第八章:ノルウェー、犯罪とそのコンテクスト
多くの人の意識の中に、ノルウェーは北欧の国の中で、最も重々しいという印象が残っている。古くからの遺産であるバイキングが、今日でもまだノルウェーと外国からの印象に影を落としている。観光客はもちろん、にぎやかなオスロへの訪問と、息を呑むようなフィヨルドを巡るツアーを、半ば強制的にアドバイスされる。しかし、訪問者は、最終的にそのその国のごく一部しか見ていないという考えが常に付きまとう。そして、大抵の場合、それは当たっている。ノルウェーの人口は、オスロ以外では、威圧的に広大な国土全体にバラバラに分布している。古代スカンジナビアの文化は、もちろん世界中で評価されているが、国の大きさから考えると、ノルウェーの文化的な遺産は、本当に目を見張るものがある。近代におけるもっとも影響の強い劇作家であり、今や多くの犯罪小説の共通言語となっているようなやり方で、心理的な状態の分析を最初に行ったヘンリク・イプセン(Henrik Ibsen)は言うに及ばず、画家のエドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)や、作曲家のエドヴァルド・グリーク(Edvard Grieg) など、多くの芸術家が、難解で、それでいて誇りに満ちた、典型的なノルウェーの特徴を散りばめた作品を発表している。北欧の国間の込み入った政治的な相互関係が象徴的であると同時に、時として辛らつである。過去の感覚に大きく影響を受けたノルウェーの文学的な伝統は並外れたものであり、現代の作家にも関連付けられるものである。現在の犯罪小説に関して言うと、その厳しい風土が、良くも悪くも広大な範囲の中で自分を見失ってしまう可能性が、広大な米国のジェームス・リー・バーク(James Lee Burke)などの作家の作品を連想させる。(違いはあるが。)同じように、英国の読者には、島国の偏狭な環境で書かれている地理的に制限された英国からかけ離れた、大きなカンバスに描かれて いる犯罪小説が、アピールされている。
アウドゥン・エンゲルスタッド(Audun Engelstad)は彼の専門とする映画の部門で十年間調査をした。彼のノルウェーとその文学に関する視点は鋭いものがある。
「私の認識では、ノルウェーはスウェーデンやデンマークに比べて大陸的ではなく、地方的な文学を持っている。ノルウェーの人口は、地方に点在しており、地方に殆ど人の住んでいないスウェーデンやとも異なるし、国の規模が小さいデンマークとも異なる。このような荒涼とした土地では、イプセンが「ペール・ギュント」の中に描く、ノルウェー人に対する批判的な描写は、かなり正確だと思う。政治的な面では、大まかに言って、ノルウェーはコンセンサス主義(総意に基づく決定の重視される社会)と認識される。デンマークやスウェーデンに比べると、ノルウェーはそうのようなコンセンサスもっと重きを置いているように思われるし、私の推量では、ノルウェーの犯罪小説は、社会的な必要性から犯罪を描写しておらず、欲や嫉妬によるものや、性的な動機によるものが多いようだ。犯罪小説の書き手は、しばしば社会的な意識を誇りし、執筆を正当化にするが、それらの小説の真の価値は、通常では抜け落ちてしまうような話題の領域に光を当てることにあると私は考える。
私は、極右勢力について(ヨーロッパのコンテクストから見ると本当に『極右』とはないのだが)、誇張された、過熱した描写がされていると思う。少なくとも、極右勢力をある種の怪物のように扱う北欧の犯罪小説においては。大抵の場合は、それらは現実に即していない。少なくとも、ノルウェーにはそのような描写が当てはまらない。もてはやされている社会民主主義的な理想論に関しては、まだゆれ続けていると思う。これに関しては、挑発的に論じている、アンドリュー・ネスティンゲン(Andrew Nestingen)の「北欧の犯罪と幻想」を読むことをお勧めする。」
世界で、人口当たりの本の出版数がたまたま一番多いアイスランドは別にして、北欧の国々は一見して似通っており、同時に明らかに異なっている。どの国も高い生活水準と高いGDPを誇り、社会的な認知度は顕著なレベルに達し、ごく最近までであるが、幅広い福祉制度を持っていた。北欧の国々は、外の人間には、同じように見えるかもしれないが、文化、言語、伝統、政治、経済生活において、顕著な違いを示している。しかしながら、全ての国が同じルーツを持っていて、民族性や言語がこれに現れている。デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語はまだ近くて、お互いにかなりの理解が可能である。
