「青いマフラーの男」
ドイツ語題:Der Mann mit dem
blauen Schal (青いマフラーの男)
原題:Judinnans tystnad (沈黙するユダヤ人)
スヴェン・ヴェステルベリ
Sven Weterberg
2000年
<はじめに>
一九九九年に、「スウェーデン推理作家アカデミー賞」を受け、その年のミステリー作家ナンバーワンになったウェステルベリ。この人も、北欧以外では殆ど知られず、作品の外国語訳も少ない。推理作家でありながら、季節の描写、自然の描写が素晴らしい。また男性でありながら、女性を主人公にして、作者が男性であることを感じさせない繊細な文章を書ける人である。
<ストーリー>
イェーテボリ、五月。暦の上では春だが、まだ雪の舞う天気が続いていた。日曜日の朝、トマス・ストランドベリは目を覚ます。ガールフレンドのアパート、隣ではダニエラが眠っていた。昨夜飲み過ぎた彼は、ひどい二日酔いだった。トマスは月曜日にある大学の試験のことを考え、不安な気持ちになる。居間に行くと、ソファや床に男友達三人が眠っていた。彼らも起き出し、簡単な朝食をとった後、四人の男性は外に出る。四人が歩いていると、一人の老女が道を遮るように立っていた。彼女は袋から拳銃を取り出し、トマスに向かって発射する。トマスは意識を失い、倒れる。
ハナ・スコグホルム裁判所に勤める、法廷心理鑑定者である。彼女は、ドイツ製の軍用拳銃から弾丸を四発発射し、学生を殺害した、エスターGという女性を担当することになった。エスターは、第二次世界大戦中、東欧から逃げてきたユダヤ人である。彼女は、未亡人で大きな家に住んでいた。日曜日の午前中、タクシーに乗り友人に会いに行き、その途中で、学生、トマス・ストランドベリに拳銃を発射したのであった。ハナはこれまで、心理鑑定者として、色々な人間を担当していた、しかし、エスターはこれまでハナが扱った人物とは全く異なっていた。ハナは、エスターに会う前に、警察により書かれた報告書を詳細に読み込む。
「殺人が行われたとき、道路の向かい側を歩いていた男性が、足を止めることもなく立ち去った。」
その言葉に、ハナは引っ掛かりを感じる。
ハナはエスターとの会話を始める。エスターはあらゆる意味で、ユニークな女性であった。エスターは過去のことは話すが、事件と直接関係のある質問については、沈黙を貫き通した。拳銃、ヴァルターP三八は、第二次世界大戦中ドイツ軍が使っていたが、その入手経路も謎のままだった。彼女は一九一八年、ポーランドのルブリンで生まれた。エスターは絵を描くのが好きだった。エスターの家を訪れたハナは、彼女の描いた一枚の絵に目を止める。それは、他の絵とは違い、見た者に不安を掻き立てるような絵だった。
ハナはエスターとの会話を録音したテープをもう一度聞き始める。エスターは困ったとき、森に入り火をおこし、神と会話するという。彼女は、自分が死者が生きている世界、ある意味で別の世界に生きていると語った。エスターは、ポーランドのルブリンでバイオリンを習い始め、才能が認められる。しかし、ナチスドイツの占領下、国を出ることを余儀なくされ、デンマークへ渡る。そこで恋に陥るが、結局スウェーデンに渡り、エンジニアである夫、エリクと結婚していた。そのエリクが亡くなってから十年以上、彼女は独りで暮らしていた。ハナはエスターから得た情報の断片を繋ぎ合わせて、一枚の絵にしようとする。しかし、欠けている情報が余りにも多かった。
その日は、冬と春が戦っているような朝だった。エスターは庭を抜けて表通りに出て、タクシーに乗った。ハナはエスターがそのとき不安を感じていたと考える。彼女は母と妹をナチスの強制収容所で失っていた。その後、彼女は常に過去と共に生きているように、ハナには思えた。ハナはその瞬間のために、エスターがカウントダウンをしながら行動しているような印象を受ける。
