層高まった。
<ふたつのドイツ>
連合国は、ドイツの政治の民主主義化を目標にしていた。1945年に既に民主主義政党の結成が許され、戦前からナチスに反対していた共産党(KPD)、社会民主党(LDPD/SPD)の他に、自由民主党(FDP)、キリスト教民主同盟(CDU)とキリスト教社会同盟(CSU)などが結成された。ソ連占領地域では、ソ連の指導で共産党と社民党が社会主義統一党(SED)に統一させられ、その他の政党もその支配下に入り、ソ連と同じような一党体制になった。1946、47年の地方選挙で、SPDとCDU/CSUが二大政党になるという構図が既に生まれた。連合国は、州首相に憲法制定のための議会を開くように命じる。州首相たちは、東のソ連占領地域が切り離されるのを嫌い、その集会と憲法をあくまで東西が統一されるまでの暫定的なものとしたかった。憲法ではなく基本法と呼ばれるものが制定されたのもそのためである。基本法制定議会は、CDUのコンラード・アデナウアーを議長にワイマール憲法を基礎としつつ、その弱点を補う形で基本法の原案を作った。人権は憲法の付属物ではなく、人権がまずありその下に憲法があるべきだと、SPDカルロ・シュミットは主張した。基本法第一条ではまずこの人権と国家権力の関係が謳われている。国家の体形については、中央集権ではなく民主的な連邦制であること、政府が国民の意思にそぐわない場合は、それを変革する権利を国民が有することなどが決められた。連邦大統領の権限は縮小され、連邦首相の権限が強められた。首相は、次の首相が選ばれない限り、失職することはない「建設的不信任制度」が取り入れられた。これらは、全てヴァイマール共和国時代の反省の上に立ったものである。1949年5月、この基本法が採択され、「ドイツ連邦共和国」が誕生した。東側でも、憲法が採択され、ドイツ民主共和国の発足が宣言された。この憲法は民主主義を謳ってはいたが、誰もがソ連式の一党独裁体制が導入されることを疑わなかった。これによりふたつのドイツが始まった。
<Made in West Germany>
1949年8月、最初の連邦選挙で、CDU/CSUが第一党となり、他の二つの政党と連立内閣を作った。73歳のコンラッド・アデナウアーが初代の首相となり、首都はボンに置かれた。しかし、重要な政策の決定は依然戦勝国に握られており、ドイツはまだ独立国とは言い難かった。アデナウアーはドイツの主権を取り戻す努力を続けた。1950年ソ連の援助を受けた北朝鮮が南朝鮮を攻撃する朝鮮戦争が起こった。西側の国は、ソ連の拡張政策の脅威がまだ続いていることを実感し、次のターゲットがドイツではないかと感じる。西側諸国は、ドイツを東側の脅威からの防波堤にしようとした。アデナウアーはこの機運を利用し、主権の回復、西側陣営への参加、共産主義からの防御の三点を一挙に実現しようとした。アデナウアーは野党の激しい反対を押し切ってヨーロッパ防衛同盟(後のNATO)への参加を実現させた。1952年、スターリンは東西ドイツの統一案を示す。しかし、これを西側の国が拒否、ドイツ政府もそれを拒否せざるを得なかった。これにより東西ドイツ統一の道は閉ざされた。アデナウアーはヨーロッパ経済共同体(後のEU)に参加することにより、一層西側陣営への参加を促進した。1950年に食糧統制が撤廃された頃から、米国の援助もあり、ドイツ経済は急速な発展を見せた。新しい工場が次々と作られ、雇用機会も増え、「西ドイツ製」の製品は、品質の高さから世界中で買われることになる。廃墟からの急速な発展は「ドイツの奇跡」と呼ばれた。1954年、サッカーのワールドカップでドイツが優勝、このこともドイツ人に再び誇りと自信を与えるきっかけとなった。一連の経済政策は、ルードヴィヒ・エアハルトによって立案された。「社会市場経済」と呼ばれる彼の政策は、市場経済を促進しながらも、政府の関与により、富の分配を公平にしようというものであった。経済の発展は、政治の安定ももたらした。民主主義が、ドイツの国民に本当に何か良い物をもたらした、最初の例であると言える。
