第七章:犯罪者と犯罪学者

 

編集者が第二のスティーグ・ラーソンを捜すために、「折り重なって転んでいる」と言っても、誇張ではない。「髪を振り乱して、口角に泡を浮かべ殺到している」というのも、適格な表現かも知れない。そのホープとしてまず、スウェーデンでは大きな成功を収めながらも、まだ英国ではそれほどでない、不釣り合いなコンビが、固まってきたようである。そのコンビ、ひとりはジャーナリストで犯罪学者、もうひとりは矯正した元犯罪者である。ロスルンド/ヘルストレーム(Roslund / Hellström)という苗字で呼ばれるふたりの作家の、小説「三秒」(Three Seconds)は、その評判道理の良さを誇っている。

ビョルゲ・ヘルストレーム(Börge Hellström)の犯罪歴は既に過去のものとなった。成功を収めた、はにかんだユーモアを持つ、熊のような大男である。彼がジョン・レノンだとすると、受賞歴のある、歯に衣を着せないジャーナリストで、パートナーと同じような皮肉に満ちた側面を持つアンデルス・ロスルンド(Anders Roslund)は、ポール・マッカートニーであると言える。(スウェーデンの総選挙で、極右勢力が勝った数日後、私はロスルンドに、

「何時スウェーデンがスティーグ・ラーソンが描いたような分裂した社会に転じるのか。」

と、聞いたことがある。彼はあっさりと

「もうこの前の選挙で始まっている。」

と答えている。

このコンビの作品の、最初の英国での翻訳である「野獣」(The Beast)は二〇〇五年に出版された。この本は、犯罪小説というジャンルを、新しい、不穏を内に秘めた領域へと導くものだ。

ふたりの子供の死体が地下室で発見される。犯人は捕まるが、四年後、刑務所から脱獄する。もし彼を直ぐに捕まえなければ、新たな犠牲者が出るというのが厳しい現実である。しかし、そこで考えられないようなことが起こる。近くのストレングノスの町で、別の子供が、残虐なやり方で殺されたのだった。その結果、人々の間の恐怖心が高まり、ついにはマスメディアがヒステリックに書き立てるようになる。殺された子供の父親、フレドリック・ステファンソン(Fredrik Steffansson)は復讐の念に取り付かれる。ステファンソンの行動の影響は国中に野火のように広がる。ふたりの警官がこの件にアサインされる。エヴェルト・グレンス(Evert Grens)とスヴェン・スンドクヴィスト(Sven Sundkvist)である。犯人による暴力と、市民によるヒステリーの両方に直面し、彼等は対処を迫られる。「野獣」は時として現れる粗削りな表現のために、深い不穏さを感じる小説である。また合理的なスウェーデン人の中に広がる伝染性の集団暴行の可能性の賢明な検証でもある。安易な結論や、改善の可能性は示されていない。「野獣」は、批評家による賞賛に関わらず、英国ではわずかに波紋を呼び起こしたにすぎなかった。  

「ボックス二十一」(Box 21, 2008)がそれに続く。(米国ではThe Vaultというタイトルである。)小説は前作ほど嫌悪感を喚起する努力はなされていない。(この小説の筋は、売春のための人身売買と、人質拉致事件である。)しかし、所々にパンチが効いており、煩わしさは感じられない。ひとりの怪我をした女性がストックホルムの病院に収容される。そこで医者は彼女が何度も鞭で打たれたことを知る。彼女の名前はリュディア(Lydia)、彼女は人身売買組織のひとつ「コマ」であった。彼女の出身はリトアニアで、彼女の窮状の原因は冷淡なボーイフレンドによるものであった。ストックホルムの売春宿で、彼女は自分の意思とは関係なく出来てしまった借金を返すために働かされていた。タフな警察官スンドクヴィストとグレンスは病院に向かう。彼らはマフィア組織のボスを追っていた。言うまでもなく、リュディアと警察官のふたつのストーリーは間もなくつながり、リュディアが人質を取って立て篭もるという、クライマックスへと向かう。ロスルンドとヘルストレームのこの前後の小説がそうであるように、北欧社会の幾つかの要素としてここで視覚的に提示されたものは、妥協を許さないほど殺伐としており、スティーグ・ラーソンの皮肉なレベルに比べると、想像を絶するほど許し難いものである。

 キューカス(Quercus)という、スティーグ・ラーソンの人気に火をつけた別の出版社で、コンビが出した新しい本は、より興味深いものだ。「三秒」(Three Seconds, 2010)は「ドラゴン・タトゥーの女」との比較をもたらした。その詳細には同じ強迫の杭が打たれている。それは同じような警察や司法当局に広まる汚職である。そして、ゆっくりした、挑発的な最初の章から、急にギアが上がるというラーソン式の手法も取り入れられている。しかしこのような比較はさて置き、ロスルンドとヘルストレームは独自性を発揮している。私服警官と、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーの刑務所の中に麻薬市場を広げようとするポーランド人マフィアの凌ぎあいが扱われていることなど。(北欧の大部分の小説以上に、コンビは北欧の国々を、単一レベルで、つながりのある物として捉えている。)

