エピローグ
シンガポールが映像で紹介されると、必ずここが登場する。
シンガポールから帰ってすぐ、上の娘のミンがコロナに感染してしまった。症状が結構ひどく、妻はまだシンガポールにいたので、僕は料理を作って、娘のアパートまで毎日届けていた。僕たちが英国に戻ったのが十二月二十九日、ミンが発症したのが大晦日。彼女は戻って以来発症まで、ずっとアパートにいたので、空港か飛行機の中で感染したことはほぼ間違いない。でも、ずっと一緒にいた下の娘のモニと僕は、その時感染しなかった。ミンはほぼ一週間寝ていた。と言っている間に、今度はモニが感染。彼女は三日ほどで元気になった。
英国のコロナ新規感染者は、一時、一日二十万人まで行った。ワクチン接種が進んでいたせいか、オミクロン株の毒性が弱かったせいか、病床には余裕があり、死者もそれほど増えなかったのは、不幸中の幸いだった。
一方、シンガポールもその後、感染者が急増。シンガポール政府は、二度ワクチン接種をした外国人に認めていた、検疫なしの入国ビザを、一月から新たに発給しないことを決定。結局、僕たちは、ラッキーにも、二、三か月のわずかな隙間を利用してシンガポールに行けたことになる。
と言うことで、二〇二二年の元旦、妻はまだシンガポール、娘たちは隔離、僕は独りで迎えた。前章で、パニックから過呼吸になったとき、「パンドラの箱」が開けられてしまったと書いた。英国に戻ってから、その箱から出たものを、まだ箱に戻し、箱にふたをするのに二週間ほどかかった。
一月三日から、また、ホース・サンクチュアリで働き始めた。朝八時頃から十時頃まで、餌遣り、水遣り、厩舎の掃除をする。冬は水道が凍ったりするので、結構大変。今回、シンガポールで、閉所恐怖症からと思われるストレスを経験し、
「どうして僕が、馬牧場で毎日嬉々として働いているんだろう。」
という理由が良く分かった。それは
「誰もいないから。」
六ヘクタールある牧場に、四十頭の馬はいるものの、人間はたいてい僕だけ。その広々とした環境に、僕は癒されていたんだと気づいた。
ワティとゾイは、その後も、エンゾーの写真やビデオを送って来る。驚くのは、別れてからまだ数週間しか経っていないのに、エンゾーの身体、表情、行動が、すっかり変わっていることである。子供は本当に日々成長しているのだ。エンゾーの大学の卒業式に出席するのが、何だか楽しみになってきた。
<了>
シンガポールの絵、三枚目。オールドタウンにあるコロニアル風のカフェ。