クリスティーナ・オルソン
Kristina Ohlsson
(1979年〜)
クリスティアンスタッド出身、作家、国家公務員
ウィキペディア、スウェーデン語版より。
私は二〇一六年の一月に、初めてクリスティーナ・オルソンの作品「Askungar(シンデレラ)」を読んだ。そして、間違いなく、その年読んだ最高のミステリーになると思った。私の予想通り、その年が終わるまで、「シンデレラ」を超える作品には出会わなかった。二〇〇九年に発表された、オルソンの第一作「シンデレラ」は、良く練られたプロット、詳細に描きこまれた登場人物、彼等の微妙な心の襞の描写、どれをとっても一級品であった。本を手にすると、読むのがためらわれるほど厚いが、読み始めると、長さを感じさせない。冒頭は、
「イェーテボリからストックホルムへ向かう特急列車が、ストックホルムのひとつ前の駅で臨時停車する。四歳の女の子を連れて旅をしていた母親が、列車が発車した際、その駅に取り残される。女の子が独りきりでいるという駅からの連絡を受けた車掌は、車室の中で眠っている女の子を確認する。そのとき、別の車両で若い女性ふたりが喧嘩を始め、それを止めるために車掌はその車両に移る。列車はストックホルム中央駅に到着する。数分後、車掌が戻ると、女の子は消え、少女のサンダルだけがが、床に残されていた。」
ストックホルム警察のベテラン警視アレックス・レヒトと、若い女性犯罪心理学者フレドリカ・ベルイマンのコンビが難事件に挑む。
クリスティーナ・オルソンは、一九七九年、クリスティアンスタッド生れ、政治学や都市科学を専攻したあと、ストックホルムでのいくつかの省庁で国家公務員として働いた後、最近は欧州安全保障協力機構(OSZE)に勤務しているという。つまり「堅い職業」の人である。(1)犯罪小説の他に、若い人向けの小説も書いている。
「シンデレラ」は、五百ページ近い大作である。何故こんなに長くなるかというと、その答えはひとつ。登場人物の過去、背景、心理が、実に詳細に描かれているからである。
例えばフレドリカ・ベルイマン。
「音楽家である母親の影響でバイオリニストを目指した子供時代。自動車事故で腕を負傷し、その夢を絶たれ、大学で犯罪心理学を専攻することになる。二十一歳のとき、二十一歳年長の妻のある大学教授スペンサーと知り合い、その後十年間。彼との関係を続ける。最近、養子を取ることを考えている・・・」
それらが、実に細かく書かれている。その詳細な記述が、フレドリカだけではなく、アレックス、ペダー、エレン等の同僚、その他の登場人物についても繰り返されるのだ。それなりに、その人物の人となりが良く分かって、その分、登場人物が現実味を増し、彼等に親近感が湧き、その行動の必然性がよく理解できるのは大変良いことなのだが・・・欠点は、本が厚くなること。
アレックス・レヒトは「一流の捜査官で、ストックホルム警察の花形」と自他共に認めているという設定で登場し、今回も捜査班を率いる。しかし、少なくとも前半の展開からすると、どうして彼がこれまで成功を収めてきたのかという疑問が残る。
「腹の中に湧き上がる感情、つまり『直感』こそが捜査官にとって一番大事である。」
いうのが、彼の信条だが、それは逆に言うと「先入観」なのである。彼は、
「少女の父親こそが犯人である。」
という先入観に囚われて捜査を進める。そして誤った方向に走ってしまう。
「このような人物が、どうしてこれまで成功を収めてこられたのだろうか。」
と考え、設定に引っ掛かりを感じるのは、私だけだろうか。
面白かったのは、一見偶然のように見える連続した出来事と、その偶然を利用して行われたように見える犯罪が、実は周到な計画に基づいたものであったことが、だんだんと分かって来る、という展開である。何が偶然で何が計画された物なのか、誰がその協力者であり、どのような役割を演じているのか、ということを推理するのは楽しかった。そう意味では、今時珍しい「読者参加型」の推理小説なのだ。大都会では、人々が他人に構わないで、いやそれ以上に、他人を無視して生活している。列車の車室から、少女が誰かに連れ去られても、目撃者がいない。そんな「都会の死角」というものを、犯人が巧みに突いており、作者がそれを巧みに取り入れているのも興味深い。
登場人物は、それぞれ「悩みを抱えた人物」ばかりである。アレックス、ペダー、フレドリカ、エレンという捜査チームのメンバーの、プライベートの生活が、赤裸々に描かれる。ペダーはうつ病の妻との関係に悩み、同僚の女性警察官と関係を持ってしまう。フレドリカは、妻子ある大学教授との関係を清算したいと思っているが、踏み切れない。この辺り、「悩める人物」がそれぞれの重荷を背負いながら事件と取り組むという、スウェーデン警察小説の伝統を受け継いでいる。それ故に、この小説を長い物にしているのだが。しかし、登場人物が、ステレオタイプでなく、「生きた人間」として活動する様は素晴らしい。
