タキシードとイブニングドレス
これがフォーマルディナーの正しい格好。いささか照れくさい。
間もなく荷物が届き、中身の整理を始める。妻は何枚ものドレスをハンガーに掛けている。一体何枚持ってきたんだろう。船旅の場合、夕食に際して、一応「まともな格好」をしなければならい。ジーパンにTシャツではレストランに入れてもらえない。また、数回ある「フォーマルなディナー」では、女性はイブニングドレス、男性はタキシードかディナージャケットの着用が義務付けられている。つまり、エルキュール・ポアロの映画「ナイル河殺人事件」での夕食のような光景になるのだ。従って、「堅苦しいことは嫌い」という人には船旅は向かない。
出発の数日前、僕は会社のキッチンで同僚のアツヨと昼食を取っていた。
彼女:「モトさん、今回の休暇、どこかへ行くの?」
僕:「クルーズ。アツヨさん行ったことある?」
彼女:「ううん、うちのダンナが堅苦しいのが嫌いでね。でも友達の中には『はまって』しまって、何度もクルーズに参加している人がいるわ。両極端ね。」
この旅を終えた後、僕はどっちになるのだろう。
とにかく、スペインやギリシアなど暖かい場所へ休暇に行くときは、着る物が少なくてよい。Tシャツと半ズボンとサンダルがあれば十分。中には家からその格好で来る猛者もいる。(たとえ英国での気温がマイナスであっても。)
僕はもちろん、タキシードなど持っていない。それどころか、着たこともない。借り着を予め申し込んでおいて、船内で受け取ることになっている。
ノックに応えてドアを開けると、部屋の担当のボーイ、ヴィクター君が、
「もうすぐ避難訓練がありますから、アナウンスが入ったら、救命胴衣を持って、避難場所に集まってください。」
言ってきた。
しばらくして、警報が鳴ったので、オレンジ色の救命胴衣を持って避難場所に集まる。船員の誘導で通された「避難場所」は劇場だった。船の中の劇場と言っても、千五百人以上は入れる立派なもの。息子の大学院の卒業式のあった、ロンドン大学の講堂と同じくらいの大きさがある。集まってきた乗客たちを見ると、九十五パーセントが、「還暦」を過ぎた白人のカップル。インド人のカップルが数名見える他は、アジア人は僕達だけのように思える。反対に船の従業員の人は、色の黒い人が多い。船長から船の安全についての話があり、救命胴衣のつけ方を教わる。
訓練が終わって部屋に戻る。窓の外を見ると船が動き始めていた。余りにも静かなので、船が動き出したことさえ気付かなかった。慌てて階段を上がって最上階のデッキまで上がる。何せ十六階建ての建物と同じ高さなのだ。階段で上がると息が切れる。
デッキには離れていくサウスハンプトンの港を見ようと、結構沢山の人が集まっていた。船は黄昏のサウスハンプトンを離れて、湾の外へと静々と進んで行く。
乗船後、皆が集まって救命胴衣の着用訓練。