上流階級ごっこ
日の出の直前、海はワイン色に染まる。
土曜日、九日目。毎日毎日同じ景色を見て、同じことをしていると、曜日の感覚がなくなってくる。朝起きて甲板に出る。温度の他に湿度がぐっと上がってきたのを感じる。シンガポールやマレーシア、ソロモン諸島で体験した、熱帯の湿り気をたっぷり含んだ空気だ。海の色は群青色から、もっと明るいコバルト色に変わりつつある。うねりがあり、船は揺れている。しかし船酔いは完全に消えた。船が揺れていることさえ、身体が気付かなくなっている。窓を見ると、窓枠を基準にして、水平線がゆっくりと上下している。
朝起きて、下部甲板を一時間歩く。途中で大洋が水平線から顔を出す。今日も美しい夜明け。何周歩いたか、途中で数えるのを忘れてしまった。数十人が歩いているので、逆周りに歩いている人達とは頻繁にすれ違う。
今日も、ダンスのレッスンを受け、気が向けばプールで泳ぎ、日光浴をし、昼寝をし、読書をし、料理はせずに食事をし、夜はナイトクラブに繰り出すという生活。
英国で、昨年から「ダウントン・アビー」というテレビの連続ドラマをやっていた。今から百年前、城のような邸宅に住む「上流階級」、つまり貴族の話である。「ハリー・ポッター」の映画で「マクゴナグル教授」を演じていたマギー・スミスなども出ていて、英国では結構人気のあるシリーズだった。僕も何回か見た。個人的には退屈な話だと思ったが、上流階級の生活を描きながらも、それを支える膨大な召使い達の暮らしもよく描かれており、その意味では興味深かった。
英国はいまだに「階級社会」である。「アッパー・クラス」(上流階級)、「ミドル・クラス」(中流階級)、「ワーキング・クラス」(労働者階級)という言葉が、ごく普通の会話に登場する。末娘なんか、大学の同級生に対して、
「誰々くんは『労働者階級』出身だから。」
などと、平気で言っている。そして、自分は「ミドル・クラス」だと公言している。
ところで、「上流階級」、貴族は原則的に働かない。領地から上がる収入、つまり領民からのピンハネで食っているわけ。彼等は領地とロンドンに両方屋敷を持っており、時々、ロンドンの社交界に来て、観劇や舞踏会など都会の生活も経験する。ウィリアム王子と結婚したケイト・ミドルトンの両親は、僕の感覚からすると、とてつもなく裕福な人達なのだが、新聞には「中流階級」と紹介され、
「何で、あの人達が『中流』やねん。」
と、苦笑したことがあった。
僕は、このクルーズは、中流階級の人が、「上流階級ごっこ」をする場なのだと思うようになった。働かず、毎日ダンスをし、ショーを見て、タキシードやイブニングドレスを着て、沢山の召使いにかしずかれて暮らす。そんな「夢」を一時的に叶えてくれるというのが、クルーズなのだと思う。まあ、クルーズの参加者の八割以上が定年退職者だと思われる年齢なので、「働かなくてよい」という境遇では、「貴族」と同じなのであるが。これって「定年貴族」って言うのかな。
夕食後、乗客の有志による「ヴェンチューラ合唱団」のコーラスがアトリウムで行われた。