第二章:ヘニング・マンケル

 

「クルト・ヴァランダー」シリーズに描かれるスウェーデンは、「成功した福祉国家」を好意的に宣伝したものではない。北欧社会のコンセンサスにはひびが入り、伝統的な家庭生活はトラウマによって引き裂かれている。ヴァランダーの作家であるヘニング・マンケルと、彼の作品を掘り下げることにより、彼の本を彩る社会的な良心が、恵まれない人間の生活をより良くしようする彼の活動とどのように共鳴するのかという点、また小説の中に描かれる、国家主義と異文化に対する非寛容主義に対する彼の厳しい検証について、述べていきたい。

これまで非英語圏の犯罪小説作家がある程度の名声を獲得したが、英国でマーケットリーダーとなった最初に外国人作家がマンケルである。最初、スウェーデン以外では、少数の国でのみ知られていたマンケルだが、その名声は各国で徐々に確固たるものになっていった。英国において、彼の作品はLaurie Thompsonという優秀な翻訳者を得て、大きな成功を収めた。

主人公の刑事クルト・ヴァランダーは、現代の犯罪小説の中の、ひとつの定型となった人物である。滅茶苦茶な健康管理から糖尿病になった他、現代人に考えられる、およそ全ての問題を抱え込んでいる。マンケルの作品を通じて、非スウェーデン人の読者、特に英国の読者は、スウェーデンと英国が微妙に似ており、同時に微妙に異なっていることを感じ始めた。マンケルは義父である映画監督のベルイマンとった同じように、「暗い北欧」という読者のステレオタイプ的イメージをわざと崩し、ヒューマニズムとある種の「楽観」の詰まった作品を発表している。マンケルの活動の特徴は、アフリカで劇場を作るなど、社会を変えていこうという良心に基づいた活動をしていること、まだ、犯罪小説の枠を超えた作品群も数多く発表していることである。「ケネディーの脳」や「豹の目」など、アフリカを舞台にした作品も数多く書かれている。ヨーロッパの読者はマンケルをして、「現代犯罪小説の中で最も挑戦的な作家」が現れたと感じた。彼は読者に一種の「名人」として認知されていく。「防火壁」でマンケルは、サイバースペースを使った犯罪に挑んだ。また、「海溝」では、一九一四年を舞台にし、ひとりの海洋測量技師が、孤島で美しい女性に出会うというストーリーを書いている。自分に決して安住の地を与えず、常に新しい挑戦を課しているのが、マンケルの特徴といえる。

「クルト・ヴァランダー」シリーズは、しばらくの間、警察官になった娘のリンダ・ヴァランダーによって引き継がれるのではないかと予想された。しかし、テレビのシリーズでリンダ役を演じた、ヨハンナ・セルストレームが自殺した後、それにショックを受けたマンケルは、リンダを主人公にしたシリーズを断念してしまう。唯一のリンダ・ヴァランダーを主人公にした本が、二〇〇四年に書かれた「霜の降りる前に」である。そこでは、リンダが父親に反発しながらも、父親と同じような執拗さで、奇妙な事件に挑む彼女の姿が描かれている。作者はこのとき、新しいシリーズを狙っていたと思われる。しかし、それは不幸な出来事によって実現することがなかった。

マンケルはヴァランダーを、人を殺したショックから来るうつ病ということで、一度第一線から退かせている。二〇〇五年の「笑う男」はそのカムバック小説である。従って、ヴァランダーの娘を主人公に持ってくるという話は、読者にはそれほど目新しいものとしては映らなかった。

英国の読者が、スウェーデンの名人により、これまでなかったような犯罪小説が書かれていることを知るようになるにつれ、マンケルの方も、それに抵抗するような筋を書き始めた。ヴァランダーはうつ病とアルコール依存症になる。しかし、結果的には幼馴染の弁護士の依頼で、職場に戻るのである。筋立ては申し分ないのであるが、このような読者の予想を裏切るようなストーリーは、それまで「マンケル的」ではなかった。

登場人物たちが善良な市民たちに課された社会から出て行った後、彼らが辿る問題や弱点が、マンケルの中で強調されすぎる傾向があった。そんな中で、登場人物の過去を描く、二〇〇八の「ピラミッド」が登場する。その本の中で、舞台は第一作「顔のない殺人者」の前の時代に置かれている。警察官になりたての頃のヴァランダー、第一作ではもう別れていた妻のモナとの出会い、父親との確執の原因等、これまでの作品の中で断片的に語られていたヴァランダーと登場人物の過去を描くエピソードが語られる。ある程度の長さと内容の完結に慣れた読者には、もの足りない部分もあるが、それなりに興味をそそられる。