ストックホルムで起きた殺人は、麻薬取引のもつれからのもののように見える。しかし、そこに、私服警官が関与していた。私服警察官のエース、ピエト・ホフマン(Piet Hoffmann)は最高の警備レベルを誇る刑務所に、ポーランド人のマフィアの供給する麻薬を浸透させねばならなかった。しかし、麻薬の売人の振りをしているもうひとりの私服警官の殺人に、自らが関与していることを知る。最初の三分の一は「アンダンテ」で書かれている。しかし、その後テンポは常に「アレグロ」となる。ロスルンドとヘルストレームはじっとりとしたサスペンスの中で、アイデンティティーの性質について、はっきりとした場所に導こうとしている。「三秒」はその理知的な装いをしていなくても、低級のブロックバスター作品ではない。

 ロスルンドとヘルストレームが新しいスティーグ・ラーソンなのだろうか。それともヨー・ネスベーが既にその地位に就いたのだろうか。実際、誰が、北欧の犯罪小説の最高位につこうが、売れ行きに一喜一憂する出版社を除けば、どうでもよいことである。

 アンデルス・ロスルンドは、スティーグ・ラーソンとの関係について以下のように述べている。

「自分にとって、ラーソンは世界的な現象ではない。彼は私にとってまだローカルだ。それは、私がスティーグ・ラーソンを扱うやり方は、昔も今も、自分にとって大変大切なものだからだ。私自身が、かなりの長い間、極右組織を取り上げた調査をするジャーナリズムに関わってきた。私は、一度は右翼にとって殺すべき敵のナンバーワンであり、暴力を受けたこともある。実際、私は脅迫に晒されているテレビ人として全ての新聞に紹介された。ボディーガードを付けて、数多くのホテルを泊まり歩き、住所が公になる前に、次の『「安全な家」に移り住んでいた。『殺す』と脅されたことさえある。そんな脅迫を受けたとき、私は同じような脅迫を受けているのを知っていたスティーグに連絡し、ネオナチ組織から身を守る方法について教えを乞うた。我々は共通の問題を抱え、一緒に働いた。彼を亡くしたのは本当に残念だ。彼の死後、経済危機が世界に広がり、スウェーデンにおいて、極右勢力が政治的に重要な力を持ち出した。」

アンデルス・ロスルンドは、「最も偉大なスウェーデンの作家」であるアウグスト・ストリンドベリ(August Strindberg)の文学的な遺産から影響を受けたことを認めている。(ロスルンドとヘルストレームの作品の中にある物質的なものへの不安を北欧的に分析した荒涼とした世界観を識別することはできる。彼らの語り焦点が、ストリンドベリの描く家庭内の葛藤に比べて、個人的ではないにしても。)また、数多くのスウェーデンの作家と同じように、ロスルンドは、ヘルストレームも同様に、犯罪小説というジャンルを、シューヴァル/ヴァールーにより知った。(ヘルストレームは、殆ど知られていない英国のデニス・ウィートレイ(Dennis Wheatley)からも影響を受けたと言っている。)

「マイ・シューヴァルは私たちの親しい友人である。そして、彼女との会話や議論から、彼女と夫のペールが彼らの十冊の本は実はひとつの物語で、それを分割して執筆したと考えていることを知った。彼らの考えを知り、彼らの意図に賛同するためには、十冊全部を読む必要がある。」

ロスルンドはスウェーデンのBBCに当たるスヴェリイェス・テレヴィジオン(Sveriges Television)で十五年間働いた。

「私は文化ニュースであるKulturnyheternaを始めた。その番組は成功したし、今も続いている。レポーターや編集者として、プライムタイムに放送された社会における犯罪の帰結について、野心的なレポートをし、何百万もの視聴者を集めた。スウェーデンの大部分の人が見ていたと思うが、我々が提示した主題を誰も覚えていないことに気付いた。だから、私は小説を書き始めた。そして、それがビョルゲとの共同執筆のスタートだった。テレビの番組を作ることは、砂の上に字を書くようなものだ。私のやり方が、国中の家のリビングルームに流れるが、その内容は直ぐに忘れ去られてしまう。ニュース番組で、何が後で記憶に残るだろう。犯罪小説を書くこと、緊張感のあるスリラーを作ることの、まずはエンターテインメントや余暇を過ごす目的だろうが、人々に社会がどのように動いているかを、大部分が知らない現実を、見せることの助けになるかも知れない。それは大衆に接近し、大衆との接点を作るのにもっと良い方法だ。犯罪小説というジャンルを使ってエンターテインメントを行うことで皆から愛されるとしても、その中に、時には、少しだけは『教育』があってもよいのではないか。」

