地震とラジオ体操
船岡山と建勲神社から大文字を望む。
四月二日の午後、僕はI医師と話していた。その日は、術後のフォローアップの日。僕は、それまでに、心電図やレントゲンなどの検査を済ませてきていた。
「どこも異常はありません。順調に回復しています。もう来なくていいです。」
I医師はそう言った。やった〜、これで大手を振って英国に帰れる。
「有難うございました。お世話になりました。」
そう言って、診察室を出ようとすると、I医師が、
「Xさんを、ご存じですか?」
「はい、私の高校の同級生で、一緒に陸上部で走っていた仲ですが、何か?」
「ここの病院で、私の先輩なんです。よろしくと言っておられました。」
僕は、X君が、日赤病院のお医者さんだったことを思い出した。本当に、どこにでも、人のつながりはあるもんだ。
自転車で病院を出た僕は、母の家に戻った。僕は前日にアパートを引き払い、母の家に移っていた。京都最後の十日間、僕は、母の家で過ごすことになっていた。ウィルス感染が収まってきたからではない。三月の中頃に「緊急事態宣言」が解除された京阪神だが、その後、変異ウィルスの割合が増えるにつれ、爆発的な流行の兆しが見えていた。母の家に引っ越した僕は、それまで以上に自分に行動制限を強いた。一言では、「どこにも行かない」。その例外が、食料品の買い物と、散歩である。まあ、母も散歩と買い物には行っているし、帰った時、手を消毒すれば大丈夫だろうというのが、母との間のコンセンサスである。
鞍馬口の母の家に移ってから、朝ラジオ体操に行きだした。場所は、近くにある船岡山という小さな丘にある公園。船岡山は織田信長公が祀られている建勲神社があり、応仁の乱の舞台にもなった、由緒ある場所。そこの公園である、毎朝六時半からのラジオ体操に、身体慣らしを兼ねて出ることにした。参加者は毎朝およそ三十人。爺さん婆さんばかりで、僕はまだまだ「若手」、「若輩者」。僕が参加して三日目、ラジオ体操第一が始まったところで、音楽が中断した。
「番組の途中ですが、地震情報をお伝えします。今朝六時二十一分頃、兵庫県南部で地震がありました。震源の深さはおよそ八キロ、マグニチュードは推定六、二です・・・」
僕たちは音楽なしで体操を続ける。
「・・・津波の心配はありません。」
地震情報は一分ほどで終わり、また、ラジオ体操第一のピアノ伴奏が戻った。そのとき、僕たちの動作は、音楽と、全くずれていなかった。
「おお〜!」
という声が上がった。何十年と毎日やっている人の身体には、メロディーだけでなく、テンポも、精密に刻まれていたのである。