やっと予定が
僕のアパートの隣にあり、毎日言っていたスーパー。どこに何があるのか熟知した。
三月十二日、僕は第二日赤病院で、I医師の診察を待っていた。カーテンで仕切られた診察室からは、前の患者さんとI医師の会話が聞こえてくる。その日、手術の日取りが決まる予定。頭の中には、期待より不安の方が多かった。日本に着いてから既に二カ月が経過していた。いくらなんでも、ボチボチ終わりたい、フィニッシュを念頭に入れて行動したい、そんな気持ちが強かった。既に、手術を受けることは決まっており、I医師は僕の執刀医になる方だった。しかし、I医師は、二月中は多忙で、アポが取れなかったのだった。
「手術は来月って言われたらどうしよう。」
と、考えてしまう。
「まあ、四月でも五月でもいいか。予定が決まらないで待つよりは、終わりが分かっている方がいいや。まあ、大文字(八月十六日)まで京都にいることはないだろう。」
と自分に言い聞かせる。
前の患者が出ていき、次に僕が呼ばれる。I医師と話した結果、手術は、意外に早く、十日後の三月二十二日に決まった。そして、術後のフォローアップが四月二日に行われることも決まった。もし、フォローアップで、異常がなければ、その後、英国に戻ってよいとのことだ。
病院からの帰り道、自転車を漕ぎながら、僕は心からホッとしていた。
「まだ手術はこれからなのに、もう全てが終わったみたい。」
僕は、母親に電話をしてそう言った。手術への不安、心配は全くなかった。とにかく、これで英国に帰れる、仮住まいから本来の生活に戻れる、それだけで嬉しかった。
手術までの十日間、僕は、これまで通り、絵を描いて過ごしていた。それまで、絵を描くとき、よくテレビをつけていた。しかし、その頃から、僕はYouTubeで音楽を聴きながら絵を描くことが多くなった。折しも、三月十八日は、東日本大震災から十周年の日だった。その前後は、テレビをつけても、殆どが特集番組。震災の後数年間は、津波が押し寄せる「生々しい」映像は、あまりテレビでは放映されていなかったように感じる。しかし、今回は、「震災を忘れさせてはならない」というマスコミの意図だろうか、津波に町が飲み込まれる光景が度々放送された。
「ちょっとこれは『ながら族』には重いよな。」
僕はそう思った。相撲中継、お笑い番組やニュース番組なら、聞き流しながら、絵を描いたりできるが、津波の画像を見流したり、亡くなった方たち、残された方のたちの話題を聞き流したりするのは、やはり難しい。その週は、日本中のテレビ局が、大震災十周年の特集番組を組んでいた。
今年の桜の開花は早いとのことだった。
「退院してきたときには、桜が見ごろだろうな。」
ともかく、桜を見て、花見をして帰れることは、今回の収穫になりそうだった。もうひとつ、絵をたくさん描けたことも。