注目すべき違いのひとつは、地勢である。ノルウェーは山がちでドラマチックな風景を持っている。スウェーデンは大部分が森と湖に覆われている。デンマークは平らで、農耕が盛んである。もうひとつの違いは、政治的な所属形態にある。三つの国とも北欧関税同盟のメンバーである。スウェーデンとデンマークは同時に欧州連合のメンバーであるが、ノルウェーはそうではない。事実、一九九四年に、この件に関する国民投票でノルウェー人は、欧州連合には加わらない意思をはっきりと示している。
デンマーク人はおそらく一番欧州大陸的である。彼らはのんきで陽気だと受け止められている。スウェーデン人は堅苦しく、勤勉であると考えられている。そして、伝統的に隣国に比べて、より多くの富と権力を持っている。外の人間には、ノルウェー人は、頑丈で、スポーツに長け、アウトドアでの生活を楽しんでいるように捉えられがちである。
過去数世紀に渡って、ノルウェーは伝統的に貧しい国であり、最初はデンマーク、その後はスウェーデンに統合されていた。しかし、一九七〇年代の北海油田の発見は、この状況に変化をもたらした。ノルウェーは現在、三国の中で、一人当たり最高の収入を誇り、マクロ経済の指標でも、極めて良い数字を残している。その要素のいくつかは、ある程度、犯罪小説を通じて伝えられている。
オスロに住む作家の中でも、トーマス・エンガー(Thomas Enger)は、その分野での、最も卓越した、強烈な才能で、評判を博している。とくに彼の人間を嫌悪する目によって。彼の二〇一〇年に発表された「焼かれた者」(Burned)では、その挑発的な宗教的原理主義と、焼かれた主人公に、熱狂的な評判と、順調な売れ行きを得ている。彼の英国での出版者であるフェーバー(Faber)社のアンガス・カージル(Angus Cargill)は、新しいスターをプロモートすることに熱心である。そして、彼は昨今の過度の北欧小説ブームの危険も感じている。しかし、カージルは、良い品質の本とその作家は翻訳書の世界で、生き延び、今後も繁栄できると確信している。カージルは以下のように述べる。
「フェーバー社では、リスト上翻訳物と英米の作家の作品を区別していない。我々は伝統的に翻訳物に強く、数人の名前を挙げると、ミラン・クンデラ(Milan Kundera)、ヴァルガス・ローサ(Vargas Llosa)、オルハン・パムク(Orhan Pamuk)、吉本ばなな等、で我々の出版リストの重要な位置を占めている。これらの本は、英国内と輸出の両方のセールスプロモーションにおいて、興味深い視線を提供する。北欧の犯罪小説に関しては、大衆による需要があるという一般的な傾向による後押しがある。それは、出版社にとっては良いニュースである。しかし、そのことは両方向に働く。大衆の傾向は助けにもなり妨げにもなりえる。いつものことながら、良い本だけれど認知されなかったり、悪い本が成功を収めたりする。
翻訳の過程はトリッキーなものだが、最近関与したトーマス・エンガーのヘニング・ユール(Henning Juul)シリーズは、優秀で真面目な翻訳者、シャーロット・バースランド(Charlotte Barslund)のお陰で、非常に上手くいった。(彼女はこれまでペール・ペターソン(Per Petterson)、カリン・フッスム(Karin Fossum)、シセル・ヨー・ガザン(Sissel-Jo Gazan)の「恐竜の羽毛」(Dinosaur Feather)を翻訳しており、申し分のない人なのだ。
これは私が大変興奮したシリーズだ。シリーズの第一作である「焼かれた者」は、魅力的な殺人事件を題材としている。それは現代ノルウェーにおける、若い女性に対する、シャリアロー(イスラムの掟)的な宗教的な殺人のようにも思える。この物語に登場する身体に傷のある失意のジャーナリスト、ユールは素晴らしいキャラクターであり、最後の数ページはこれから始まるシリーズを準備する、まさに電撃的な結末と言える。」
トーマス・エンガーは語る。
「私は環境の産物である。私の、主人公のヘンング・ユールのように。世界で最も裕福な国のひとつに住みながら、彼の生活はそう簡単なものではない。彼は内向的であり、責任と不正義の感覚を外に出す、思索家である。これらは普遍的かも知れないが、極めて典型的なノルウェー人の形質であると思う。
私の本の究極的な論理的根拠は、読者が乗ってくるような語りを作ることである。本質的に、それは読者に本当だと響く環境を作ることだ。登場人物が生き、呼吸し、愛する環境、そして、互いに殺しあう環境である。ヘニング・ユールは私の住む場所に住んでいる、したがって、我々両方が慣れ親しんでいる環境を正確に描写することが、私にとって大切で、自然なことのである率直に言うと、ストーリーがクアラルンプールが舞台であったら、私も同じことをしただろう。うなずき「オーケー」と言えることは、私が視覚化する上で大切なのだ。