エスターは、六月に警察から精神鑑定のため、法医学研究所に送致されてきた。エスターは、警察での尋問で一貫して事件に関しては黙秘を続けていたからである。ハナはエスターを見て、歳は取っているが、昔は美しい女性であったと想像した。エスターとハナの間で、
「子供は何人?」
というような個人的な会話が取り交わされる。それを繰り返す間に、ふたりの間に信頼関係のようなものが芽生え始める。しかし、ハナの前でも、話が事件の核心に触れると、エスターはピタリと話すのを止めた。ハナは会話が限界に来たのを感じると、面会を打ち切った。
ハナは被害者のトマス・ストランドベリに関する調書を読む。トマスの父親は会社の経営者であり、トマスは学校では一貫して優秀な成績を収めていた。級友や教師からの評判も概して良かった。大学で経済学を専攻していたが、政治的な活動とは縁がなかった。警察は、エスターがトマスを選んだ理由を、全く見つけられないでいた。
ハナの同僚、マルティン・フレデリクソンは奇妙な電話を受ける。
「あのユダヤ人の女を担当している医者は誰だ。」
という質問であった。翌日、新聞の活字を切り抜いて綴られた手紙が法医学研究所に届く。
「アーリア人を殺したユダヤ人を助ける医者は、生かしてはおけない。ハイル・ヒトラー」と書かれていた。家に帰ったハナに無言電話が架かる。不安に思ったハナは、自分の家には帰らず、夫と三人の子供たちが暮らしている夏の家に泊まることにする。
エスターは自分の過去については、ハナに話をする。彼女は才能を見込まれ、最初バイオリニストとして活動をする。しかし、一九四二年にデンマークにいるとき、ナチスの将校により腕を傷つけられ、演奏家としての生命を絶たれた。彼女は一九四三年にスウェーデンに到着し、翌年、結核を病んでサナトリウムに入っていた。家族はナチス占領下で亡くなり、生き残ったのはエスターだけだったという。エスターはスウェーデンでエリクと結婚、その夫を早くに亡くしていた。ハナには、エスターが自分の過去に対して語るとき、その過去に終止符を打とうとしているように感じた。そして、話題が現在と関わると、エスターは口をつぐんだ。
警察は、エスターがPTSD(ポスト・トラウマティック・ストレス・ディスオーダー、心的外傷後ストレス障害)であると考えていた。それが事実としても、彼女が何故沈黙するのかは説明できなかった。ハナはきっかけを求めて、エスターに、
「心にあることを書いてみたら。」
と筆記用具を渡す。
二通目の手紙が届く。今回は「法医学研究所、ハナ・スコグホルム医師宛」になっていた。ハナが封筒を開けると、一九三八年付けの、ドイツ法務大臣による命令書が入っていた。ドイツ語である。
「ユダヤ人に対して発行されたパスポートは無効である。所持者は二週間以内に返納すること。」
という内容であった。そして、スウェーデン語で、
「これはスウェーデンでもまた有効になる。」
という手書きの書き込みがあった。ハナをそれを上司のストレンベリに見せる。ハナは今回、自分の名前が明らかになっていることに、大きな衝撃と不安を感じる。
「自分がエスターの担当になっていることは、研究所の外では誰も知らないはず。」
エスターは言う。ストレンベリは、直ぐに警察に連絡し、捜査を依頼することをハナに約束する。
エスターは、警察に呼ばれた証人の証言を詳細に読む。殺されたトマスの友人、ステファン・テレスコクの証言によると、彼は、日曜日の朝、トマスを入れて四人で、ランズヴェーグスガタン通りを歩いていた。前夜、トマスのガールフレンドの家でパーティーがあり、その帰りだった。トマスが先頭を歩いていた。ステファンは前方に老女が立っているのを見た。その時銃声が響き、ステファンは地面に伏せた。彼はショックから回復したあと、警察に電話した。