ロスルンドは、自分とは全く違う、問題に満ちた過去を持ったヘルストレームとの出会いを語る。

「私は非営利団体の『KRIS』(社会に復帰した犯罪者たち)についてのドキュメントリーを作っていた。そのときビョルゲがかつての犯罪者や麻薬中毒者を組織してくれた。私は長い間余暇の時間を、重要犯罪人をサポートしている保護観察官と一緒に過ごした。同じようにビョルゲとも。社会がどのように動いているのは知っているが、自分の生活を変えようとしている元犯罪者、また刑務所から普通の社会への変換をしようとしている元犯罪者を助ける、国家権力を離れたところで運営されている組織を、私は長い間捜していたのだった。我々は、文字通り、釈放された人々を迎えるために門の前に立っていた。ビョルゲはこの外国でも放送された番組に登場してくれた五人の元囚人のひとりだ。我々は彼がストーリーを作ることに長けていることを知った。我々は犯罪についての各々の知識を、ストーリーに織り込むことができるからだ。」

社会に対する容赦のない論評が、もちろんこのコンビの作品の鍵となる構成素である。(しかし、シューヴァル/ヴァールーの「マルティン・ベック」シリーズに比べて、公然とした政治的なトーンは控えめである。)彼らは、政治的、社会的な要素を、フィルターを透して犯罪小説に注入するという永年の伝統を明快に尊重している。ヘルストレームによると、

「社会的な論評を一度フィルターにかけていることが、多くのスウェーデンの犯罪小説が、何故これほど人気があるかということの理由だと思う。社会的な事項を伝えることは、決定的な要素になってきている。ロスルンドとヘルストレームがやっていることは、それらの事項を更に一歩先まで持ち込んで、その選択、特定の問題の裏にずっと潜んでいるアイデアを読者に自問させることである。我々は読者に本の中で読んだことを自分で理解し考えて欲しい。我々の立場や意見を押し付けるのではなく。しかし、ストーリーに薬味をつける社会的な事項は、我々の小説の中では二次的なものだ。一番大切なことは読者に楽しんでもらうことである。」

ロスルンドはこの要素をコンビの作品に拡大している。

「ビョルゲが不幸な過去を持っているので、また私が子供に対する痴漢や、小児愛者の対処に関するルポルタージュ作る仕事をしたことがあるので、我々は全く違った角度からこの難しい問題に関する知識を獲得することができた。」

彼らの小説「野獣」における性的な虐待というテーマは、この共同執筆者にとって特別な反響を持っている。

 ヘルストレームは語る。

「これは私にとって、個人的な事項なのだ。私は男性から三度性的に虐待を受けた。そして、そのことを誰にも言わなかった。しかし、それは自分の中に三十年以上持ち続けたトラウマだった。三十七歳のときに初めて、私がその男たちがどのように私を虐待したかを語り始めた。それは、私の心の一ページを開けることで、痛みを伴うものだったが。それは我々のデビュー作『野獣』にとっては大切なものだった。そして、嬉しいことに、その本は賞を受けたし、自分たちは作家として認識された。しかし、我々が『野獣』の後に書くどの本も、その本だけに新しい登場人物を用意した。」

ふたりとも「北欧の作家」などという概念は存在しないと言う。

「ノルウェー、スウェーデン、デンマークの作家たちを比べたら、それはかなり違っている。ラーソンや、ロスルンド、ヘルストレームは存在しない。北欧の作家というアイデンティティーは、文体的に存在するかも知れないが、我々は皆違っている。スウェーデンの異なった作家を比べたら、我々は独特のアイデンティティーを持って、明確に異なった技法で本を書いていることは明確であろう。全てはアガサ・クリスティーの伝統に近い作家から、我々、ラーソン、その他の「モダン」な作家に至るまで、スペクトラム(分光器)のように別れている。これは、ジャンルや、数々の作家の価値を決めるものではない。これは変化に富んだ豊穣な土壌であり、違いの上に繁栄しているのである。

スウェーデンには独特の伝統がある。これは称賛に値することだが、スウェーデンの出版社は、何年もかかって、犯罪小説を育成し、強力な、独立したジャンルとして扱い、我々のような作家がやっていることに、つまり、社会の問題や内面によって染み出された良いストーリーを語ることに、尊敬の念を示している。もちろん、スウェーデン人として、自分たちの周囲に暗闇があることや、長く暗い夜が時間や人間の感情に違った特性を作り上げることに効果があることが、それを助けている。しかし、我々は、自分たちを国際的な作家だと認識しようと努力している。

我々の主人公の刑事エヴェルト・グレンスは決して尊敬に値する人物ではない。彼は、自分のオフィスの擦り切れたソファで眠り、何か問題が起こると、六十年代のシヴ・マルムクヴィストの歌を流し、部屋の真ん中でダンスを始める。彼の生活の全てが目的に向かって進んでいた頃を思い出しながら。彼は時々殺人事件を解決する。しかし、我々はグレンスの観点からだけからストーリーを語ることはしない。ひとりの人間の内側だけに留まることは我々にとって十分に面白いことではない。探偵と犯人の両方を理解すること、社会の両方の観点から見ること、双方の理由付け、動機の一部となることが、作家として、刺激的なことのだ。我々はいつも複数の観点を使うようにしている。それによってより多くのドラマチックな可能性作ることが出来るからである。我々は自分たちのストーリーを政治的に使わないようにしている。しかし我々の本の底流にあるジレンマは政治的なものである。かつて、スウェーデンであれほど賞賛され、祝われていた社会福祉システムは、またそのシステムの上に国が成り立っていると言ってもいいのだが、疑いもなく、連帯と正義という社会民主主義の理想の具現化されたものである。今、我々はそのモデルを、もうそれを維持できないという口実で、徐々に、容赦なく、解体していっている。」