<東ドイツとの壁>
東ドイツは、1949年、大統領と首相を選任したが、実権はSEDの党首、ヴァルター。ウルブリヒトが握られていた。重要な政策は全て党の政治局で決定され、民意が政策に反映されることはなかった。表面上は民主主義を唱えてはいるが、事実上はSEDの一党独裁であった。1950年は国家保安省(Stasi)が設立され、党と政策に反対する人々は弾圧された。「ソ連から学ぶことは、勝利を学ぶことだ」のスローガンを基に、工業、銀行、土地所有などが国有化され、五か年計画に基づく、計画経済がスタートした。しかし、消費財や食糧が国民に行き渡らず、労働者たちは不満を訴え始めた。1953年、労働者のノルマを10%引き上げる計画が出された際、労働者の不満が爆発、ストライキが相次ぎ、ウルブリヒトの退任と東西国境の撤廃の要求に発展した。東ドイツ政府はソ連に援助を求め、労働者の蜂起は武力で鎮圧された。西側の諸国も沈黙していた。失望した東ドイツ国民は、西ドイツへの移住を始め、1949年から61年まで二百五十万人が東ドイツを脱出した。有用な働き手の流出に危機感を抱いた東ドイツ政府は、1961年8月、東西の国境を封鎖、東西ベルリンの間には12キロに渡る壁が築かれた。冷戦に油を注ぎたくない西側はこれを黙認。東西国境には地雷が埋められ、越境者は射殺せよという命令が発せられた。これにより、東ドイツの経済は安定し、東側諸国の中に限れば、生活水準が最も高い国になった。しかし、東ドイツの国民とっては「自分の国」という意識は希薄だった。
<もっと民主主義を>
米ソの両方が核兵器を持つに至り、核戦争の勃発は、世界の破滅につながるということに皆が気付いた。そんな中、1962年、ソ連がキューバにミサイルを配置することを決め、米ソ間の緊張は一層高まった。危機は回避されたが、この頃より、核兵器の開発競争を止め、軍縮に向かうことが、お互いのためになるという機運が生まれる。冷戦の終了、雪解けは東西ドイツ間の関係にも少しずつではあるが現れ始めた。アデナウアーは一貫して東ドイツを「国家」として認めようとしなかった。彼が亡くなり、後任の首相に就任したエアハルトも同様であった。エアハルト首相の在任期間中、ドイツは最初の経済危機に陥り、CDU/CSUとFDPの連立が解消され、CDU/CSUはSPDと大連立を組む。過去20年の物質主義的な価値観に、疑問を抱く若者が増えた。彼らは、伝統的な価値観を否定し、ナチスに服従した世代を責めた。これまで反対派の旗手であったSPDのヴィリー・ブラントがCDU/CSUと手を組んだことで、若い世代の失望感は一段と高まった。若い世代、特に学生たちは「議会外反対勢力」APOを唱え、最初は大学の環境の改善、ひいては米国への依存、反共産主義に攻撃を加えた。彼等の目指すのは資本主義でもソ連式共産主義でもない「第三の道」で、彼らは「新左翼」と呼ばれた。1968年、チェコスロヴァキアでドゥプチェクの率いる改革運動が「プラハの春」を生み出した。APOはデモを繰り広げたが、大部分の国民は革命ではなく改革を望んでおり、盛り上がりは薄かった。SPDがFDPと連立し、ヴィリー・ブラントが首相になったとき、その改革のチャンスだと思われた。事実ブラント首相は、より進んだ民主主義を目指していた。新左翼の一部はSPDを支持、また別の派は反原子力、平和を唱え、それが後の「緑の党」の結成につながった。一部の過激派が「連合赤軍」等のテロリスト集団となり、爆破や誘拐を繰り返したが、彼らにより世論が変わることはなかった。