あるレベルまで関与することなしに、我々の社会に誠実な絵を描くことはほぼ不可能だ。しかし、レディーメードの解決法が簡単に解決策を見つけることを意味しない。人間の二面性は終わることがなく、自己の中に長く存在するものである。そして、人々は進化した、新しいタイプの犯罪をする傾向にある。説得力のある犯罪小説を書こうとすれば、作者は、社会や人間的な視点から、それらの進化について、常に最新の情報を持っていなければならない。私は自分がこれまで活躍した犯罪小説化の強い伝統の中に立っていることを感じる。私はヘニング・マンケルやヨー・ネスベーからの感化を述べないわけにはいかない。そして、最近は、素晴らしい書き手であるハーラン・コーベン(Harlan Coben)にはまっている。また、私に感動を与えたマーク・ビリンガム(Mark Billingham)の本も数冊読んでいる。
私は『焼かれた者』の英語への翻訳の際、言語学的な点について翻訳者と楽しく一緒に考えたり、議論をしたりできてよかったと思う。シャーロット・バースランドは素晴らしい仕事をしてくれた。」
トーマス・エンガーの翻訳者であるシャーロット・バースランドによると、平等主義の北欧では、人々は度々互いにファーストネームや苗字だけで呼び合い、これでは翻訳後、警察内で階層や序列の感覚を作り出すことが難しい。読者は誰が責任者で誰が反抗的な態度を取っているのかどのようにして知ればよいのだろうか。また、特に若い人の間では、ミス、ミスター、ミセスなどの称号が使われないので、登場人物の性や、結婚しているのかしていないのかを、読者が判断することに苦労する可能性もある。また、名前が社会的なステータスを示すということも消えてしまう。英語から輸入されたブライアン(Brian)やジョニー(Johnny)などの名前は、英語名が認知されてきているとは言え、低い社会層の人物を示す。クリスティアン(Christian)、ヘンリエッテ(Henriette)、カロリーネ(Caroline)などの名前は上流階層出身を案じさせる。時として、場所とか登場人物の名前は、英国の読者にとって、意図的ではないが可笑しく響く。名前による象徴化は翻訳で再作成するのは難しい。幸いなことに、ほとんどの町に、ウェスト・エンドとイースト・エンドがあり、スマートな地域と、荒れた地域がどのようなものか簡単に読者に想像がつくのは都合のよいことだ。
バースランドは、大多数の言語上の問題には良い解決方法が見つかるという。そして意味的な翻訳は、ある話題について読者が予めどれだけ知っているかという点で扱われる。バースランドは述べる。
「私がペーター・ホー(Peter Høeg)の『ミス・スミラの雪に対する感覚』(Miss Smilla’s Feeling for Snow)を読んだとき、コペンハーゲンの地理の使い方に打たれました。私が知っている、そして退屈で田舎だと思っていた町の中で、彼が呼び起こす陰謀と策略に私は魅了された。北欧は、よく整備された平穏無事な場所であり、作家が実在の場所、良く知られたビルを使い、読者と『もしここでこんなことが起きたら』というゲームをするというアイデアを、私は大好きだ。
しかし、全ての小説が実在する場所を舞台にしているわけではない。例えば、カリン・フォッスムは、舞台を『オスロから三十分ほど車で行った場所にある』架空の町を舞台にしている。もし、小説の舞台が架空の場所であれば、その小説の地理をまず頭に思い描く必要がある。
『殺人者がA地点 B地点に着くのにどれだけの時間がかかるだろうか。』
犯罪小説の読み手は洗練されており、陰謀の内部に潜む間違いを見つけようとする。もし、殆どの作家がやっているように実在の場所を使った場合、その土地感を自分の頭の中に作るために、私はその土地を訪れるか、それが叶わない場合は地図を参照するように努めている。グーグルの画像もそれに大いに役立っている。
