「風の影」
原題:La sombra del
viento
ドイツ語題:Der Schatten des Windes
2001年
カルロス・ルイズ・ザフォン
Carlos Luiz Safón
<はじめに>
スペインの作家、カルロス・ルイズ・ザフォンが二〇〇一年に発表した小説。バルセロナに住む青年ダニエル・センペレを巡るストーリーと、彼が読んだ小説「風の影」の著者、フリアン・カラクスを巡るストーリーが並行して進む。そして、二十年の時間差のあるふたつのストーリーが最後に一体となる。ザフォンの最大のベストセラーとなった一冊である。
<ストーリー>
ダニエル・センペレの父はバルセロナで書店を営んでいた。ダニエルの母は、彼が四歳のときに亡くなり、彼はその後父親に育てられていた。一九四五年のある早朝、母親の顔が思い出せないとパニックになった幼いダニエルを、父は「忘れ去られた本の墓場」に連れて行く。そこは文字通り、読み手を見つけられなかった、もう書店では買うことのできない書籍の墓場であった。イザーク・モンフォートという男が、その「墓守」をしていた。
そこでダニエルはフリアン・カラクスという作家の書いた、「風の影」という本を手にする。その本と作者に興味を持ったダニエルは、父と同じく書店を営む、グスタヴォ・バルセロに相談する。バルセロは自分の姪クララが、カラクスのことをよく知っているということで、彼女を紹介する。図書館でクララと会ったダニエルは、二十歳をわずかに超える美しいその娘に一目惚れする。彼女は盲目であった。
クララの家庭教師がカラクスの本に興味を持ち、一冊を彼女に勧めた。それ以来、カラクスの別の本をクララは探した。しかし、誰かが国中に散らばるカラクスの本を買い集め、どの書店にも残っていなかった。ダニエルは「風の影」を彼女のために朗読する。その後も、彼女の家にしばしば出向き、朗読を続ける。ダニエルは本をクララに贈る。彼はクララと話す中で、彼女の父は、フランシスコ・ハヴィア・フメロという男に殺されたことを知る。
十八歳の誕生日、ダニエルはクララを招待する。しかし。彼女は現れない。それに憤慨して外に飛び出したダニエルの前に「顔のない男」が現れる。(その男は爬虫類の皮で覆われたような顔をしており、鼻も口もなかった。)クベールと名乗るその男は「風の影」の本を自分に渡すように要求する。ダニエルは、クベールが、「風の影」に登場する人物であることを思い出す。その登場人物が何故、実際、自分の前に現れたのか、彼には理解できない。
現在の「風の影」の持ち主クララのことが心配になったダニエルは、彼女の家に入る。クララは音楽教師のネリとセックスの最中。ダニエルに気付いたネリは彼を、路上に叩き出す。怪我をして路上に横たわるダニエルをひとりの乞食が介抱する。
誰も来なかった十八歳の誕生日の祝いに、父はビクトル・ユーゴーの使っていた万年筆をダニエルに贈る。ダニエルは、もうクララの住むバルセロ家には足を向けまいと決心する。ダニエルはクララから取り戻した「風の影」の本を再び「忘れ去られた本の墓場」に隠す。
ダニエルの父の書店が繁盛しはじめ、従業員を雇う必要に迫られる。ダニエルは自分を助けてくれた乞食、フェルミン・ロメロ・デ・トレスを推薦する。彼との会話で、彼が本に詳しいことを知っていたからだ。ダニエルはフェルミンを家に招き、風呂を浴びさせ、きちんとした身なりをさせる。なかなか立派な男、しかし、彼の身体は拷問を受けたような傷で覆われていた。フェルミンには、注文された本を、どこからとも探し出してくる「嗅覚」というものを持っており、ダニエルの父の右腕となる。
書店に三人の訪問者があった。ひとりは、見知らぬ訪問者で、周囲の焼け焦げた、古い写真を置いていった。その写真には若い男女が写っており、背景には「フォルトゥーニ帽子店」というサインが見えた。ダニエルはフリアン・カラクスの父が帽子屋であったことを思い出す。ダニエルはその写っている若い男性こそ、フリアン・カラクスであると直感する。
第二の訪問者は、バルセロ家の召使のベナーダであった。彼女は姪の誕生日に贈る本を探しに来たのだった。ベナーダに一目惚れしたフェルミンは、彼女に無料で本を与え、その代わり彼女とお茶の約束をする。
三人目の訪問者は鋭い目をした男だった。彼は自分を「フメロ警部」であると名乗る。フメロはフェルミンを追っていた。「隠し立てをするとおまえたちにも容赦はしない。」
そう脅してフメロは去っていく。