残りのふたりの学生の証言も、ほぼ同じであった。その一人、デルメンは老女の手から拳銃をもぎ取っていた。そのとき、デルメンは老女が何かをつぶやいていたと証言している。それは、デルメンの理解できない言葉だった。老女は彼に、
「撃たれたのは誰だ?」
と尋ねた。もうひとりの学生、ロベルトソンは、道路の反対側に、青いマフラーをした年配の男性が歩いているのを見た。その老人は、何事もなかったように、歩き去ったという。
ハナはまた、警察での、エスターの尋問記録も読む。エスターは自分が誰を殺したのか知らないという。その男とは一度も会ったことがないと。また、自分が話していた言葉はイディッシュ語であるという。しかし、何故拳銃を撃ったのか、その拳銃をどこから手に入れたかに関しては沈黙を貫いていた。警察の調べでは、拳銃は一九四一年にドイツで製造されたものであった。
ハナはエスターと話す。彼女は今日も落ち着いていて、仕事をやり遂げた人間のように見えた。ハナはエスターの腕に傷があるのに気付く。ハナは改めて、エスターが遠い世界で生きている、あるいは別の世界で生きていると感じる。
見知らぬ男の告白。人を殺すこと自体は簡単だ。難しいのは、それに適した時と場所を選ぶことである。今まで黒人を殺したが、自分は捕まっていない。自分はプロだ。暴力はセックスと似ている。まだ「民主主義」と「臆病」は自分にとって同意語だ。黒人は猿だ。自分は狂っているのではなく、正直なだけだ。
秋になり、皆、あのユダヤ女のことは忘れて、クリスマスの準備を始めている。自分はあの女医の後をつけている。彼女は森の中を独りで散歩する習慣がある。そのコースも自分は知っている。彼女を殺すのは簡単だ。それを告げる新聞記事がもう頭に浮かぶ。
ハナはエスターの家を訪れる。エスターは一九四三年、ボートでエスルンド海峡を渡り、デンマークからスウェーデンに来た、エスターは結婚し、この家に住んでいた。ハナは庭を歩くエスターの姿を思い浮かべる。
隣家の庭に人影が見えた。それは年配の女性だった。ハナは隣人、ウラ・アウグストソンと話す。ウラとエスターは二十五年来の知り合いだという。ウラはエスターの家の鍵を持っており、ふたりは中へ入る。広い家だった。ウラは、エスターが、動揺をし、不安な表情をしていたことを思い出す。それは、数年前に、一通の手紙を受け取ったときのことだったという。
「デンマークで、エスターの身に何かがあったことを、エスターは一度だけ口にした。しかし、一度きりで詳しくは話さなかった。」
とウラは述べる。また、エスターは夜に時々バイオリンを弾いていたという。家の中にはエスターの描いた絵が沢山掛けてあった。ウラはハナを、エスターのアトリエに案内する。エスターの絵は、印象派を彷彿とさせる明るい感じのものだったが、一枚だけ、他の絵と違った暗いタッチのものがあった。一九八七年とサインがあり、暗い灰色で、道路と両側の家が描かれていた。片側に三人の男が、反対側に一人の男が立っている。ハナはその絵を見て愕然とする。その絵は、殺人が行われた場所と瓜二つだったからだ。十年以上前に、エスターのその現場を絵に描いていたのであった。
数日後、ウラがハナに電話を架けてくる。エスターの家から見て、反対側の隣人が、一度エスターを乗せて、運転したという。それは、エスターが手紙を受け取った直後のことだった。ハナはその隣人、フリーダ・ファーゲルベリを訪れることにする。
フリーダは、エスターを乗せて走った道筋を覚えていた。エスターは封筒をフリーダに見せ、そこの住所へ行って欲しいと頼んだという。それは一九九六年のことであった。目的地はインセレドソスという場所にある農家で、エスターがそこで誰かと会っている間、フリーダは車の中で待っていたという。エスターが出てきたとき、年配の男性の姿が見えたとフリーダは語る。ハナは、フリーダの書いてくれた道筋を基に、その場所へ行ってみようと決心する。