先にも書いたが、ロスロンドがジャーナリストとして、永年に渡り、刑務所そのものや、長い懲役を命じられた重大な犯罪者の保護観察官に関する仕事に取り組んでいる頃、相棒のヘルストレームは、麻薬によって有罪となった受刑者の立場から刑務所を見ていた。ふたり合わせると、このコンビは、非常に広い、ふたつの全く違った角度からの、知識の蓄積を持っていると言える。三十年間服役している人物と隣同士に座って話ができる、あらゆる分野での犯罪者を扱ったことのある警察官と会って話ができる、刑務所の警備の責任者から、どのように警備が行われるのかキーになる情報を収集できる、これらは、ふたりが苦労して、時間をかけて培った信頼関係の上に達成でいるものである。そして、これらを保持していくことは、ふたりにとって不可欠なことなのである。

しかし、面と向かった、妥協の許さないやり方のプロジェクトで彼らはどのようなイメージを国に対して感じているのであろうか。彼らは、スウェーデンのスポークスマンという消えることのない観点と役割を持っている。

「我々は、ストックホルムで、インドのニューデリーからの新聞記者の訪問を受けた。彼は、ふたりの中年の身なりの良くないスウェーデン人に対するインタビューにかなり抵抗感があるようであった。記者は、我々の本はまさに尊敬に値することを明確にした。しかし、彼が練習のために最初に発した質問は、

『どうしてあなた方は、ロールモデルというスウェーデンに対する私のイメージを崩してしまったのですか。』

と言うものであった。彼はイングマー・ベルイマンの映画を見て、アバの音楽を聴いて育った。そして、我々の本が、彼を新しい、あまり受け入れたくない方向へと導いて行った。しかし、我々は、色々あるけれど、スウェーデンは住むのにまだ安全な場所だ、と答えておいた。」

翻訳に関しては、二人組みはできるだけ自分たちの意見を言うことが義務だと考えている。

「我々の本は、現在三十ヶ国語に翻訳されている。そしてもちろん、日本語や韓国語への翻訳は、百パーセント翻訳者の手に任せるしかない。しかし、我々は翻訳者に助けの手を差し伸べることを約束する。我々の本に、別の国で新しい命を与えようとしてくれている、才能溢れた人々に対して。例えば我々の次に英語になる本は現在、スコットランドに住む英国/ノルウェー人のカリ・ディクソン(Kari Dickson)の下にある。彼女は『三秒』において、素晴らしい仕事をしてくれた、大変才能のある人だ。その本のスウェーデン語のタイトル、Edward Finningas Upprättelseは英国人には発音できないだろう。英語の題は『八号房』となっている。

我々の本の中で、『犠牲者』と『犯人』という捉え方を変えようとしている。これは、今では、本でも、ニュースメディアでもかなりステレオタイプになってしまったからだ。社会は怠惰にも、全く違ったタイプの人間という像を受け入れようとする。しかし、現実的にはもっと境界が曖昧で『黒』と『白』ではない。そこにはグレーな領域が広がっている。今日は犯人でも、明日は犠牲者になる。」

コンビは、ヘルストレームの人生を、この症候群の例として頻繁に使っている。彼は、暴行、窃盗、詐欺、強盗など多くの罪を犯した。犯罪者として、彼は多くの被害者を残した。しかし、彼は被害者のことをあまり考えていない。被害者がどんな風で、何を考え、被害にあった犯罪に対してどのように感じているか、そのことは関心がない。被害者は彼にとって、顔のない、魂のない者なのである。彼は被害者を見たことも話したこともない、つまり存在しないのである。この完全なまでの被害者への共感の欠如が彼の手口であり、もちろん、共感という感情は、犯罪者には縁のないものである。しかし、立場は逆転する。ヘルストレームは数多くの犯罪の被害者でもある。彼は子供の頃、性的な虐待を受けた。彼は暴行を受け、強盗に遭った。被害者として、彼は自分を傷つけた人間について考え始めた。どんな人間で、何を考えていたかを。犯人は、もはや顔のない、魂のない存在ではなかった。彼は犯人を見た。犯人は存在した。そして、彼は犯人に、つまり自分自身に共感を覚えることができた。しかし、今回は違った観点で。それを「善」、「悪」の概念で表現できるのだろうか。

ロスルンドは言う。

「加害者として、彼は邪悪、悪漢である。しかし、被害者として、彼は犯罪に遭った個人である。誰もが共感を持てる被害者であり、邪悪により攻撃された善良な人間である。我々は本の中でこのテーマを何回も取り上げようと努力してきた。誰が『善者』で誰が『悪者』なのか。誰が『加害者』で誰が『被害者』なのか。我々の多くが両方の役割を演じていないだろうか。」

