ポルノ映画とバレーの共通点
格調高い王立歌劇場の内部。一番前の席でも一万五千円くらい。
「もう人間には戻れない。」
失意のうちにオデットは湖に戻る。ジークフリートも彼女の後を追い湖に来る。ジークフリートはオデットに自分の過ちを詫び、彼女もそれを許す。オデットは、
「もう生きていても楽しみはない。」
と湖に身を投げて死ぬ。そのとき、ロートバルトが現れる。
「おのれ、だましやがったな。」
ジークフリートはロートバルトに戦いを挑み、最後はロートバルトを仕留める。そのとたんに呪縛が解け、「白鳥の娘たち」は人間に戻る。
しかし、このストーリー、「インターネット百科、ウィキペディア」の「バレー、白鳥の湖」の項を印刷し、地下鉄の中で読んでいたからこそ、分かったのである。もし、全く予備知識なしで舞台だけを見て、このストーリーが理解できる人があったとすれば、
「何と想像力の豊かな人なのだろう。」
と尊敬してしまう。
舞踏会の場面、実際にローバルトとオディールが登場するまでに、延々とダンスが繰り返される。つまり、ストーリーはそれほど重要ではなく、ストーリーは踊りを登場させるための「きっかけ」にすぎないのだ。もちろん、大多数の観客はストーリーの展開を楽しみに来ているのではなく、そこにちりばめられた踊りを見に来ているのである。
この点、バレーとポルノ映画と似ていると思う。ポルノ映画にも一応ストーリーはある。しかし、それは「濡れ場」を準備するための「道具」に過ぎない。観客もストーリーなどどうでもよく「濡れ場」の演技と興奮を求めて足を運んでいるわけであるから。
またある意味ではバレーは歌舞伎と似ているとも思う。歌舞伎には演者と観客の間に山ほど「お約束事」があり、その「お約束事」を知っている人にとっては面白いが、知らない人にはちょっと退屈という面がある。まあ、野球のルールを知らない人が野球を見てもつまらないし、ラグビーのルールを知らない人がラグビーを見ていても退屈というのと同じかも知れないが。そう言った意味で、永年バレーをやっているスミレには面白かっただろうが、「ルール」を知らない僕には正直少々退屈だった。
退屈と言っても全く楽しめなかったと言うわけではない。このバレー団の技術的な卓越性は素人にも分かる。とにかくこれほどピッタリ揃った、シンクロナイズされた踊りは見たことがない。数十人のバレリーナが白鳥の踊りを繰り広げるわけだが、感激するほど皆の動きが揃っている。四匹の小さな白鳥のダンスなど、そのピッタリあった四人の足の動きに、思わず拍手をしてしまった。
舞台の床が木なので、ジャンプして着地したときに「トン」と音がするのだが、三十人がジャンプしても、着地の音がひとつなのだ。これまで何度もプロのバレーの舞台を見てきたスミレも、これほど揃っているアンサンブルは見たことがないと感心していた。
これ以上ないという完璧なシンクロナイぜーションだった。