ドイツ歴史(三)ドイツ統一から第二次世界大戦敗北まで

 

<社会主義者と社会に対する法律>

ドイツの統一も大きな変化だったが、国民には農業から工業への産業構造の変化が大きな出来事となった。農民は農業を捨て、都市に集まり、都市の人口は急速に増えた。また、住居や家族のあり方も大きく変化した。都市に流れ込んだ人々は劣悪な生活環境に甘んじる一方、ブームに乗った資本家たちはますます裕福になった。ビスマルクも、このままいけば「労働者の政党」が生まれ、それが力を持つことを予測し、怖れていた。事実、1863年に労働者の政党が結成され「ドイツ社会主義労働党」と名乗るその党は、社会主義的な要求を前面に打ち出し、1875年には二人の国会議員を帝国議会に送り出した。その後、彼らの得票が50万票を超えるに至り、ビスマルクはそれを抑えにかかる。皇帝暗殺未遂事件を社会主義者の犯行とした彼は、社会主義者の活動を禁じる法律を通す。しかし、禁止されている間も、労働者の党の活動は静まらず、1890年の選挙で国民の圧倒的な支持を得ることになる。ビスマルクはそれでも、労働者の権利、社会保障に対しては冷淡であった。ビスマルクがドイツ統一のヒーローなのか、自分の勢力を伸ばすために他人を踏みつけにするような政治家なのか、評価の別れるところである。おそらくはどちらも正しいと言える。

 

<古き良き時代?>

産業革命が進み、生活の近代化が急速に進んでも、ドイツの中では旧態依然の身分制度が続いていた。身分制度は大きく三つに分かれていた。第一が皇帝、貴族、「大市民」と呼ばれる資本家、第二が生産手段を持つ工場の所有者、大商人、銀行家、医者、法律家、教授等、そこに手工業者や小商人、事務員等の「小市民」、第三が農民と労働者であった。兵役は大切で、兵役で軍隊的に鍛えられた若者が社会で尊重された。議会は各身分より三分の一ずつ選ばれた。また、義務教育が始まり、間もなくドイツでは識字率が他国を上回ることになった。しかし、身分制度を越えた人材の徒用はほとんど行われなかった。女性は、父親や夫の従属物と考えられていた。ヘドヴィヒ・ドームのような女性運動家も現れたが、女性の身分の向上は遅く、高校進学が許されたのが1892年、大学入学が許されたのが1908年、選挙権は1918年まで待たねばならなかった。

 

<サーベルを鳴らす王の即位>

1888年にヴィルヘルム一世が死去、息子のフリードリヒ三世が三年で急逝したため、ヴィルヘルム二世が二十九歳で即位した。彼は、ドイツの統一、発展の時期に育った自信満々の人物であった。彼は音楽や美術の分野まで、自分の主義を通そうとした。「自然主義者」は社会民主義者と疑われて、その作品の発表、上演が禁じられた。彼はこれまで他のヨーロッパ諸国との間でバランスを取っていたビスマルクを免職し、自ら外交に当たった。その強引なやり方は他国の反発を買い、ドイツは次第に孤立していった。当時、アジアやアフリカの植民地化は、ほぼ終了していた。ビスマルクはこれまで海外政策にはあまり興味を示していなかった。ヴィルヘルム二世は、植民地獲得のために、海軍の増強を始める。ドイツが海軍の制限条約に入らなかったことで、ドイツは完全に他国から敵視され、孤立することになった。ドイツを巡る情勢は、僅かの火花で爆発を起こす火薬庫のような状態になった。

 

<喜んで戦場へ>

 1914年、ボスニアのサラエボでオーストリアの皇太子夫妻がセルビアの独立運動員に暗殺された事件をきっかけに第一次世界大戦が始まった。列強が覇権を競う中で、ほんの小さなきっかけながら、必然的に始まった戦争だと言える。当時ヴィルヘルム二世はオーストリアが他国に開戦するときは同調するという書簡を送っていた。オーストリアがロシアを後ろ盾にしたセルビアに対して宣戦したので、ドイツもロシアに対して宣戦布告をせざるを得なくなった。19148月、ドイツはロシアに対して戦いを始めると共に、フランスにも出兵した。ロシアとの東部戦線に集中するには、まず西部戦線、つまりフランスを食い止めておく必要があったからだ。短期決戦を意図したフランス侵攻であったが、フランス軍とそれを支援する英国の抵抗は激しく、戦線は膠着状態になってしまう。戦争が長引くにつれ、兵力は消耗し、武器弾薬の不足も深刻になる。参謀本部はフランス軍との「物量戦」に賭け、セダンで激しい戦闘の後、双方で70万人が死亡する。しかし、決着は着かない。191612月、ドイツ政府は参謀本部の意向を無視して、和平交渉を始めた。しかし、参謀本部は更に潜水艦による無差別の艦艇攻撃を支持した。これによって米国が参戦した。