 

「役割を演じる」と言うことであれば、リザ・マークルンド(Liza Marklund)は「共作者」という役割を果たしてきた。英国や米国では、マークルンドはジェームス・パターソン(James Patterson)との「ポートマンチュー小説」(portmanteau novel)の共作者としての方が有名になっている。マークルンドの作品は、数年前から英国では最初にペーパーバックとして出版されたが、マイ・シューヴァルを除けば、北欧における最初の重要な女流作家の地位に相当するような評判は、英国では博していなかった。(ドイツでは既に人気があったが。)ジェームス・パターソンと共著の「絵葉書の殺人」(Postcard Killers, 2010)は「余り良く知られていない作家を有名な作家にくっつける」タイプの共作ではない。マークルンドは単独で既に有名な作家であり、本国では人気を博していた。(それらはパターソンと違う作風であるが。)それは、抜け目のない地理的な理由であった。この不釣合いなコンビによって書かれた本は、賛否両論を巻き起こした。アメリカ人とスウェーデン人の主人公を小説の中でのパートナーシップは、本そのものを生み出した作者のパートナーと明らかに呼応している。興味深いことに、「絵葉書の殺人」を読んでいると、どこからどこまでがパターソンによって書かれた部分で、どこからどこまでがマークルンドによる部分かがはっきりと分からない。これは共作者の意図的な戦術なのであろう。確かに、この本はそれまで書かれたパターソンのポートマントウ小説とははっきりと異なっている。マークルンドのファンは、本の中でもっと目立って欲しかったと思っているだろうが。

マークルンドへの称賛として、彼女が単独で書いた、強力な「赤い狼」(Red Wolf, 2010)等の小説が、「ローカス・クラシカス」(Locus classicus)つまり「権威があり、しばしば引用される一節」と捉えられていることである。スウェーデン北部のピテオ(Piteå)出身のマークルンドは、何度も引越しを繰り返す人生を送ってきた。彼女はこれまで、ロンドン、エルサレム、アメリカ、イタリア、その他の場所に住んでいる。彼女はジャーナリズムを専攻し、有名なところではAfonbladet Expressenなど、スウェーデンの数多くの新聞で働いてきた。一九九五年に発表された彼女の最初の小説「逃避行」(On the Run)は、新鮮なアプローチという批評家の意見もあり、かなり熱狂的な支持を受けた。しかし、機知に富んだヒロインのアニカ・ベングツソン(Annika Bengtzon)をヒロインに配したシリーズ最初の「爆弾魔」(The Bomber, 1998)はより広い読者の心を掴み、五十万部を超える売り上げを記録した。その時点で、「爆弾魔」は、スウェーデンで史上最高の発行部数となった。その後、マークルンドはアニカを主人公にした「第六スタジオ」(Studio Sex1999)、「プライムタイム」 Prime Time2002)、作品を次々と発表した。英国では、「赤い狼」を境に成功を博している。

「天国」(Paradise, 2004)は他のマークルンドの小説に比べて小ぶりに作られているが、いくつかの要素は非常に野心的である。ストックホルム。コンテナ基地におけるふたつの残忍な殺人、狡猾な暗殺者から逃げる名前の分からない女性、ヨーロッパの犯罪の新たな勢力であるセルビア人ギャングの暗示。その周辺に、周囲の反対を押し切って、スウェーデンのタブロイド紙Kvällpressenに採用された若い頃のアニカが配されている。彼女は、現在彼女に暴力を振るい、自分を守るために彼女を殺そうとしたボーフレンドの手から逃れて、平静を取り戻している。その後、有望なストーリーが続く。「生命を脅かされた人々を守るための新しい方法を教える」組織を宣伝したいという女性が登場する。正義に対する尽きることのない若いアニカの情熱はまだ消えていない。とくに、暗殺者から逃れている女性が彼女にコンタクトしてきたとき、それが燃え上がる。それらのパラメーターは急展開するスリラーとして表れ、読者はファッショナブルな水の中に無理矢理引きずり込まれていく。もたらされたものは微妙に違っていが、「天国」は英国で出版されたそれ以前のマークルンドの全ての小説が提示していた共通テーマへと読者を導いていく。「男性により女性の迫害」(もちろん、要求された組織の鍵である)一見したところ限られた最初の関係とて、最後にはソーシャルワーカーのトマス・サムエルソン(Thomas Samuelsson)

