願わくは花の下にて
荒神橋の袂にあった早咲きの枝垂桜。桜を見てから京都を発ててよかった。
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」(西行)
ロンドンへ戻る前日、医者をやっている同級生のDくんに出してもらった睡眠薬が切れかかったので、また貰いに彼の開業する岡崎まで自転車で走る。例によって鴨川の畔を走る。鴨川の桜はまだ蕾が膨らんだ状態。しかし、早くも花見の場所取りのために、桜の木の下に青いシートを敷いて、寒そうに座っている若者がいる。夕方まで座っている彼も大変だが、この寒いのに咲いてもいない桜の下で花見をする人々も大変だ。
荒神橋の袂に、もう開いている枝垂桜が一本あった。
「この桜の木の前を通るたびに、きっと父のことを思い出すだろう。」
僕はそんなことを思って、その桜の木の傍にしばらく自転車を停めて佇んでいた。先にも述べた、伊丹十三の映画「お葬式」の中で、葬儀が終えた主人公が、
「死ぬなら春の桜の頃がいいよな。火葬場の煙と一緒に、花吹雪が舞っている、最高じゃないか。」
と言っていたことを思い出す。父の死は桜の季節よりは少し早かったが、何故か桜が、特にこの荒神橋のこの桜の木が、僕にとって、今後父を思い出す「キーワード」、「節目」になるような気がした。
岡崎のD医院を出たのがまだ九時過ぎ、僕はまたまたサイクリングを試みた。今回は東山界隈。知恩院、八坂の塔、清水寺と寄ってみる。娘たちの土産に、清水焼の茶碗を買う。茶碗の底に「お多福」の顔が描いてあるが、手描きであるため、それぞれ微妙に違っているのが面白い。三十三間堂まで足を伸ばそうと思ったが、小雨が降り始めたので戻る。
その前夜、トモコとイズミと夕食を取った。その時知ったのだが、トモコが一月に父を見舞ったとき、父は、トモコには弱音を吐いていたという。父は僕に対して常々、
「葬式のときまで帰ってくる必要はない。」
と言っていた。しかし、トモコが見舞ったときは、父は、
「モトヒロも孫も誰も来ない。」
とこぼしていたという。当然のことながら、病院のベッドで独り寝ていた父は寂しかったのだ。
トモコは父親と夫を看取っているが、そのときのことが話題に上った。今回自分で経験して思ったのだが、人間が死ぬ前後の話というのは、誰においても、荘厳で説得力のあるものだと思った。死んでいった人達が周りの人達に伝えようとしたメッセージを、感じ取るからだろうか。
三人でワインを飲みながら、チーズとママレードの乗ったクラッカーなどをつまんでいると、仕事を終えたトモコの娘のユカが現れる。彼女はいま保母さん。小学校の先生をしているトモコもうそうだが、人間を相手にする商売って、本当に大変だと思う。