 

<ドイツを通って革命へ>

19173月ロシアで革命が起こり、皇帝は退位し、共和制が宣言されたが、多くの政党が争うことになった。共産主義者で、レーニンを指導者とするボルシェビキは、スイスに亡命していたが、ロシアに帰るため、国内通過の許可をドイツ政府に対して求めてきた。参謀本部は、レーニンの帰国が、ロシアの国内情勢を一層不安定にし、停戦に持ち込めるのではないかと期待し、彼の国内通過を許す。参謀本部の目論見は当たったかに見えた。戦争を終結させ、国内問題に専念したいレーニンは、ブレスト・リトヴスク条約で、バルト三国やフィンランド、ポーランドを手放すことを認めた。彼は、労働者、農民、兵士による共和国、ソヴィエト共和国を作る。超保守的な参謀本部が、ソヴィエト連邦を作る一翼を担ったということは皮肉なものである。

 

<勝利による終結か、和解による終結か>

ロシア国内と同じように、ドイツでも国民の困窮と厭戦感は高まり、各地でストライキや暴動が起き始めた。また、議会でも、政党による戦争への協力が揺らいでいた。これまで戦争に協力してきた社会民主党のうち、リープクネヒトとルクセンブルクが戦争の即時停止を求めて、これ以上戦争へ協力を拒否し党から離れた。残りの社民党は、カトリック中央党、左翼自由党と組んで、国土の保全と、賠償金なしの停戦を参謀本部に提案した。しかし、東部戦線での勝利に酔っていた、ヒンデンブルク/ルーデンドルフはそれを拒否。更に戦争を続け、西部戦線ではまた多数の無意味な死者を出した。1918年、いよいよ敗北が決定的になった際、参謀本部はその責任を議会と政党になすりつけようとした。ルーデンドルフは、政党を政府に参加させ、彼らに戦争終結の交渉をやらせ、敗戦の責任を逃れようとした。

 

<十一月革命>

191810月、最後の決戦のための出撃命令を多くの海軍兵たちが拒否、兵士による反乱はヴィルヘルムスハーフェン、キールから各地に広がり、ソヴィエト式の兵士による議会が作られた。敗戦の色が濃くなってから滅多に顔を見せなくなっていた皇帝ヴィルヘルム二世はオランダに亡命した。首相マックス・フォン・バーデンは1918年、皇帝の退位と自らの辞職を発表、後継の首相として社会民主党のフリードリヒ・エベルトを指名した。しかし、その後ドイツがどのような道を進むのかは全く決まっていなかった。社会民主党は「イツ共和国」の成立を宣言し、リープクネヒトは「ドイツ自由社会主義共和国」の成立を宣言した。ドイツにはソヴィエトように全てを潰してゼロからの出直しという機運は希薄だった。エベルト、シャイデマンは、現在までの機構を利用しつつ、議会制社会民主主義へ移行させようとした。彼らに対して、革命を中途半端で終わらせ、旧勢力と妥協したという非難もあるが、1919年の憲法制定議会の選挙で、社民党、中央党、左翼自由党が76%の票を獲得したことを考えると、国民の多くも、急進的な革命を望んでいなかったことが分かる。

 

<ヴァイマール憲法とヴェルサイユ条約>

ドイツ帝国の崩壊の後、革命勢力と、政府から治安維持を託された「義勇団」の間に衝突が続いた。1919年、共産党のリーダーであるリープクネヒトとルクセンブルクが義勇団によって殺害される。ベルリンの治安が悪いため、新憲法制定のための議会が19192月、ヴァイマールで開かれた。そこで、ドイツとしては画期的な憲法の草案が作られた。そこでは女性の参政権も含めた普通選挙、議会制民主主義が盛り込まれ、皇帝に代わり、国民の直接投票による大統領制も盛り込まれた。失敗に終わった1525年の農民議会、1848年の国民議会の後、やっとドイツは民主憲法を手にしたことになる。「権利と自由の敵にも同等の権利と自由を」という理想主義は、最初から多くの障害に出会う。まず、ドイツと戦った同盟国が厳しい条件をドイツに突き付けてきた。ドイツは領土の七分の一、人口の十分の一、資源の四分の一、全ての植民地を放棄すること。再軍備の禁止。賠償金の支払い。この厳しい要求は、ドイツ人に失望と怒りを巻き起こした。シャイデマン首相は、ヴェルサイユ条約への署名を拒否して辞任する。この間、本当に戦争と敗戦に責任のあったヒンデンブルクやルーデンドルフは、一貫してその責任を認めようとせず、責任は全て、政党と民主勢力にあるという態度を取った。その結果、敗戦の責任と、その後の困窮を政党の責任と考えるドイツ人も多く、そのことが新しい民主主義体制への大きな足かせとなった。