,と、彼のより有力な妻が読者に紹介される、彼は、のそれぞれの対立する職業から来る、物質的な困難さに苦しんでいる。アニカの祖母は、アニカが人を殺したというトラウマと付き合っていく上での重要な人物である。祖母は、自ら脳卒中を患いながらも、知的に描かれた家庭内の葛藤を裁いていく。マークルンドは、スウェーデンの主要新聞におけるストレスと歪みを引き続き描くことに計り知れない才能を発揮している。もちろん、スウェーデンのタブロイド紙は、英国の同様の新聞よりは遥かに上品であるにしても。イングリッド・エング・ランドロウ(Ingrid Eng-Rundlow)の巧みな翻訳をもってしても、語りの多くが、原語で機能しているような密着したものにはなり得ないと言える。それにも関わらず、マークルンドに対するメディアからの要求は彼女を見捨てない。彼女の作品は、映画会社の注目を浴びている。既に完成した「爆弾魔」は「最終期限」と名前を変えられているが、オリジナルの小説にかなり忠実なものである。また、彼女は「ポロニ賞(Poloni Prize)」、「スウェーデンその年の作家」等、いくかの賞に輝いている。「逃避行」は、挑発的に、知性的に、人種問題を扱っている。マークルンドは述べる、

「私にとって鍵となる視点を自分のストーリーに加えてきた。マスコミ批判とジャーナリズムけじめなど。それは結果的に商業的な醸造になるのだが。私にとっても同胞のスティーグ・ラーソンにとっても。

私が小説を書いているときは、あまり計算はしていない。私自身が読みたいことを書いている。私が面白いと思うことや大切だと思うことを。そんなことは私が良く知っている近所で起きるものなのだ。スウェーデンの諺に『水を汲みにいくのに何故橋を渡るのか』というのがある。私は自分の知っている場所を使う。なぜなら、そこが一番鋭利な洞察力を使って書ける場所だからだ。

私は筋金入りの政治的な作家だ。私は自分のメッセージを伝え広めるために小説を使う。私は過去二十五年以上の間、同じ事を色々な方法で言おうとしてきた。ラジオ番組で、テレビのドキュメンタリーで、そして数多くの記事やコラムで。本はそのもうひとつの道具に過ぎない。最初の十五年間、私の主張は商業的に「死に絶えたもの」であると言われ続けた。全ての「専門家」が女性や子供たちへの虐待は売り物にはならないと言った。しかしそれが実際そうではないと分かったとき、誰よりも私自身が驚いた。トリックはメッセージを巧妙にカムフラージュし、本が政治的なパンフレットであることを分からせないようにしたことだ。正直言って、それは言うほど簡単ではないのだが。政治的な腐敗、権力の乱用、人の間の不公平は一般的に極めて説得力のあるトピックなのだ。

あらゆることを詳細に書くということは、犯罪小説の持って生まれた性である、設定の記述、社会的な事項、人間の葛藤等が、語りの中に練りこまれる。あるいは、殺人がと言ってもよい。それは、犯罪小説の全てが、人間に許された最も重大な権力の乱用と冒涜である殺人を扱っているからだ。しかし、その像がいかに正確か言うことは難しい。伝統的な犯罪小説は捻れていて暗く、現実よりは強いコントラストで描かれ、その時々の話題を掘り起こしている。

私はジャーナリスト、コラムニストを四分の一世紀やってきて、そのことは過去二十五年間に渡って莫大な量の新聞を読んできたことを意味する。社会的な問題について研究し、反応するのは私の職業だ。何十年にも渡って、北欧のメディアは、地上の楽園という北欧像というものを広めるのに一役買っていた。しかし、もちろんこれは事実ではない。色々と良い点もあるが、決して天国ではない。自殺率は年々増加している。アルコールを飲みすぎ、余りにも多くの男性が女性に日常的に暴力を振るっている。ドメスティック・バイオレンスは我々が無視する傾向があるが、重大な問題だ。襲われる人間の割合は米国よりも高いのだ。過去二十五年で、主要な政治家のうち二人が、ストックホルムの路上で暗殺されている。オーロフ・パルメと、外相のアナ・リンドだ。(彼女は私の親友だった。)換言すると、私たちが抱いている「完全で、平和な国」という自己イメージは真実からはほど遠いものなのだ。英国の読者が犯罪小説から描くスウェーデン像は、プロバガンダのパンフレットよりは余程正しいものなのである。

スウェーデンでの移民の割合は英国より高い。(スペインとスウェーデンが欧州では高い移民の割合を競っている。)しかし、スウェーデンの犯罪小説では、このトピックを扱ったものは少ない。(もちろん全部読んだわけではないし、読むに耐えないものもある。)私自身に関して言えば、私の書く本の全てが権力についてである。人々が行使したいと考え、持ち続けたいと考える権力である。女性への暴力、性的差別、小児虐待、マスコミの欠陥が私の主なトピックである。

「爆弾魔」は英国で出版された私の最新の本だ。この本は職場における権力争いを描いている。オフィスで私たちがやっていることである。(そこには強い感情と権力争いがある。)ある点でよく似た地位にあると思っている三人の女性、しかし、それぞれの環境の違いから状況を違った風に扱う。それは、極めて暴力的だと読者に警告しておく。

