ドナウ河の漣

ブダペストの市電。かつて社会主義だった国は街に独特の雰囲気がある。

 

僕は風呂が好きだ。特に大きなお風呂が。日本に帰ると、銭湯とか温泉に行くのが楽しみでたまらない。ところが、ここハンガリーにも、あちこちに温泉が湧いており、公衆浴場が沢山あるという。観光案内を見ても、皆が気持ち良さそうに風呂に浸かっている写真が載っている。つまり「温泉天国」なのだ。

「行きたいなあ、ウズウズする。」

それを見て僕は言った。もちろん「こちらの温泉」であるから、湯の温度は日本ほど高くないし、水着を着て入らなければいけないのだけれど。それでも!残念だけれど、今回は時間がなくて無理。風呂好きの僕としては、次回は是非、風呂に浸かってから帰りたいものだ。

「皆がお風呂に入りにいく場所は?」

「ニューヨーク!フロリダ!ブダペスト!」

三日目の朝も六時から歩き始める。今日は十時に支社でミーティングがあるが、それまでに出社すれば十分。九時半に支社に着くには、ホテルを八時半に出れば十分だ。今日は、ブダの王宮の丘トンネルを潜った後、左に折れ、ドナウ川に沿って歩く。

「今日はドナウ河の畔を歩くぜ。」

力が入っている。ブダペストに来る前から考えていた夢が、いよいよ実現するのだ。しかし、ドナウ河のすぐ横は車道で歩けない。一段高いところに歩道と、市電の線路がありそこを歩く。ブダペストには市電の線路がいたるとこに敷かれている。電車が走っている場所もあるし、線路が錆びつき、雑草が生えている場所もある。今日歩いているドナウ川の西岸も、一応線路はあるのだが、最近電車が走った形跡がない。工事中なのか、廃止になったのか。

遠くに見えていた向こう岸の国会議事堂がだんだん近づいてきた。その正面まで歩く。巨大な建物が、逆光の中、キラキラ光るドナウ河に映っている。そう言えば、「ドナウ河の漣(さざなみ)」なんてワルツを昔ピアノで弾いたことがあった。そこから先は工事中で、川沿いに行けなくなったので引き返す。

ところでドナウ河は、ドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森)に起源をなし、ドイツ、オーストリア、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリアを流れて黒海に注ぐ、全長二千八百キロメートルの川である。僕はこれまでレーゲンスブルク、パッサウ、ウィーンなどでこの川を見ていた。どこでも、人にそれなりの感動を与えてくれる、名前負けしない川だ。実は、ライン河とドナウ河の水源はすごく近いのだ。すぐ近くに降った雨が、ライン側に行けば大西洋まで、ドナウ側に行けば黒海まで行くというのは面白い

日本で、宮本輝という人の書いた「ドナウの旅人」という小説がベストセラーになり、テレビ映画化されたこともあった。テレビでは佐久間良子が主演をしていたと思う。当時日本人に馴染みの薄かった東ヨーロッパを舞台にしていて、結構楽しめる本だった。

その日恒例、朝の散歩を終えた僕はホテルをチェックアウトして、支社に向かう。ロビーは、中国人と日本人の団体さんに占領されていた。チェックアウトの時、フロントの前に客が三、四人並んでいたが、例によって中国人が順番を守らないで、日本人のヒンシュクを浴びている。

「あれれ、最近どこかで見たぞ、同じような光景を。」

 

ブダの王宮の丘の早朝。石畳が美しい。

 

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