 

<ヴァイマール共和国の危機と安定>

1920年の帝国議会選挙で、ヴァイマール連立政権の得票が43%まで落ちた。そのため、政権樹立のため、左翼、右翼と更に連立しなければならず、安定した政治運営は困難となった。その後、平均して九か月に一度政権が交代した。この混乱に乗じて国粋主義者と共産主義者はテロを企て、1918年から21年にかけて実に376人の政治的な暗殺事件が起きた。左翼による犯行は厳しく捜査され罰せられたが、右翼による犯行はそうでもなかった。ここで初めてアドルフ・ヒトラーが登場する。彼は、ミュンヘンで政権打倒の暴動を企てるが、逮捕された後、ごく軽い刑に処せられたに過ぎなかった。賠償金支払いのために紙幣を増発したため、猛烈なインフレーションが起き、1914年には0.32マルクだったライ麦パンが1923年には400000000000マルクになった。生産手段を持つ者はそれほどインフレの影響を受けなかったが、年金生活者等は困窮した。1924年、新通貨が発行されるようになり、経済はようやく安定する。外務大臣であったシュトレーゼマンはドイツ国民を着実に統一へと導き、1926年には国民同盟が結成された。「黄金の二十年代」と呼ばれるほど、ドイツは経済的にも、科学的にも、芸術てきにも発展を見せた。ブレヒト、トーマス・マン、ヘッセ等が、古い価値と新しい価値の間で悩むドイツ人を描いた。美術の分野でも、貧しい人々の日常生活を描いた作品が現れた。

 

<茶色い危険>

ヴァイマール共和国の知識人は「茶色い危険」を感じ取り、警告を発していた。国家社会主義党とその指導者アドルフ・ヒトラーに対してである。ヒトラーはオーストリアのブラウナウで生まれ、優秀ではあるが孤独な生徒として学校生活を送る。その後ウィーンの美術学校の入学試験に二度落ちた彼は、自分で描いた絵葉書などを売って生計を立てていた。徴兵検査を受けるが、身体が弱すぎるという理由で拒否されている。第一次世界大戦の勃発で、ヒトラーは志願兵として参加する。そして、その中で次第に演説の才能を認められるようになる。彼は、戦争の勃発、敗戦は全てユダヤ人のせいであるとし、政治や経済からユダヤ人を排斥するべきだと論じた。彼は除隊後、1919年に「ドイツ労働者党」に入り、数か月後には党の中心人物となる。1920年、彼は党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(NSDAP)に変更し、ハーケンクロイツを党のシンボルにする。大ドイツの実現、徴兵制の復活、ヴェルサイユ条約の破棄、ユダヤ人の排斥など、ナチスの基本的な政策を決定した。1921年、彼は党の代表となる。彼は茶色い制服に身を包んだ「突撃隊」(SA)を組織、ある種の軍隊のような組織とする。1923年、彼はミュンヘンでの政府打倒の反乱に加わるが、鎮圧され投獄される。そこで彼は「我が闘争」を書いた。出獄後、彼は党の方針を合法的なやり方に修正、「親衛隊」(SS)を組織し、ゲッペルスを宣伝担当として登用する。しかし彼の党の勢力は、1930年代の世界恐慌までは、まだ取るに足らないものであった。

 

<ヴァイマール共和国の終焉>

比較的平穏であったヴァイマール共和国も1929年の世界恐慌で大きな転機を迎える。1025日もニューヨークでの株式暴落で始まった恐慌は、ドイツにも波及し、経済活動は低下し、失業者が溢れた。その状況を過激な党が利用する。共産党はそれを資本主義経済の制度的な破綻であるとし、ソ連のような共産主義の実現を唱える。一方ヒトラーの率いるナチスは、全てが陰で経済を操るユダヤ人の責任であるとし、ユダヤ人の排斥を訴えた。彼は同時に共産主義者への攻撃も強めた。1932年の帝国議会選挙で、NSDPA37%の得票で第一党となる。共産党も14%の得票で第三党となり、この二つの党以外に、政権を担当できる者はいないと思われた。事実組閣は困難を極めた。連邦大統領のヒンデンブルクは既に年老いて、判断能力がなかった。彼の側近は、ヒトラーを状況の収拾に利用しようとし、19331月ヒトラーを連邦首相に指名した。これをもってヴァイマール共和国は終わったと言える。

