第一章:犯罪と左翼

 

明らかにマルクス主義的な思想を持った、同時に並外れた才能を持ったふたりの作家、マイ・シューヴァルとペール・ヴァールーは、北欧の犯罪小説のほぼ全ての重要な点の始祖となり、後の世代に計り知れない影響を残すことになった。

今となっては信じられないことだが、後の犯罪小説作家が、社会派の犯罪小説の最高峰であると認め、現代の犯罪小説作家に大きな影響を与えたと考えられるシューヴァル/ヴァールーの作品が、軽んじられ、全作品の英語翻訳さえなされていない時期があった。主人公の警察官マルティン・ベック(Martin Beck)は、作者の思想を人間化したものであり、彼らの小説は、それを通じて、左翼的な観点からスウェーデン社会を、引いては西欧社会を批判しようという意図で書かれていた。しかし、彼らの作品は、そのマルクス主義的な思想を、直接的に読者に感じさせるようなものではなかった。また、彼らの作品はそのような政治的な意図を意識なくても、十分に楽しめるものであった。「蒸発した男」(1970)年では、休暇中のマルティン・ベックが、行方不明になったジャーナリストの事件に巻き込まれる。これは、犯罪小説の中で、何度も使われた、保守的なシチュエーションである。しかし、その中で、だんだんと当時の価値観に対抗するような要素が織り込まれていく。主に警察内部の腐敗や官僚主義が取り上げられるが、それは社会、政治全体にも当てはまる。しかし、それらは政治的なプロパガンダとしては現れない。アガサ・クリスティー的な、「安心できる、居心地の良い」ミステリーの世界を離れて、より現実的で過激な題材を扱うことにより、社会的なリアリティーに迫っていこうというのが、二人の意図であった。

一九五〇年代ら六〇年代にかけて、十冊のマルティン・ベックシリーズが書かれた。シューヴァルとヴァールーは、それにより社会を変革し、人々をより過激な視点へと改宗しようと試みた。犯罪小説というジャンルは、それを実現するのに、またとないものであると彼らは考えた。そして、ふたりが導入した政治的、社会的な作品は、世界中に支持され、二十五ヶ国語に翻訳されることになるのである。

スウェーデンは北欧五国の中でも最大の市場規模と面積を持つ国であり、外国人の持つスウェーデンに対するイメージは、神秘的な湖と深い森、手付かずの自然という、牧歌的なものであろう。しかし、このようなイメージと対立する、社会的な問題も多く発生している。例えば、急増する移民の問題が、極右勢力の台頭を許しているなど。多くの犯罪小説の舞台となるのが、スウェーデンでも南部の、人口の集中した地域である。しかし、人間の存在が犯罪を引き起こすということを考えれば、この地域性の偏りは避けられないことである。

スウェーデン人は、英語への翻訳を容易にする、ふたつの特性を持っている。ひとつは、相手を正しい結論に向かわせるという会話の特性、また、スウェーデン人が英語を理解しようとしているという特性である。例えば、ジュルジュ・シムノン(George Simenon)などは、その作品が他の言葉に翻訳されるに当たり、多くの困難に直面した。上に挙げた特性が、北欧の小説が英語に翻訳される際、一定の精度と品質を保つ上での大きな利点となっている。

海岸沿いの地域はその変化に富む地形で有名だが、首都ストックホルムが何と言ってもスウェーデン国民の誇る場所であり、世界的に注目を浴びる場所でもある。伝統的な建築物、美術品と並んで、ナイトライフもストックホルムが人々を引き付ける物となっている。実際、北欧では冬、厳しい寒さも去ることながら、長くて暗い夜が続く。その長い夜が、犯罪にとっては絶好の舞台になり、多くの作家もその長い夜を題材に使っている。

市場における需要と、もっとも自分に誠実な形で書こうという作家の欲求の対立が存在する。出版者による作品の「チューニング」が作品の質を高める上では不可避である。また、そのことが北欧の犯罪小説が、文学的に一定のレベルに保たれている理由であるともいえる。また、作家はそのレベルを超えようとして、犯罪小説とジャンルの中で、パラメータの幅を広げていく。しかし、パラメータを広げすぎることは、狙いが曖昧になる恐れもある。例えば冷戦中のことを描くのに、CIAの立場からも、KGBの立場からも述べられ、その違いが不明確になるというように。

「ミステリーの女王」としてのマリア・ラング(Maria Lang)は、英国のアガサ・クリスティーに比べると、殆ど知られていない。しかし、彼女が、スウェーデンの犯罪小説史上に残した功績は大きい。一九一四年に生まれ、一九九一年に亡くなったダグマー・ランゲは、マリア・ラングのペンネームで一九五〇年代に、スウェーデンにおいて初めて「犯罪小説」というジャンルを定着させることに成功した。一九四九年に発表されたラングの最初の作品は、彼女をスウェーデンにおけるベストセラー作家に押し上げ、彼女はその位置に永年君臨することになる。彼女の目指すところは、クリスティーであったと思われる。周到な計画を持って描かれた登場人物が、精緻に筋に組み込まれている点などが、クリスティー「ミス・マープル」と共通している。しかし、幾つかの作品は英国で翻訳されたもの、彼女の作品が外国で評価されることはなかった。その点、英国でも人気を博したジョルジュ・シムノンとは異なっている。しかし、現代のスウェーデンにおける犯罪小説の作家が、彼女の作り上げたジャンルと、その作品の中で育つことができた意味は大きい。

一定の期間に一定の本を出版しなくてはいけないという編集者と出版者の日程が、作家に要求されることは当然である。しかし、北欧の作家の本が、米国や英国で出版され、状況は更に変化した。販売戦略が、読者の需要に先立つようになったのである。しかし、単に商業的な戦略だけでは、出版が成功するわけではない。特に英国の出版者は、翻訳小説が、出版社の一種のショーウィンドーであり、スティーク・ラーソンやヘニング・マンケルの作品のように、並外れた品質を持つものではないにしても、それ相当の品質のものを並べ、大新聞の批評欄にポジティブに扱われないと、読者は振り向かず、商業的に成功しないことを感じはじめた。俳優、監督などのエゴがぶつかり合いながら作品が作られる映画と異なり、翻訳書は出版者の判断のみが「物を」言う世界であり、しかも、北欧の犯罪小説は、激しい翻訳権の獲得合戦が繰り広げられる。これまではある程度「バブル」の時期であったが、それが何時はじけるか分からない。流行が終る前に、素早い対応が必要となる。そして、翻訳権を獲得したと言っても安心はできない。原作の味を伝えるためには、優秀な翻訳者が必要になってくるからである。以上のような事情から、最近の翻訳小説の世界では、「パワー、決定力」が、経営者からより読者や翻訳者に近い場所にいる編集者に移りつつあるようだ。

 

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