この本は、時系列的に言うとアニカ・ベングツソンの四番目の事件だが、私は最初に書いた。私が作家としてのスタートを切った作品だ。

私は、英国の何人かの批評家から称賛を得た「赤い狼」を誇りに思う。私の生まれた辺りのノールボッテンが舞台となっている。そして、嬉しいことに、商業的にも、批評家の意見でも、大きな成功を収めた。おそらく誰もがこの作品を好きになるだろう、私の故郷のピテオの住人を除いて。住人は、私が生まれた土地を余りにも寒く、暗く描いていると思うだろう。(北極圏の真冬の話なのである。)しかし、彼らの良いたいことを私は理解できる。町が初めて広く読まれる本の中に登場したので、住民は観光パンフレット以外に好意的な表現が欲しかったのだ。実際、ピテオの人々は私の功績を称える石版をメインストリートから掘り起こして捨ててしまった。しかし、やっと私は許され、ピテオの人々の間ではノーベル賞に匹敵する、「ピテオ文化賞」を受けることができた。

私の別の本「暴露」(Exposed)は自分にとって興味深いチャレンジだ。私はこの本を、スウェーデン最大の労働組合のリーダーの一人が嘘をつき、高級車に乗り、組合の金でストリップを見に行っていたことを暴露した一連の記事を書いた後に、私はこの本のヒントを得た。」

 

ハンス・コッペル(Hans Koppel)の評判を高めた本の中には、ストリップクラブや経費の乱用は出てこない。「彼女はもう戻らない」(She’s Never Coming Back, 2012)は編集者のデヴィッド・シェリーが才能を認めたコッペルを、自分の会社リトル・ブラウンから売り出すときに付けた、英語のタイトルである。作家の本名はカール・ペター・リドベック(Karl Petter Lidbeck)という。彼は、評判となった子供向けの本を書いていた。コッペルというペンネームは、成人向けの渋いHomemakingなどの本を書くときに使われた。コッペルは、自分の主義主張を布教するようなことは厳密に避けた。しかし、彼はその率直さゆえに言っている。

「全ての政治的な本は悪書だが、全ての良書は政治的である。」

 北欧における極右の台頭に関して、コッペルは挑発的に、英国はこの分野では、半世代分先に進んでいると述べている。

「私は極右が私の国で活動中であることを非常に恥ずかしいことだと思っている。現在のところは、心配よりも恥ずかしさを感じる。」

社会的、政治的な問題の範疇では、ハンス・コッペルが作品の中に真剣に論じていると感じる作家は、リーフ・ペルソン(Leif Persson)とロスルンド/ヘルストレームであるという。コッペルは彼らの中に、自分と同じ人間としての良識への情熱的な関与を共有しているという。

 

後者がオーサ・ラーソン(Åsa Larsson)の重要なテーマとなっている。彼女は同じ名前である故スティーグ・ラーソンとは全く違った作風である。そして、有難いことに、彼女は存命で、執筆を続けている。ラーソンは一九六六年にキルナで生まれた。彼女はウプサラで学校に通い、家族と一緒に田園生活をするためにニュケーピング(Nyköping近郊に移るまで、ストックホルムで過ごしていた。「太陽風」(Sun Storm, 2003)はその希薄な書き方ゆえに、注目を浴び、出版される前に、何カ国へ翻訳権が売られていた。小説は「野蛮な祭壇」(The Savage Altar)とタイトルを変えられたが、犯罪小説の分野で、何か普通でないものを捜そうとする人には注目されたにも関わらず、英国では最初期待されたほどの印象を読者に植え付けることができなかった。しかし彼女の作品は、スティーグ・ラーソンの作品を扱ったキューカス社(Quercus)から再出版された。しかし、ブレークするには至らなかった。二〇〇三年に書かれた小説は、強烈に描かれた主人公、弁護士のレベッカ・マルティンソン(Rebecka Martinsson)を登場させた。それに、有名な宗教書の作家、ヴィクトール・ストランドゴルド(Victor Strandgård)の無残な死に関する容疑者として、いやいやながらサナが加わる。彼は、スウェーデン北部の町の教会で、両手を切り取られ、両目を繰り抜かれ、血まみれになって殺されていた。その捜査に、妊娠後期にも関わらず、同僚に無理矢理引っ張られる形で参加するのが、抜け目のない警察の女性刑事アンナ・マリア・メラ(Anna-Maria Mella)である。リンダ・ラ・プランテ(Lynda La Plamte)のジェーン・テニソン(Jane Tennison)のように、これらの女性たちは、非協力的な男性社会の中で苦労をする。(ラーソンは何人かの極端に意地の悪い男性を登場させている。)しかし、スウェーデンの女性作家は英国の同僚より、もっと野心的である。野心と達成度の両方で、プロットのレベルが秀でている。これらの女性たちのリーグが、今後の本の中でいかに料理されていくのかを見るのは興味深い。