北欧と英国には共通点も多いが、同時にかなりの相違点もある。例えば、北欧の子供たちは、英国の子供たちに比べ、ずっと自立している。その結果、八歳の子供を独りで学校に行かせる北欧の親たちは、英国の読者の目から見ると、無責任な、それどころか怠慢に見えるかも知れない。北欧には『知らない人間による危険』が英国より少なく、安全性に対する期待が英国より大きい。それが、犯罪をショッキングであるもうひとつの理由である。もうひとつの理由として、北欧の国々が民族的に均質であり、共通の伝統や共通の行動パターンという感覚があるということが挙げられる。しかし、それは変わりつつあり、悲しいことにより人為的な管理されたものになりつつある。例えば、私がそれを強く感じるのは、公務員や、販売員は顧客サービスのトレーニングを受け、顧客と人間としての価値と期待を共有することに関連してではなく、予め書かれたマニュアルによって顧客と対応するという点である。
また、デンマーク語でも、スウェーデン語でも、ノルウェー語でも『ハブ・ア・ナイス・デー』と言い始めた。これはかつてなかったし、私は余り好きではない。この言葉は、感情を過大表現しているし、楽観主義の掃き違いであり、自己満足的な、内省的な北欧人なら、避けるところであろう。クルト・ヴァランダーに『ハブ・ア・ナイス・デー』と言っているのを想像できるか。私はできない。
インターネットは毎日の新聞を読むのに役に立つと思う。また、北欧の『ガラス張り』に対する信奉により、公共団体が情報をよく出来たウェッブサイトで公開していており、私の必要とする情報を容易に得ることができる。また私は時々、英国やデンマークの警察や法廷の通訳と一緒に仕事をし、彼らも私に情報を与えてくれる。
世界でも最も整った社会民主主義でも、犯罪のない社会にはならないというフラストレーションが、北欧の国には存在する。そして、そのフラストレーションが、数多くの素晴らしい犯罪小説の源となっている。そこでの生活は暮らし良いものであるはずなのだが、実際にはそうでない。そしてもし北欧がそれを正しいと捉えることができなければ、残りの世界のどの国でその希望があるのだろうか。また、同じように犠牲者に重きが置かれ、嘆きの過程が描かれる。大切な者を亡くしたことで直面し、尊厳を回復する力が。感情を外に出し、カウンセリングが盛んな時代に、刑事と犠牲者の両方の控えめさと自制心は感動を与える。多くの人が喪失と失望に悩みながらも、悲しみの中から立ち上がり何かをしようとすることが認知されている。
登場人物の大部分は、街で出会っても、その後二度と思い出せないような人間が多い。しかし、何人かは大きな実直さ、スタミナ、尊厳を持っていることが分かる。あるいは、二度と修復することが分かっていながらも、人生を再建することを見る。両方のケースにおいて、読み手は登場人物と関係し、彼らの損失に足してより多くの共感を得るのである。
ヴァランダーの住むイスタードは、並外れた殺人事件の発生率を持っていることになるが、読者はそれを現実生活の反映していないと知りながらも、小説の『ご都合主義』として受け入れている。しかし、イスタードがそもそも犯罪小説の舞台として如何に不向きであるかを理解するためには、おそらく自分が北欧人になる必要がある。そこは余りにも田舎で静か過ぎる。一方、新しい橋ができて、より多くのフェリーが運航されるようになって、一九八五年にシェンゲン条約が適用されてから、人々にとって動くのが遥かに容易になった。このことは、犯罪の統計に影響を与えている。北欧の人々は今日、これまで殆ど関係がなかった国際的な犯罪の問題を抱え、犯罪小説の作家は本の中でそれを探ろうとしている。英国の読者が小説の中に殺人事件発生率が現実に即していることを期待しているとは、私には思われない。しかし、壊れてはいないが、裾の方がかなりほつれている現代社会の像としては、かなり正確だと思っている。巧みな陰謀の理論家と同じように、作家たちは信用できるに足る事実に基づいて、筋を組み立てていく。したがって、本は北欧が戦っている純真さの喪失を反映している。今から二十五年前の一九八六年に起こったオーロフ・パルメの暗殺の前には、政府の要職に就く人々も、静かに安全に日々の生活を送ることができた。デンマークの女王も、自分ひとりで、デパートを訪れていた。周囲の人々は女王に気付いてはいたが、彼女を悩ますことはなかった。パルメの暗殺の後全てが変わった。しかし、どのようにしてそうなったのかはまだ理解できない。信じられないといった様子で、イプセンの「ヘッダ・ガブラー」のブラックの台詞を繰り返すしかない。
『人はそんなことはしないものだ。』
北欧の人々は自由で開かれた社会を作ろうとしているし、それを誇りに思っている。暴力は、我々のモデルが自分たちを守ることができないことを暗示するがゆえにショッキングなことなのだ。英国の読者は生活が公正で安全であることを期待されている国々の姿を見る。気候は寒いし、住民はむっつりしている、しかし安全な国の姿を。」