マンケルはヴァランダー等の「シリーズ物」の他に、単独の物語の執筆にも精力を注いでいる。そのひとつが二〇〇九年の「イタリア製の靴」である。孤島でひとりきりの生活を送る男の前に、ひとりの女性が訪ねてくる。男はかつてその女性を愛し、理由を伝えることもなしにその女性から去っていた。四十年近く前のことだった。読者はその本における語り口が、ヴァランダーの本と全く違うのにまず驚く。その男フレデリック・ヴァリンは、かつては外科医で、自らの過失による医療事故が原因で職を離れ、十年以上の隠遁生活を送っていた。末期癌で、自らの余命が短いことを悟ったハリエットは、彼を探し出し、彼に罪滅ぼしとして、奇妙な願いを伝える。ここでもマンケルは定評のある筋と、登場人物の結び付けることに成功している。このストーリーは、過去に犯した誤った決断に対して、人間がいかに対応していけるかということの実験でもある。この本は、ヴァランダーのシリーズのように直線的なストーリーを求める読者には合わないかも知れないが、人間には過去の出来事を修正していける能力があるはずということを、読者に考えさせる本である。

この後、マンケルは犯罪小説の舞台をスウェーデンから世界に広げる努力を始める。その結果書かれた本が「中国人」である。この本は、賛否両論でもって迎えられた。スウェーデンの小さな村で、村人十九人が残忍な方法で殺される。犠牲者の夫婦を養父母に持つ判事のビルギッタ・ロスリンは、精神異常者の犯行へと傾いていく警察に反対し、単独で調査を始める。彼女は、その調査のため、中国、ジンバブエへと出かけていく。

二〇一〇年に最後のヴァランダー・シリーズが発刊された。しかし、結果的にその後、スウェーデンと英国でテレビシリーズが作られ、ヴァランダーは死なず、引き続き活躍することになるのだ。マンケル自身は、事件を解いていく主人公を、男性のヴァランダーから女性のロスリンに移した。性格的な掘り下げはヴァランダーほどではないにしても、粘り強い女性として描かれたロスリンは、ヴァランダーの代役を立派に務めている。彼女は、ふとした偶然から、百年の年月と、地球上の遠く離れた場所を舞台とする物語に引き込まれていく。この突飛な設定と、政治色の強い作風は、初期のマンケルの作品に慣れ親しんだ読者に驚きを与えた。しかし、マンケルは特有の語り方で読者を掴み、その後も、舞台を世界に広げていくという目標に向かって着実に進んでいる。

マンケルが、ガザ地区を封鎖したイスラエルに反対し、イスラエル軍に捕らえられたこと、また彼が、アフリカでHIVに感染した子供たちを救う運動に従事していることを知る人は少ない。

ヴァランダー・シリーズと並ぶ両輪として、社会への関心がマンケルの創作活動を支えている。彼の良心と彼の作品は、もはや切り話せないものとなっている。二〇一〇年に発表された、黒人の少年を描く「赤いアンティロープ」は、マンケルを犯罪小説から切り離すひとつの例となった。書き方も、柔らかくなっている。時を同じくして、マンケルはガザ地区に物資を運ぶ船団に乗り込みイスラエルに逮捕されている。一八七五年スウェーデンの昆虫学者がアフリカで、白人に皆殺しにされた部族の唯一の生き残りの少年を連れてスウェーデンに戻る。その少年が、寒い北の国に適応しようとする物語である。通常、犯罪小説の作者は、老齢になった主人公を引退させてしまうと、題材がなくなってしまうが、マンケルに限っては、そのようなことはない。

マンケルはヴァランダー・シリーズを終わりたかったが、読者はなかなか許してくれない。テレビシリーズは人気を集める。ヴァランダーの復活という期待に終止符を打ったのが、二〇一一年の「不安に駆られた男」である。マンケルは、読者の期待に対して、何かをしなくてはならないと思っていたのだろう。その意味ではこれは、ヴァランダーに対する「告別」の本であると言える。老齢を迎えたヴァランダーは、心身の衰えと戦っている。娘のリンダは裕福なバンカーと一緒になり娘(ヴァランダーの孫)を設ける。その新しいパートナーの父親である、退役海軍軍人が依頼した、スウェーデン軍の中に入り込んだ他国のスパイの問題に、ヴァランダーは挑んでいく。そして、悲しい結末を迎える。しかし、読者の唯一の救いは、マンケルが淡々と、アンチクライマックス的なやり方で、去り行く主人公を描いていることであろう。

マンケルも他の北欧の小説家と同じく、作品を英語にするのに、翻訳家の手を借りなければならない。マンケルの翻訳を多く手がけているのが、その世界の長老と言われるローリー・トンプソン(Laurie Thompson)である。トンプソンは、マンケルの他に、ホカン・ネッサー、オーケ・エドワードソンなどの翻訳もしている。トンプソンは、犯罪小説を翻訳する上での最大の問題は、法的な制度の違いと、警察制度の違いだという。架空の国を舞台にしているホカン・ネッサーは別にして、スウェーデンの警察のランクが英語圏では存在しないことなどもある。彼は、舞台になる場所を、出来るだけ訪れるようにしている。以下は、トンプソンの談話である。

 

「ホカン・ネッサーは例外としても、例えばオーケ・エドワードソンのヴィンター警視シリーズの舞台になるイェーテボリなどは、その場所に関する非常に詳しい描写がなされているので、何度も訪れるようにしている。