ダニエルは、「フォルトゥーニ帽子店」を訪れてみる。店はフォルトゥーニの死後閉められ、空き家になっていた。そこに長く住んでいるという管理人の女性とダニエルは話す。見知らぬ者が置いていった写真を見た管理人は、若い男がフリアン・カラクスであると証言する。しかし、彼女が、フリアンは十八歳のときパリで死んだはずだと言い張る。父親のフォルトゥーニがそう話したという。ダニエルの口からフリアンがパリでその後も作家として活動していたことを知って、管理人は驚く。
管理人は、フリアンの両親の話をする。帽子職人であったフォルトゥーニは、バルセロナで音楽の家庭教師をしていた若い女性、ソフィー・カラクスを見初め、彼女と結婚する。しかし、奔放な彼女は、すでに他の男性とも関係を持っており、結婚して産まれてきた男の子はフォルトゥーニの子ではなかった。帽子屋は激怒し、妻に暴力を振るう。しかし、世間体を気にしたフォルトゥーニは、妻を奥の部屋に押し込み使用人のようにこき使うが、男の子は自分の息子として育てる。フリアンは本の好きな、寡黙な少年に育つ。十八歳のとき、フリアンはバルセロナを出てパリに向かう。父親は、息子はパリで死んだと周囲の人間に告げていた。
ダニエルは、帽子屋のフォルトゥーニの家で見つけた手紙を読んでみる。それはペネロペという女性からフリアン・カラクスに宛てたラブレターであった。
「あなたがバルセロナを去ったことを聞いた。私は今閉じ込められている。」
とそこには書かれていた。フォルトゥーニ宛の手紙は、私書箱に配達されていた。
ダニエルは、トーマス・アギラという大柄で機械いじりの好きな男と友人となる。トーマスの家は金持ちで、一歳上のベアトリスという姉がいた。ダニエルは、ある日、注文のあった本を、大学の研修室に届けにいく。そこで、大学教授をと話していた女子学生は、トーマスの姉、ベアトリスであった。
ダニエルはラブレターを書いた女性、ペネロペ・アルタヤの住んでいた家に言ってみる。そこは空き家になっていた。掃除をしていた男に尋ねると、アルタヤ家は南米に移住し、そこは二十年近く空になっているという。
「本の墓場」の管理人イザークの娘、ヌリア・モンフォートという女性が、フリアン・カラクスについて知っていると聞いたダニエルは、彼女を訪れる。彼女の夫は今刑務所にいるという。ヌリアはパリの出版社で働いているとき、フリアンに会っていた。彼女の話によると、フリアンは父親に軍隊に入れられそうになり、母と一緒にパリに出てきた。そして、クラブのピアニストとして働き始める。
カスピターニという男に認められフリアンは何冊かの本をカスピターニの出版社から世に送る。しかし、それらの本は数十部から数百部し売れなかった。彼は年上のパトロンの女性と結婚することになる。しかし、結婚式の当日、喧嘩から決闘騒ぎを起こし、ピストルで撃たれて死亡する。引き取り手のない遺体は、共同墓地に葬られたという。ヌリアはペネロペという女性については知らないという。
フリアン・カラクにますます興味を持ったダニエルは、大学を訪れ、ベアトリスを誘い出す。彼はカラクスの「風の影」について話し、彼女を「忘れ去られた本の墓場」へ連れて行き、その本を見せる。彼女も、カラクスとその本に興味を持ち始める。許嫁がありながら深夜帰宅したベアトリスを彼女に父親は腹を立て、彼女は外出禁止となる。
フェルミンの調査によって、フォルトゥーニ家の私書箱の鍵を持っているのは、ヌリア・モンフォートであることが分かる。ダニエルは彼女が嘘をついているか、真実を全て語っていないことを知る。フェルミンとダニエルは、フリアンの少年時代を知るために、彼の通っていたサン・ガブリエル学校を訪れる。当時その学校は、学費も高く、生徒は上流階級の息子たちで占められていた。何故、帽子屋の息子であるフリアンが、そんな学校へ行くことができたのか、ダニエルは不思議に思う。
学校で働く司祭の話によると、フリアンはアルタヤ家の金銭的な援助を受けて学校に通っていた。しかし、アルタヤ家の息子であるホルヘ・アルタヤよりも、もうひとり裕福な家庭の息子であるミケル・モリネルとの交友が深かったという。司祭はフリアンがパリで死んだこと、ホルヘをはじめアルタヤ家がアルゼンチンに移住したことを語るが、それ以外の消息は知らなかった。
フェルミンは、アルタヤ家でペネロペの世話係をしていた、ヤシンタ・コロナードが老人ホームにいることを突き止める。フェルミンとダニエルは、葬儀屋と偽って老人ホームに潜入し、ヤシンタと会う。ダニエルの