バースランドによると、北欧の外の読者は、登場する人物と世界を信じているからこそ、北欧の犯罪小説に魅せられるのだという。英国の読者は米国の犯罪小説のテンポのよい語りにも魅力は感じでいる。しかし、ヴァランダーの断固たる決意と、繰り返される失望に真の意味で惹きつけられている。北欧の刑事たちと同じように、米国の刑事たちもひどい私生活を送り、上司と喧嘩している。しかし、それは彼らの魅力に付け足されているにすぎない。米国の大都市の場末の通りやゲットーでさえも、何故か人を惹きつけるように描かれている。これに対して北欧の刑事たちは、見るからに苦労が多く、それに疲れている。彼らはひどいヘアースタイルで、しわくちゃの服を着て(ファッショナブルな意味ではなく)、私的な人間関係も正しく築くことができないでいる。驚くべきことに、多くの刑事にとって、犬が一番親しい相棒である。彼らは一般的にも、仕事においても、何度も打ちひしがれている。最後に殺人者を逮捕することで、彼らの生活が良くなることを誰も期待しない。それは欠陥だらけの世界の中で、正義の本当に小さな勝利にすぎない。生活は最初からみじめで、最後になってもそれは変わらない。英国人の読者はその正直さが好きなのである。
「カリン・フォッスムを訳すことは、大きなご馳走のようなものだ。彼女は最終的に壊滅的な感情の爆発をもたらすために最初はゆっくりと燃えるストーリーを描く。トマス・エンガーの描く、六冊のシリーズのうち最初の「焼かれた者」は非常に楽しめる本である。舞台はオスロ、主人公は錯綜した陰謀を調査している際、大火傷を負うレポーターである。各々の本が、自己完結てきな謎を持っており、その中に犯罪が結び付けられている。本の基調がストレートに表現できて、翻訳上の問題に良い解決方法が見つかったときは、翻訳者にとって至福の時間である。同様にミケル・ビルケガールド(Mikkel Birkegaard)の「死刑」(Death Sentence)の翻訳は、非常に満足の行く仕事であった。このジャンルの暗い探求と、正しい自尊心。私は余りにもぞっとするような最後の二十ページを、目を閉じて翻訳した。作者は私をそんな目に遭わせたことについて謝罪したが、わたしはそれが本の正しい結末であることに同意せざるを得ない。」
北欧の犯罪小説という、数多くの本が出版されている分野でも、非北欧での同様の分野と同じように、女性作家が成功を収めている。ケースティ・シーン(Kjersti Sheen)の怒りっぽい四十数冊の「マーガレット・モス」(Margaret Moss)シリーズは独創的で、彼女の先駆者たちの作品とは微妙に違っている。「終幕」(Final Curtain)はモスの最初の事件で、一九九四年にオスロで再出版されたが、英国では二〇〇二年まで出版される機会がなかった。そしてこのジャンルにおける魅力的な先駆者である。しかし、オスロとベルゲンの間を走る列車から女優ラケル・ヴィンケルマンが消えるというこの話の中で、我々は中年になって退屈な女優から弁護士に転職しようとして失敗した女性に、説得力のある像を見る。そのような動きは、かつて政治的にラディカルであり、離婚暦のあるマーガレット・モスの目を惹くものであった。それは彼女の運命とも言えた。それでも、彼女は舞台の上での昔からの同僚の息子からの電話に、なかなか返信しようとはしない。彼女がやっとそれをやったときには、彼女は昔の付き合いにどっぷり膝まで浸かっていた。それは、舞台の上での付き合いだけではなく、奇妙なネオナチとの付き合いであった。シーンは活発に、ユーモアを交え、知覚的な散文で筆を進める。それは翻訳者のルイーズ・ムインザー(Louis Muinzer)の巧みさによるものもあるが。鋭い会話を特徴としながら。マーガレット・モスが非常に魅力的な人物であることが分かってくる。直感的で、自己を卑下し、勇敢さと抜け目のなさを兼ね備えている。また、通りすがりの性的な魅力のあるトラック運転手に力仕事を任せるのも、なかなか現実的である。シーンは他の登場人物も粗末には扱ってはいない。筋は、テーマにおいて会話的すぎるにしても、知的に作られており、積み重なっていく緊張感のクライマックスに向かって進んでいく。
同じように、ペルニル・リュグ(Pernille Rygg)同じように達成されている。リュグの作品は、二百冊にのぼる本を北欧の言葉から訳した、最も成功を収めた翻訳家の、今は亡きジョアン・テイト(Joan Tate)によって翻訳されている。「蝶の効果」(The Butterfly Effect)と「金色の部分」(The Golden Section)は際立った個人的な文学的な声が特質に値する。そこには珍しく恐れられているオスロが表現されており、雰囲気も、地理も詳しく描かれている。