マンケルのヴァランダー・シリーズの舞台になるイスタードをそれほど良く知らない。しかし、マンケルはエドワードソンほど詳細に場所の描写をしていないので、そこを知り尽くさなくてもそれほど問題はない。マンケルは度々、スウェーデンホップのノーランドを舞台にするが、その深い森に覆われた場所は、マンケルの生まれたスヴェーグも含めて何度も訪れている。その際、単に風景だけではなく、そこに住む人々の性格やライフスタイルについて知ることが大切であると思う。

オーサ・ラーソンは更に北のキルナを舞台にしている。そこには、スウェーデン人、フィンランド人、ラップ人という三民族の伝統が残っている。舞台になる場所を訪れることなくして、リアリスティックな翻訳ができるとは思わない。しかし、どの程度、その土地を知らなければいけないかというのは、作者の作風に大きく左右される。

翻訳をする際、地理的な知識以外にも必要なものがあるのではないかと言う点は常に話題になる。私は何年もスウェーデンに住み、スウェーデン人の妻を持ち、スウェーデンの文化と制度を教えている。それらのことは『本物』の翻訳をする上で、重要な要素となる。しかしそれらがないと言っても、悲観することはない。問題はスウェーデン語の『含蓄』をどれだけ理解するかということだ。例えば『skog』という言葉があり、『森』、『林』等に翻訳することができるが、スウェーデンの北方では、『神秘的な、より神に近い場所』というニュアンスがあり、それを知らなければ正しい翻訳はできない。スウェーデンは英国よりも近代化された時期が遅いので、人々がまだ自然に対して、ロマンティックな、ノスタルジックなイメージを持っていることが多い。例えば、ヴァランダーの同僚で検死医のニュヴェリは、引退したら、北の森の中に住みたいとヴァランダーに言う。しかし、ヴァランダーにはそれが理解できないというシーンがある。北部スウェーデン出身のマンケルにとっては、森、森林地帯は、特別な場所であり、『イタリア製の靴』などではそれが強調されている。また、湖や島に対する愛着もスウェーデン独特のものである。スウェーデン人は、休暇中のアクティビティーとして、コテッジに住み、ボートを駆って、湖や島を巡るということを好んでいた。その辺りが、天気の良い場所で日光浴をして過ごすという英国人とは大きく違う。このようなちょっと『古風で趣のある』背景を、翻訳者は英国の読者に伝えなくてはならない。

私がスウェーデン語を教えているとき、私はスウェーデンの政治に興味を持っていた。しかし、最近はその興味が薄らいでいた。私にスウェーデンの政治への興味を再び喚起したのはマンケルでした。しかし、マンケルは一九六〇年代の社会主義者の観点をそのまま引きずっている。エドワードソンの、スウェーデン人はスウェーデンに住んで、スウェーデンに税金を払えという主張も短絡的に思える。その短絡さは、『中国人』の中でのムガベ大統領の考え方と似ていると思う。

私は左翼的な考え方をマンケルとエドワードソンから学んだ。また、オーサ・ラーソンが指摘する、第二次世界大戦中、特にスウェーデンの北部には、ナチスドイツに好意的な人々が多かったという事実も学んだ。英国人は、スウェーデンのようにゲルマン語族の言葉を持つ国民はお互いに親近感を持ちやすいという点を知るべきだと思う。

翻訳者にチャレンジと満足感を与えてくれるのは、何と言ってホカン・ネッサーである。確かにマンケルは素晴らしいストーリーテラーであり、メッセージを伝えるということでは長けている。しかし、言葉自体の創造性ということでは、ネッサーに軍配が挙がる。ネッサーは常に『永遠の価値』を追い求め、時には被害者よりも加害者に好意的な面を見せる。マンケルはより社会的、政治的である。『海溝』や『イタリア製の靴』でマンケルは言葉を追い求め、オーサ・ラーソンも詩的な表現を試みている。しかし、ネッサーこそ、『単なる犯罪小説の作家』の枠を超えた代表的な人物であろう。ネッサーは出典を調べなければならないような語彙を、ふんだんに使っている。その最たるものが、主人公の警視の名前『ファン・フェーテレン』であろう。これはスウェーデン語の『悪魔のみが知る』という表現との掛詞なのだ。ネッサーの小説の中では、彼の二作目、英語では最初に発刊された『ボルクマンの定理』が一番だと思う。また、この小説も、ネッサーの、被害者よりも加害者に好意を示すという特徴を持っている。

私はマンケルの『不安に駆られた男』も翻訳したが、私は、ヴァランダー・シリーズは合計三作しか翻訳していない。米国の読者は米国人の翻訳家を好み、現在のところ米国のマーケットが大きいので、米国人の翻訳家が多く起用されることは仕方がない面もある。『不安に駆られた男』には過去の本の中に書かれた出来事が数多く引用されている。犯罪小説にとって犯罪は大切な要素だが、ヴァランダーなど登場人物の性格と人生も同じように大事な部分である。マンケル自身は、私のものも含めて、英語での翻訳に概ね満足していると述べている。『不安に駆られた男』は、ヴァランダーとの告別という特別な出来事であった。その出来事に自分が関与できたことを光栄だと思っている。」

 

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