「ペネロペとフリアンを覚えていますか。」
という問いに、ヤシンタは
「ふたりとも連れ去られてしまった。」
と答える。そして、ヤシンタはペネロペとフリアンの出会いについて語り始める。
ペネロペは十三歳のとき、兄のホルヘの友人として家に遊びに来たフリアンと出会い、この男こそ自分の夢に何度も現れ、自分が結婚するべき男であると確信する。フリアンもペネロペとの出会いに運命的なものを感じる。ヤシンタがそのふたりのラブレターの受け渡し役を務める。ところがふたりがキスをしているところを目撃されてしまう。ペネロペに片思いをしていたフメロは父親の銃を持ち出し、フリアンに向かって撃つ。ミケルは献身的にフメロに飛び掛り、フリアンは助かる。しかし、フリアンは放校処分となる。友人のミケルはふたりがパリに逃げられるように金と切符の手配をする。それまでの間を待ちきれなくなったフリアンはペネロペの元に忍び込み、彼女と寝る。約束の日曜日の午後、駅に現れたのは切符と金を持ったミケルだけだった。ペネロペは現れなかった。独りでバルセロナを去るフリアンに対して、ミケルは、
「俺とペネロペのために本を書け。」
と叫ぶ。
ペネロペは妊娠しているのが発覚、彼女は屋敷の一室に閉じ込められる。世話係のヤシンタは解雇され、無理矢理二年間、精神病院に入院させられる。二年後、アルタヤ家を訪れたヤシンタは、家族はすでに引越し、屋敷が売りに出ていることを知る。
老人ホームからの帰り道、フメロとその他数人の警官がダニエルとフェルミンを待ち構えていた。フメロはフェルミンを袋叩きにし、負傷したフェルミンはベナーダのいるバルセロ家に運ばれる。それを機に、フェルミン等、フメロから狙われている人々を助ける「組織」が作られる。
ベアトリスはダニエルを、空き家になっているアルタヤ邸に呼び出す。そこでふたりは関係を持つ。ふたりは、アルタヤ家の地下室に入る、そこには二つの棺桶が置かれていた。ひととは大人のサイズ、ひとつは子供サイズであった。ダニエルはそれがペネロペとその赤ん坊のものであることを知る。そこへクベアが現れ、ふたりに出て行けという。その後、ダニエルはベアトリスと連絡を取ろうとするが、彼女の家族はダニエルが彼女に会うことを拒む。
フェルミンが行方不明となる。新聞にはヌリアが殺され、その犯人として、フェルミンが指名手配されたと伝えられる。ダニエルの店の前に警察の見張りがつくようになる。ダニエルは「忘れ去られた本の墓場」の管理人、イザークを訪れる。殺された娘のヌリアは、ダニエルに長文の手紙を残していた。フリアンは決闘で死んではいなかった。その後バルセロナに戻り、ヌリアと一緒に暮らしていたのであった。その手紙を読むことにより、ダニエルはフリアン・カラクスの辿った数奇な運命を知ることになる・・・
<感想など>
「風の影」というのはこの小説の名前であると同時に、小説の中でフリアン・カラクスの書いた本の題名でもある。フリアン・カラクスの書いた本を、誰かが買い集め、焼き捨てている、それが誰であるかがこの物語の焦点となる。
ひとつの物語の中でもうひとつの物語が語られる「枠小説」というには、「枠」の部分が大きすぎる。一九四五年から一九六六年までのダニエル・センペレを主人公にした物語と、一九二〇年から一九三五年までのフリアン・カラクスを主人公にした物語が、並行して語られることになる。フリアンと、その本に興味を持ったダニエルが、フリアンの謎に満ちた生涯を解き明かしていくのだ。
ダニエルとフリアンの辿る道は似ている。彼らはほぼ同じ運命を辿る。本を愛し、愛した女性の家族から交際を反対され、最後は軍隊に送られそうになり・・・読んでいて、「あれっ、今はどちらの話だっけ」と考えしまうときがある。最後に、ダニエルがある意味でフリアンの「分身」であることが分かる。
フリアンとダニエルに共通の敵役として最後まで登場するフメロは、「レ・ミゼラブル」のジャヴェールを彷彿とさせる。しかし、ふたつの時代に渡り、壮大で緻密な物語が構築されているという点では、「レ・ミゼラブル」に匹敵するものであると思う。
この物語は、一九三六年から三九年のスペイン内戦、一九四五年以降のフランコ独裁政権というスペインの社会情勢を背景としている。特に、フェルミンが何故、警察に追われるかについては(彼はかつて共和国軍の秘密警察の一員であった)、その背景なしには理解できない。
読み応え十分の「傑作」と言っていい作品。
(2013年10月)