ハナはフリーダの書いてくれた道筋を通り、車で数時間走り、その農家に到着する。誰も住んでいないよう。庭も、建物を荒れ始めていた。車が停まり、男が降りてくる。隣の農家のベングト・グスタフソンとその男は名乗る。グスタフソンは、その農家に住んでいた、エッバ・ヨハンソンが昨年亡くなったという。ハナはエッバの家に間借り人がいなかったかと尋ねる。グスタフソンは、ダヴィッド・ブルムフェルドという老人が、離れの小屋を借りていたが、突然居なくなったという。グスタフソンは、その男が住んでいた建物に案内する。内部は、男が住んでいた頃のままになっていた。本棚には、ポーランド語とヘブライ語の本が残されていた。ハナは男の部屋に、何かエスターの家と共通点があるように感じる。大家のエッバは困っている老人を助けたと言っていたという。グスタフソンはその男を何度か町まで車に乗せた。男は、図書館で本を読んでいた。いつしか、その男は隣人たちから「教授」と呼ばれるようになった。そして、一九九六年に突然姿を消した。グスタフソンは警察に捜査願いを出したが、警察は何も見つけられなかった。それどころか、「ダヴィッド・ブルムフェルド」という人物は存在しないということが分かったという。ハナは、次にエッバと両親が埋葬された墓を訪れる。そこには、花が供えられていた。まだ新しい。墓にいた女性に聞くと、その花は、数時間前に、青いマフラーをした男性が置いていったということであった。
翌日、ハナは、エスターに、何故ブルムフェルドから手紙を貰い、会いに行ったのかと尋ねるが、彼女は答えない。ハナは、ブルムフェルドの失踪事件の捜査をした警官を見つけ、会いに行くことにする。
その警官、スティグ・グスタフソンは、既に引退し、海辺に建てた家に独りで住んでいた。彼は失踪事件の様子をよく覚えていた。ブルムフェルドの部屋に、デンマークの古いパスポートがあったが、写真がはがされていた。警察がデンマークに問い合わせたところ、そのパスポート番号は既に亡くなった別の人物に対して取られたものだった。ブルムフェルドの名前は、警察や、地方自治体の記録に一切残っていなかった。エッバは彼の捜索に何故か協力的でなかった。郵便配達によると、ブルムフェルドは滞在中に一度だけ、手紙を受け取っといた。それは、プラハから出されたものだったという。
見知らぬ男の告白。ずっと、ハナ・スコグホルムを監視している。夫の様子、子供たちや飼い犬の様子も分かった。ハナは電話番号を変え、それは電話帳に載っていなかった。ハナは最近仕事に出ていない。病欠なのだろうか。ハナを森の中で殺すのはよくない。彼女が礼拝に街に出たとき、そこで殺すことに決めた。オロフ・パルメ事件でも分かるが、人が多い方が人ごみに紛れやすいし、目撃者の証言が食い違って、見つかりにくいのだ。
民主主義は病気だ。弱い人間は死ぬべきだ。人間には価値のある者と、ない者がいる。移民受け入れは国にとっての自殺行為だ。黒人は猿だ。
ハナは引越しするつもりだった。子供たちも転校させるつもりでいた。ハナは、生死の境を潜り抜けてきたものだけが感じる不安を、エスターと共有できると感じていた。彼女は、病欠届を出し、仕事を休んでいた。これら全ては、その日に始まった。
ハナはエスターと話していた。エスターは子供の頃の思い出を好んで話した。
「子供時代は、私にとって唯一残っているもの。」
とエスターは言う。妹たちは不明、父は一九四三年、強制収容所を脱走した際、殺されていた、エスターは祖母が好きで、祖母はいつもユダヤの神についての話をしてくれた。そして、デンマークでは本当の恋をしたことも語る。
「何故、沈黙するのか、その理由だけでも話してくれないか。」
というハナの要求に対して、エスターは、
「全てはその『何故』と関わっている。」