 

<誰が誰を追い込んだか>

ヒンデンブルクの側近で、副首相として入閣したフランツ・フォン・パペンは「二か月後にはヒトラーを追い込める」と語った。しかし、立場は全く逆になった。ヒトラーはその著作や演説の中で、議会制民主主義の廃止、列島民族の排斥、東への勢力拡張を謳っていた。最初それを真剣に取る人は少なかったが、少なくともヒトラーは真剣で、それを実行した。ヒトラーが首相に就任するや否や、SSSAが反対する人物を捕らえ、収容所に入れ始めた。2月にはゲーリングが内相に就任、警察もナチスの手に握られた。227日、帝国議会が火災を起こした原因を、共産主義者の蜂起としたヒトラーは、非常事態として権限を首相に集中化するという法律をヒンデンブルク大統領に署名させる。これで、彼は全ての権限を握ったことになる。5月に最後に行われた選挙で、ナチスの得票は43%に過ぎなかった。しかし、このような事態の中、得票率は意味を持たなかった。共産党の議席を消し去った後、議会の三分の二の勢力を得たヒトラーは「権限移譲法」を成立させ、憲法を含む法律の変更を、政府が議会の承認を得ることなしにできるようにした。これに反対したのは社民党だけであった。また、ヒトラーは全ての州政府の権限を、中央政府に移管した。これによる中央集権制を「神聖ローマ帝国」、「ドイツ帝国」に続くものとして「第三帝国」と呼ぶ人もいる。労働組合と社民党は禁止され、その他の政党も「自主的に」解散させられた。その年の7月には、政党はNSDAPだけとなった。

 

<全体主義への道>

ヒトラーとナチスの全体主義的な思想は、着実に公私両面に浸透しつつあった。ヒトラーは、自分の勢力を伸ばすためには、暗殺も厭わなかった。1934年、彼は勢力を伸ばそうとしたSAの責任者エルンスト・レーム始め、全てのSA指導者を粛清している。ヒンデンブルク大統領の死により、ヒトラーは自らを「ドイツ帝国とドイツ国民の統率者」と名乗り、軍隊の統率権をも握った。ヒトラーは若者に自分の考え方を感化させることに特に力を注いだ。若者はヒトラーユーゲントなどの組織に入れられ、ナチス的な思想を叩きこまれた。中道や左翼的なジャーナリスト、芸術家は亡命を余儀なくされるか、強制収用所に送られた。大学でも、ナチスの方針に反対する教授は次々と解雇された。しかし、学者や芸術家の中には、ナチスにおもねる者も多数いた。国民の大多数は、ドイツをヴァイマール共和国時代の混乱から救ってくれる強い指導者を求めていた。ヒトラーは欧州で最初の高速道路、アウトバーンを作った。それは戦争の際、軍隊の迅速な移動を目的としたものだったが、国民はその本当意味を知らなかった。ゲッペルスによる巧みな情報操作により、大多数の国民は自分達の置かれている状態について問うこともしなかった。1936年にベルリンで開催されたオリンピックは、国民の自尊心をより一層満足させるものであった。

 

<ナチスへの抵抗運動>

ヒトラーが政権を取ってからも、ナチス政権に反対する人はいた。それは、ナチス式の敬礼を拒むという者から、行為に訴えるものまで色々であったが。共産主義者、社会民主主義者は地下へ潜った。牧師ニーメラーは教会のナチスへの協力に反対し独自の教会を設立した。ライン・ルアー地方ではヒトラーユーゲントに反対する青少年が「エーデルワイスの海賊」という組織を作って反対運動を行い、ミュンヘンの学生組織である「白いバラ」が抵抗運動を行った。しかし、その参加者は逮捕処刑された。ヒトラーの暗殺も何度も企てられたが、どれも失敗に終わった。13000人がナチス独裁に反対し、死刑を宣告され、そのうち12000人が実際に処刑された。

 