<接近への方向転換>
ヴィリー・ブラントと社会民主党、自由民主党連立政権は、東側諸国、特に東ドイツへの接近、融和を図った。「これからは対立よりも共存」というのがブラント首相のモットーであった。彼は、東側との友好条約の締結に腐心する。オーデル/ナイセ以東の地域を放棄するのか、ふたつのドイツを認めるのか、1937年のドイツの国境で固定化するのか、等の問題は沢山あった。野党は、ブラントを「国土を敵に売り渡す者」として非難した。しかし、ブラントは、これからの問題に対して、「外からの圧力で国境線が変更される時代ではない」、「持っていないものを失うことはない」という方針を貫き、1970年、ソ連とボーランドと、1972年には東ドイツと友好条約を結んだ。彼は「接近することのより徐々に相手を変えていく」ことを目指した。東と西との人の交流も増した。それを通じて、東ドイツ国民は、壁の向こうにあるのは「地獄のような資本主義」ではなく、自分たちが住んでいるのは「社会主義の楽園」ではないことに気付き始めた。しかし、東ドイツの国家権力は協力で、反対する者を沈黙させていった。
<遅く来た者には罰が待っている>
東西の雪解けの基調は、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻で中断した。1981年に米国大統領就任したロナルド・レーガンは、ソ連を「悪の帝国」と決めつけ、米ソは前にも増して軍拡を推し進めた。その結果、ソ連経済も危機に陥る。1985年に登場したミハイル・ゴルバチョフは、「ペレストロイカ(改革)」と「グラスノスチ」(情報公開)を掲げ、ソ連の上からの改革に乗り出した。しかし、ゴルバチョフはジレンマを抱えていた、計画経済を市場経済に移行するなどの改革をすればするほど、共産党の一党独裁の力が弱まってしまうのである。ゴルバチョフは、自国の改革に集中するため、東側の同盟国に、独自の道を歩むことを許した。このような機運は、東側の国において、政府に反対する勢力を活気づけた。ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアで旧政権が倒れる。エーリッヒ・ホーネッカーを頂点とした東ドイツSEDはこのような流れに乗り遅れた。東ドイツ政府が建国四十周年の式典を準備している時、ハンガリーとチェコスロヴァキアが西側への国境を開き、両国を通じて、多数の東ドイツ国民が西に脱出を始めた。東ドイツ国内では、民主化を求めるデモの嵐が吹き荒れた。「遅く来た者には罰が待っている」とゴルバチョフは言ったが、東ドイツ政権はまさに「遅れてきた者」であった。ソ連が東ドイツ政府の武力介入の依頼を断り、事実上、東ドイツ政権は終わることになる。改革を拒否するホーネッカーは退陣させられ、エゴン・クレンツが党書記長に就任、出国の自由、社会改革を唱えるが、もう誰も、SEDの言うことを信じなかった。東ドイツ政府は、1979年11月、東西国境の自由な通過を認め、大勢の東ドイツの国民が、西ドイツを訪れることになった。
<我々はひとつの国民>
ドイツの歴史の中で初めて民衆による革命が成功した。それも無血で。東ドイツ政府が倒れた後、野党、既存政党、政府の代表は、今後の東ドイツの進み方を話し合った。国民の大部分は、ドイツ連邦共和国への参加、西ドイツへの併合を望んでいた。1990年国民議会選挙でその民意が反映され1990年10月3日が、東西ドイツの再統一の日となった。統一の高揚の後には、厳しい現実が訪れた。統一を実現させたヘルムート・コール首相は、統一にはそれほど金がかからないことを強調していた。しかし、計画経済から市場経済への移行は簡単なものではなかった。