と言って言葉を濁す。彼女は、デンマークで農家に身を潜め、有り金をはたいて、エスルンド海峡を渡り、スウェーデンに来たという。スウェーデンに来てからも、エスターは悪夢に悩み、イェーテボリで、精神科医の治療を受けていたという。
その時、突然窓ガラスが割れ、蜘蛛の巣のようなひびが入る。誰かが銃を窓の外から打ち込んだのだ。弾はちょうどふたりの間を通り抜け、ふたりに怪我はなかった。ハナの上司、ストレンベリは、翌日警察と対策会議を持つことにする。
翌日の会議には、警察側からフランソン警視と数人の刑事、司法研究所側から、ストレンベリとハナが出席した。フランソンは、犯行はおそらくネオナチグループの仕業であり、明日から、警察は司法研究所に、二十四時間の監視を付けるという。
「身の安全の保障が欲しい。」
というハナに対して、警察側はボディーガードを付けるというが、ハナは警察の主張に何か信用できないものを感じていた。
銃弾が撃ち込まれた二日後、ハナはテレビ局のインタビューを受ける。テレビ局のキャスターは、警察や裁判所が、自己制御を失っているのではないかと尋ねる。ハナは、それを否定し、自分の仕事は、精神に異常が認められる者が、裁判を受ける要件を満たしているかを判断することであり、精神異常者が全て危険ではないことを強調する。そして、裁判所は、どのような脅迫にも屈しないと述べる。
ハナは自分の周囲を、常に誰かが取り巻いている、自分を見張っていることを感じる。彼女は、ストランドベリの殺人現場にいた、友人のデルメンに再度出頭を求める。彼は、エスターが銃を発射した後、最初に彼女と話した人物であった。デルメンは、エスターが銃を発射した後、ずっと何かをつぶやいていたと証言する。最初は彼の知らない言葉で、そして次にデンマーク語で、そして最後にエスターはスウェーデン語で、
「死んだのは誰か。」
とデルメンに尋ねたという。エスターの言葉は、神に祈っているようだったとデルメンは言う。そして、そのとき、道路の向こう側を通っていた、灰色のスーツと青いマフラーの男性についても言及する。家に帰ったハナは、夫の読んでいる本を見て驚く。夫はそれをインターネットで買ったという。それは、ブルーメンフェルトの部屋にあったのと同じ本であった。その本のタイトルは「ロディンスキーの部屋」というもので、ロンドンに住んでいて、ある日忽然と姿を消したユダヤ人の男性についてのものであった。その人物は消え、部屋はそのままの状態で残されていた。その部屋の写真を見ると、ハナが農家で見た、ブルーメンフェルトの部屋と酷似していた。夫のヤンは、それを単なる偶然の一致だと言う。
深夜、玄関のベルがなる。ハナが玄関を開けると、そこには木で出来たハーケンクロイツと、火の点いた蝋燭が置かれていた。次の瞬間、大音響がする。ハナの車が、爆発し炎上していた。ハナは警察に連絡する。彼女はやって来た警官に、不満をぶちまける。警察の保護と監視は、全く機能していなかったのだ。少しして、担当のフランソン警視が現れる。彼は、子供たちを別の場所に移すように提案し、ハナもそれに同意をする。そして、ハナと夫のヤンには、常に警察のガードが付くことになる。
翌日、ハナが研究所に居ると、病院の救急病棟から電話が入る。夫のヤンが、大学の建物の前で、何者かに銃で撃たれて重体であるという。ハナは急いで病院へ向かう。幸い、ヤンは命を取り留める。フランソンは、ヤンが、警察と合意した時間の前に、一人で大学の建物を離れようとして、何者かに撃たれたという。ハナは、自分と自分たち家族は、何としてでも生き延びなければいけないと、心に誓う。警察官と一緒に、病院を出たハナをマスコミの記者が取り囲む。彼女は記者たちの質問を無視して、警察の車に乗り込む。