<ヒトラーの狂った人種思想からホロコーストへ>

ヒトラーは優等人種と劣等人種があり、北ヨーロッパの人種「アーリア人」が最も優等で、ユダヤ人が最も劣等であると考えていた。そして「自然法則」により、優等な種は劣等な種を駆逐するということを正当化していた。ヨーロッパにはもともとユダヤ人を排斥する思想があり、当時は、その思想が広がり易い状況下にあった。しかし、最初は誰もその思想をヒトラーが本当に実践するとは思っていなかった。193341日、ヒトラーはユダヤ人商店のボイコットを呼びかけ、SAがユダヤ人の店を取り囲むに至り、人々はそれが本気で行われることを知った。1935年、ニュルンベルク法により、ユダヤ人と非ユダヤ人の結婚が禁止された。1938年、シナゴーグが焼き討ちされたが、それまでに既に十三万人のユダヤ人が国外に逃れていた。その後、さらに八万人のユダヤ人が国外に出る。そして残ったユダヤ人は、経済活動から締め出され、強制収容所に送られることになる。最初占領下のポーランドで行われたユダヤ人への殺戮が次第にドイツ国内でも行われるようになる。しかし、いちいち銃殺していたのでは間に合わない状態になった。1942年、ユダヤ人問題を最終的に「解決」する方法が話し合われる。そして、大量の殺戮と、死体の廃棄を目的とする収容所が新たに作られた。アウシュビッツだけでも一日5000人から6000人のが殺され、戦争の終結までに六百万人のユダヤ人が殺された。このように、ある宗教を信じる者を、システマチックに殺すための「工場」を作るということは、過去の歴史に例がないものである。では、非ユダヤ人の人々はこのことを知っていたのだろうか。これは長い間議論されてきた問題である。しかし、そのような大規模な殺人システムを機能させるためには、大勢の人々の関与が必要となる。また、大多数の国民が、ユダヤ人が無視され、迫害され、連行されるのを見て、ユダヤ人が酷い扱いを受けているのを知っていた。しかし、大部分のドイツ人の眼には大量殺人は隠されていたと思われる。このような中、オスカー・シンドラーのように、私財を投げ打ち、身を危険に曝しながらもユダヤ人を助けようと人がいたことを付け加えておきたい。

 

<総力戦>

ヒトラーは首相への就任時より、マルクス主義打倒、東側へのドイツの勢力の拡張を唱え、戦争への意思を示していた。段階的なヴェルサイユ条約からの離脱、1919年に失った領土の回復等を、ヒトラーは目指した。周囲の諸国は、戦争を避けるため、ヒトラーの政策を容認した。これがヒトラーの外交政策に拍車をかけることになる。ドイツ国民は、ヴァイマール共和国の政治家がなしえなかったことを、ヒトラーがいとも簡単に進めるので、彼への畏敬を強めた。ナチスはヒトラーを「解放者」と神格化をする宣伝を行い、多くの国民がこれを信じた。第一次世界が終わった25年しか経たない1939年、ヒトラーはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった。その一週間前、ヒトラーはソ連のスターリンと互いに参戦したときは中立を守るという条約を結んでいた。その裏にはポーランドの分割、併合という意図があった。ソ連との同盟は戦争になった際、フランスと英国の参戦を遅らせる意図があり、事実その通りになった。電撃戦でポーランドを制した後、19404月、ヒトラーはフランスに侵攻した。デンマーク、ノルウェーを占領した後、5月にはオランダ、ベルギー、フランスを攻撃、電撃戦が功を奏し、6月にはドイツ軍がパリを占領した。フランスは降伏し、ヒトラーは勝利者として成功の頂点に立った。西部戦線が一段落したので、ヒトラーは再び東部戦線に集中しようとした。しかし、ここでウィンストン・チャーチルが率いる英国が参戦する。ヒトラーは空軍により英国の制空権を得ようとするが、英国側の抵抗が激しく、1941年、ヒトラーは英国への攻撃を一時中断する。彼は、スターリンとの同盟を破り、ソ連に侵攻する準備をする。19416月、ドイツ軍はソ連に侵攻する。キエフが陥落、レニングラードとモスクワも包囲される。ヒトラーは両都市を壊滅させるようにという命令を出す。しかし、ソ連軍の抵抗も激しく、ロシアの冬を迎える。寒さに慣れていないドイツ軍は窮地に陥る。1942年、ドイツ軍はスターリングラードを占領するが、二回目の冬を迎え、消耗が激しく、スターリングラードのドイツ軍はソ連軍に降伏する。米国が参戦し、英国と協力し、ドイツの都市に容赦のない空襲を加え始めた。ゲッペルスは国民に総力戦を呼びかけるが、大部分のドイツの都市は既に廃墟と化しつつあった。5500万人の犠牲者を出した第二次世界大戦は、1945年、ドイツの無条件降伏で終了した。ヒトラーはその数日前に自殺していた。ナチスの指導者は戦争犯罪人として、戦勝国によってニュルンベルクで裁判にかけられ、12人に死刑が宣告され、他の者にも厳罰が下された。

 

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