設備が古く、東側の買い手を失った旧東ドイツの企業は競争力がなく、1991年に東ドイツの工業生産は統一前の30%に落ち込み、失業者が溢れた。政府は、東ドイツの復興のために、莫大な金を投入した。確かに東ドイツの生活水準は上昇しつつあったが、コール首相が予言したバラ色の姿とは程遠いものであった。また、1990年代の世界経済の鈍化もあり、ドイツの国家予算赤字は15億ユーロに達した。旧西ドイツの人々は増税に苦しみ東をお荷物と感じ始め、東ドイツの人々はこれまで社会主義経済ではなかった失業と、西への依存という屈辱を味わうことになる。このような時期、人々は常に「スケープゴート」を求める。外国人労働者や亡命申請者が襲われるという事件が次々と起こった。しかし、多くに国民はこのような機運に反対する運動を起こし、「今までと違うドイツ」を世界にアピールしようとした。
<ユーロランドへの道>
ドイツの再統一後も、外交政策の基本線は変わらなかった。ヨーロッパ統合、米国との友好関係、ブラントによって始められた東欧政策である。コール首相は、再統一後もヨーロッパ統合政策を進め、再統一されたドイツが、他国の脅威にならないことを示そうとした。1991年、マーストリヒトで、12ヶ国の首相が集い、欧州経済共同体を欧州連合に発展させ、経済だけではなく政治的な統合を目指すことになった。これは各国の主権と、独立性を脅かすことになるので、マーストリヒト条約の批准は各国で大きな論議を呼び起こした。デンマークが国民投票で批准を拒否、一度は計画が座礁しかけたが、二回目の国民投票でデンマークが批准に同意し、同条約は1993年に欧州連合は発足した。将来的には統一された「ヨーロッパ合衆国」を作ることは認識されていたが、何時、どのようにという点では大きな思惑の食い違いがあった。また、「欧州政府」に全ての権限を渡してしまうのではなく、各国が政策決定を独自に行いたいという希望もあった。1995年、フィンランド、スウェーデン、オーストリアがEUに参加、2002年には11ヶ国で欧州統一通貨ユーロがスタートした。しかし、ドイツ人は新通貨による物価の高騰を嘆く者が多かった。2004年、ポーランド、チェコ、ハンガリー、スロヴァキア、スロヴェニア、リトアニア、ラトヴィア、エストニア、マルタがEUに参加、2007年にはブルガリア、ルーマニアが参加するに至って、かつての東側の国も含めたEUが実現した。これでEUの人口は米国のそれをはるかに上回るものになった。政治的な統一の一環として、「ヨーロッパ憲法」が起草され、各国で批准されることになったが、フランスとオランダは国民投票でそれを否決した。欧州の国民の間で、自分の国の伝統とアイデンティティーを守りたいという機運が生まれていた。両国の否決で、ヨーロッパ憲法の構想は行き詰まり、各国の主権を認める妥協案が、2007年、リスボンで各国首脳間によって承認された。しかし、この案も、アイルランドの国民投票で拒否されている。
<戦争はもう二度とごめん>
第二次世界大戦後、東西ドイツは米ソ超大国の陰に隠れ、国際社会で指導的な役割を果たすことは少なかった。しかし、統一され、大国となったドイツに対して、西側の同盟国は、積極的な参加を求めてきた。1991年の湾岸戦争の際、米国はドイツに軍隊の派遣を要請した。しかし、ドイツ議会は基本法を盾に派兵を拒否。金は出した物の、ドイツの姿勢は「小切手外交」と批判を受けた。1993年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの紛争の際、ドイツ政府は国連軍への参加を決定した。SPDとFDPは、これを憲法裁判所に提訴したが、裁判所の判断は「合憲」であった。これによって1945年以来、初めてドイツ兵が戦争に参加した。