ラーソンが長い間に渡って登場させたヒロイン、レベッカ・マルティンソンは「血の割れ目」(The Blood that Was Shed)で最も印象に残る登場を果たしている。二〇〇四年に発表された、見事に捻りの効いた小説である。正当防衛であるといえ、人を殺さなければならなかったとを自分に納得させることができないマルティンソンは、ずっと病欠をしていた。ストックホルムから来た友人と一緒にいるうちに、彼女自身も、女性牧師ミルドレッド・ニルソン(Mildred Nilsson)の殺人事件に巻き込まれていく。殺された女性は、隠れたフェミニストのヒロインであった。彼女は、様々なやり方で男性に虐げられた女性たちが、絶望的な生活から抜け出せるように、励ましていた。彼女は自分の家を、暴力を受けた女性の避難所として開放し、彼女の寛大さは、その地域で絶滅の危機に瀕している狼を救おうという運動にまで広がっていた。必然的に、彼女の活動は、様々な敵を作っていた。虐待された女性たちの夫や、町の保守的な層の女性たちである。女性を牧師に任命した教会の幹部も彼女に反対していたことは言うまでもない。殺人の疑いを掛けられる人物が余りにも沢山いるという事実は、アガサ・クリスティー全盛時代の犯罪小説に、どこか繋がっているようにみえる。しかし、ラーソンの描く女性は独特であり、広範な登場人物が巧みに関わりあっている手法が取られ、宗教的な要素の強い地域社会の、抑圧的された道徳への、冷静な分析が行われている点は、述べるまでもない。「血の割れ目」は、女性であるラーソンが、スウェーデンの社会について、説得力のある何かを主張していることを、明らかに示している。英国で最近に出版された「汝の怒りが収まるまで」(Until Thy Wrath Be Past, 2011) でも、脅迫的な雰囲気が一杯詰まったものであった犯罪小説を、ラーソンは何とか再発見させようとし続けている。レベッカ・マルティンソンは、春の雪解けの際、女性の死体が川で発見されたとき、キルナの町で検察官として働いていた。レベッカの眠りは、脅迫するような、非難するような亡霊により妨害される。この夢は、殺された女性と何か関係があるのだろうか。レベッカは一九四〇年代に、ドイツ軍に対して補給を行っていた飛行機が行方不明になった事件の捜査にと入っていく。しかし、スウェーデンの過去のそのような部分は、隠しておくべきだと考える者もいる。冷酷な殺人者もそのひとりであった。

一番良く売れている北欧の作家であるヨー・ネスベーの作品は、残忍なイデオロギーをその特徴としている。それは余りにも予期可能である。「汝の怒りが収まるまで」は、オーサ・ラーソンが、同じように社会の隠したい真実と対峙しようとしている姿勢を示している。一連の北欧の作家たちの中で、ラーソンは目の離せない者のひとりである。

 

オーサ・ラーソンは、もちろん、政治的な殺人よって、永遠に変わってしまった国、スウェーデンの年代記編纂者でもある。オーロフ・パルメの暗殺を、直接的あるいは間接的に扱った本の中でも、ヤン・ボルデソン(Jan Bondeson)の華々しい「雪の上の血」(Blood on the Snow)は最も挑発的で、対立的なものである。この本はある意味で、数多くのセオリーの包括的な分析であり、システマティックな体系付けである。そして、実際の警察の捜査そのものと関連付けられている。また別の意味で、収集された情報の膨大な量は目も眩むばかりであり、検証された数々のセオリーは論議を醸しだすものである。(殺人者は警察の中の右翼的な要素と協調していたという可能性など)ボルデソンは、苦労して、読者の前に武具一式を置いている。それは北欧以外の読者よる解釈を妨げるものである。しかし、そのリサーチは並外れたものであり、色々な可能性からの選択を読者に提供している。

 

将来性のあるスウェーデンの作家は、日々新人が現れている。一九六五年、ストックホルム生まれで、現在もそこに住んでいるステファン・ターゲンファルク(Stefan Tagenfalk)は、「怒りモード」(Anger Mode)でデビューを飾った。その作品はストックホルム警察のシニカルな刑事であるヴァルター・グレーン(Walter Gröhn)と、特殊捜査班のヨナ・ブルッゲ(Jonna Brugge)の登場する三部作の第一作である。スウェーデン犯罪小説協会は、既にターゲンファルクを今年のナンバーワンに推している。一方、Dast誌は、著名なドナルド・ヴェストラーケ(Donald Westlake)をして、ターゲンファルクの悪役の取り扱いの巧妙さに称賛を贈られている。

 

ヨハネス・ケルストレーム(Johannes Källström) (The Irrevocable Contact) は妄想の暗い物語で、人里離れたスウェーデンの森の中の小さな田舎町を舞台にしている。地元の産業が閉鎖を余儀なくされ、地域社会は消滅の危機に瀕している中、町長のスヴェア・ルドルフソン(Svea Rudolfson)は世界的に有名なファッショデザイナーのオスカー・ヴィゲリウス(Oscar Vigelius)とコラボレーションを企画して、地域の産業の再活性化を図ろうとする。しかし、ヴィゲリウスは別の物を町に持って来た。突然の死と、不可解な失踪である。ケルストレームの描く刑事、オーヴェ・テュコ(Owe Tycho)は、エドガー・アラン・ポーを彷彿とさせる、暗い神話と、恐ろしい要素を織り込んだ作品の中の、異彩を放つ主人公である。

 

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