ハナは夜再び、病院を訪れる。手術を終えた夫は、意識を取り戻していた。彼女は病院のロビーでニュースを見る。ニュースでは、脅迫されている人間を守ることにできなかった警察の不手際が取り沙汰されていた。また、スウェーデンの首相も、この事件を「司法制度への挑戦」と考え、強い態度に出ると述べていた。翌朝、全ての新聞がこの事件を取り上げていた。それは、ハナと彼女の家族に同情を示し、彼女を指示する論調であった。ハナはそれを見て、力が湧いてくるのを感じる。
ハナが出勤すると、同僚が一通の手紙を持ってくる。それは、エスターがハナ宛に書いたものであった。ハナは読み始める。
「ハナ。
私の沈黙は、生まれたルブリンの旧市街に始まります。私たち家族は、ユダヤ人ということで、周囲から常に迫害と軽蔑を受けてきました。それ以来、私はずっと不安を抱いて生きてきました。しかし、ルブリンの街自体は好きです。もう二度と見ることはありませんが。私たち家族が住んでいたアパートは古い建物で、あちこちから物音が聞こえてきました。私は、過去の人々の声や、神の声さえ聞くことができたと思っています。コペンハーゲンに移ってからは、イザク伯父と一緒に住んでいました。彼は私の父親のような存在でした。私は毎日バイオリンを弾いて過ごしていました・・・」
ハナはその手紙を読んで、エスターの心の中の世界に一歩踏み込んだ気がした。
<感想など>
最初にも書いたが、各章の冒頭に、季節や自然の描写が出てくる。その描写は、繊細であり詩的でもある。私はこれだけ「自然」を描ける推理作家にお目にかかったことがない。
最近のスウェーデンの犯罪小説には、警官にしても犯罪心理学者にしても、女性を主人公にしたものが多い。それらは大抵、女性の作家によって書かれている。しかし、ヴェステルベリは、主人公として女性の法廷心理学者、ハナ・スコグホルムを選び、彼女に物語を語らせている。そして、不自然さを感じさせない。ヴェステルベリはかなり女性的な繊細な感覚の持ち主だったと想像できる。
物語の焦点は、
l ユダヤ人の老女エスターは何故スウェーデン人の学生を射殺したのか、
l その背景に対して、何故エスターが沈黙するのか
l これまでエスターの周囲に現れた、青いマフラーの男とは誰か、
l エスターを着け狙い、殺そうとする男は誰か
ということになる。最初の三つは、エスターの過去が明らかになるにつれ、分かって来る。第二次世界大戦中のナチスドイツによるポーランド占領。そこに住んでいたユダヤ人の迫害、大量殺戮が歴史的な背景となっている。
四番目の「エスターを着け狙い殺そうとする男」であるが、一応狂信的な反ユダヤ主義の人間で、「ユダヤ人を助けた人物が許せない」というのが動機になっている。しかし、スウェーデンにユダヤ人は何百万人といるわけであるし、彼等を助けた医者、弁護士、裁判官も山ほどいると想像される。何故、ハナを選んだのか、その辺が曖昧で、読んでいて不自然な感じがした。また、この男、「殺す殺す」と繰り返しながら、「機会を待っている」と言って、なかなかハナに手を出そうとしない。夫には、あっさりと発砲してしまうだけに、「何故待つのか」が理解できず、不自然に感じる。もちろん、ハナを殺してしまえば、語り手が消え、事件の解決ができないという、ストーリー上の理由は良く分かるのだが。
「青いショールの男」は誰か、この人物、複数言語自由に操り、あちこちに現れ、忽然と去っていく。ヘブライ語を読むが、ユダヤ人であるかどうかも分からない。オカルト的な、超自然的な人物である。この物語を読まれる方は、最後まで、この男の正体を想像しながら、楽しんで読んでいただきたい。それこそ「あっと驚く」結末が待っているので。
二冊だけドイツ語訳があったので、読むことが出来た。他国人が読んでも面白いと思うのだが。スウェーデン以外では殆ど知られていない人と作品。一九四五年生まれの作者ウェステルベリは寡作な人で、一九八七年からわずか十四冊の本を発表しただけで、二〇一八年に亡くなっていた。
(2019年10月)