1994年、憲法裁判所はNATO地域以外への派兵も合憲との見方を示し、ドイツ政府は憲法解釈の心配なしに、軍隊を派遣できるようになった。1995年から1998年にかけて、4000人の兵士がボスニア・ヘルツェゴヴィナに派遣された。1998年に16年間首相の座にいたヘルムート・コールに代わり、SPDと緑の党の連立で、ゲーハルト・シュリューダーが首相の座に就いた。ユーゴスラヴィアの分裂後、コソボでは、ミロセヴィッチ率いるセルビアが、アルバニア人の殺戮を繰り返していた。国連はミロセヴィッチに対して、殺戮を止めなければ空爆に訴えると警告する。戦争に一貫して反対してきた緑の党の外相ヨシュカ・フィッシャーが、戦争への参加を決断しなければならなかったというのは、歴史の皮肉である。1999年、ドイツ空軍機はコソボの空爆に参加、その後平和維持軍としても参加した。このように、ドイツは人並みに同盟国の関わる紛争に参加することになった。2001年、ニューヨークのワールドトレードセンターにハイジャックされた航空機が突っ込むという「9∹11」事件の際、米国のブッシュ大統領はアフガニスタンのタリバーン政権がテロリストの温床になっているとして、タリバーン政権に対しての攻撃を開始した、ドイツはこの作戦に参加した。しかし、2003年、ブッシュ大統領が、サダム・フセイン政権のイラクを攻撃しようとした際、ドイツのシュリューダー首相はフランスのシラク大統領と共に戦争に反対した。米国はイラクに戦線を布告、勝利をしたものの、その後、イラクでは地下に潜った反対派からの爆弾テロが続き、多数の死者を出している。戦争を始めた英米は、戦争に勝利することよりも、その後の平和を維持することの方がいかに難しいかを知った。イラクでは2005年に国民議会の選挙が行われ、テロの危険が叫ばれながらも多くのイラク人、特に女性が投票所に出向いた。しかし、その後もテロは続き、現在まで35000人が犠牲になっている。国と国との戦争の他に、オサマ・ビン・ラーデンが率いるアルカイダなどの私的なテロリストのグループとの戦いも続いている。
<改革、改革、改革>
数十年間、ドイツは「経済的には巨人であるが、政治的には小人」と言われてきた。ようやくのことで政治的には「普通の大きさ」になったと思われたとたん、経済的、社会的には巨人ではなくなってきていた。各政党が政治的な判断よりも、党利党略を判断基準にしたため、必要な改革が先延ばしになってきていることが指摘されていた。2002年、SPDと緑の党は何とか過半数はキープしたものの、高い失業率、年金や健康保険基金の資金不足、膨大な国家債務など、このままではやっていけないことが明らかになった。シュリューダー首相は、「アゲンダ2010」という、政府の機能を縮小し、国民に負担を求める抜本的な改革案を提示する。この改革案は労働組合とSPDの中に大きな論議を巻き起こし、多くの支持者がSPDを去った。去った者たちは新たなグループを作る。SPDは急速に支持を失う。シュリューダー首相は総選挙を早め、2005年には総選挙が行われた。SPDから離脱したオスカー・ラフンテーヌが結成したドイツ社会主義党(PDS)が8.7%の票を得たため、CDU/CSUもSPD/緑の党の両方とも過半数を取れない事態に陥った。やむなく、CDU/CSUとSPDが大連立を組み、CDU/CSUの党首、アンゲラ・メルケルが、ドイツ最初の女性首相となった。新政権は、シュリューダーの提唱したアゲンダ2010を踏襲し、国家赤字の削減に努めた。この政策は一定の効果を示したが、それはメルケル首相の人気につながり、SPDは引き続き支持者を失った。2009年の総選挙では、CDU/CSUがFDPと連立して政権を握り、メルケルが再度首相に選ばれた。しかし、ここへ来て、州政府レベルでは、各々組み合わせが異なった連立政府が作られている。