現代的演出の功罪
姉妹は次第に、ふたりの「パンク兄ちゃん」(実は恋人)のペースに乗せられていく。
幾つか聞いたことのある歌もあった。戦争に行った(ことになっている)恋人を偲んで、姉妹とアルフォンソの歌う三重唱「風よ穏やかに」。これは、何時聴いても名曲だと思う。
評判通り、重唱、アンサンブルの中の、掛け合いの妙も素晴らしい。各々が、別のメロディーで違う歌詞を唄っているのに、それでいてひとつにまとまり、歌の中でまさに会話をしている感じ。
さて、妹のドラベッラは、比較的簡単に「パンク」兄ちゃんの一人のアタックに落ちてしまうのだが、姉のフィオルディリージは、最後まで、恋人へ忠節と、「パンク」兄ちゃんの求婚の間で思い悩む。しかし、そんな彼女も最後には、「パンク」兄ちゃんの求愛を受け入れてしまうのだ。それを知った、アルフォンソとふたりの青年は、
「女は皆こうしたもの(コシ・ファン・トゥッテ)。」
と歌うのだ。これが、この劇のタイトルの種明かし。
この時代の喜劇には幾つかの「お約束」があり、「最後は結婚式で終わる」というのもそのひとつだが、この劇もその「お約束」を忠実に守っていた。
十時半に劇が終る。歌手と指揮者が手を繋いで横に並び、何度もお辞儀をするカーテンコールがある。長い間拍手が鳴り止まない。
娘:「パパどうだった。」
僕:「なかなか良かった。エンジョイしたよ。」
僕はそれなりに楽しみ、満足していた。確かに奇妙な演出だった。しかし、これが、本来の伝統的な演出だったら、これほど退屈しないで三時間過ごせたかどうか疑問だ。
僕は何回か、シェークスピアの舞台を見た。シェークスピアの芝居でも、現代的な演出が盛ん。「ロミオとジュリエット」などは、ロメオがジーンズ、ジュリエットがワンピースなどというものあり、
「これ、『ウェストサイド物語』かいな。」
と思ってしまう。
僕は、これまで、見る劇を選ぶとき、そんな現代的な演出のものは避けてきた。しかし、今日、この「コシ・ファン・トゥッテ」を見て、少し考えが変わった。伝統的な作品を現代的にアレンジしてしまうことについて賛否はあろうが、少なくとも、現代的な演出は、人を退屈指さないで、オペラなどの古典を純粋に「楽しませる」こと、ひいては観客の底辺拡大には役立っていると思う。
スミレは現代的な演出によるこの劇を「アクセシブ」と表現した。日本語に直すと「取っ付き易い」という意味になるだろうか。
「でも、わたしがオペラを見るときは衣装も楽しみにしてるの。そういう意味では、今日はちょっとがっかりね。」
と彼女は言った。
芝居が跳ねて、家路につく人々。