ペダーに代表される現場叩き上げのスタッフと、フレドリカに代表される大学出のスタッフの間の対立が描かれる。アレックスも、最初はペダー寄りで、フレドリカの能力を評価していなかった。しかし、彼女の才能に、後で驚くことになる。その対立が、両者の「心の襞」として描かれるのがよい。フレドリカと話した後、ペダーが彼女を犯すことを考えたり、また、フレドリカが独りでアサインされるときは、アレックスがいつも何か特別な理由、言い訳がましいことを述べたり・・・そのキメ細かい描写には脱帽する。
「シンデレラ」というタイトの由来。犯人の協力者であるふたりの若い女性、精神的にも、経済的にもひどい生活をしていたノラとイェレナが、若いハンサムな男性に出会い、彼と関係を持ち、王子に見出だされたシンデレラのように感じた、という記述がある。まずそこから来ているのは明確である。最後にもう一回、「シンデレラ」が言及される個所があるのだが、それを書くと、犯人が分かってしまうので、ここでは控えておく。
夏のスウェーデンを舞台にしている。雨ばかり、なかなか日光浴の出来る天気にならなくて、皆フラストレーションが溜まっている時期という設定。北欧の夏が舞台になると、極端に暑いか、それとも、極端に天気が悪いという設定が多い。かなり長い小説だが、その必然も理解でき、それに耐えれば、非常に楽しめる作品であると思う。
「Tusenskönor(ひなぎく)」、衝撃的なレビュー作の後の第二作。前作がスウェーデン犯罪小説界の歴史に残るものだっただけに、それ以上のものを書こうという、作者の意欲がうかがえる。今回も、五百ページに迫る大作。読者の方にも、それなりの覚悟と忍耐が必要である。
プロローグ、夏至の日の牧草地で、ひなぎくを摘んでいる少女が、「スウェーデン語を解さない男」に強姦される。この少女が誰なのかが分かるのは、残り百ページを切ってからである。この事件が、その後の全ての出来事の出発点となっている。
タイのバンコクで、次々と災難に出会う若い女性が登場する。「彼女」としか書かれていない。「彼女」が、殺されたアールビン夫妻の娘であることは容易に想像が付くが、それが姉のカロリーナなのか、妹のヨハナなのかは、最後まで分からない。と言うことは、このことも事件の背景そのものなのである。
捜査班の全員が、相変わらず、私生活に問題を抱えている。急に不自然な態度を取るようになった妻に対して疑心暗鬼を募らせるが、面と向かって尋ねる勇気のないアレックス。年長の愛人、スペンサーの子供を産むことにし、妊娠中だが、その決心を後悔しはじめているフレドリカ。妻と別れ。独り暮らしを始めた寂しさを紛らわせるために。同僚の女性に発した冗談がセクハラと認定され、再教育のためのセミナーを受ける羽目になったペダー。事件の展開と共に、彼らの私生活の問題の展開からも目が離せない。
殺されたアールビンは、教会の説教師である。彼は、うつ病を患っており、カウンセリングのみならず、電気ショック治療まで受けたことになっている。しかし、彼の行いには、全然うつ病の気配がなく、難民擁護を唱え、極右やネオナチの嫌がらせと堂々と戦っている。元気すぎるのだ。
「うつ病の人間にこんな積極的な行動が取れるの?」
と、読んでいて感じがし、かなり不自然な印象を受けた。
アールビン一家が舞台となるが、殺された老夫妻はもちろん証言できない、ふたりの娘のうちひとりは死亡、もうひとりは行方不明。そんな状態で、周囲の人々が、アールビン家のメンバーに対して自分の意見を述べる。それが、まったく異なった見解なのである。例えば、姉のカロリーナが重度の麻薬中毒であったという人物もいれば、彼女が麻薬を用いることは有り得ないと語る人物もいる。ヨハナを理想的な女性だという人物もいれば、精神異常であるという人物もいる。夫のヤコブに対する評価も然り。捜査班のみならず、読者もそのギャップに右往左往させられる。また、警察に尋問された人々が、最初からあっさりと全てを話さない。最初は最小限の証言をし、状況証拠が整い追い込まれると、やっと少しずつ口を割っていくという設定。これが余りにも繰り返されるので、
「初めからちゃんと話せよ。」
と言いたくなる。しかし、これが、現実の捜査なのかもしれない。
よく考えた筋立て。また、難民という二十一世紀の最初の十年の、ヨーロッパでの最大の問題も取り込んである。作者の意欲は分かるのだが、その社会性が前面に出過ぎて、読者がその「メッセージ」を感じ過ぎて、読んでいてかなり疲れる本であった。
オルソンは、間口の広い人である。犯罪小説の他に、子供向けの本も書いている。そのひとつが、二〇一三年に発表された「Glasbarnen(ガラスの子供た)」である。(4)
主人公はビリーという十二歳の少女。彼女が、友人のアラディンとシモーナの強力を得て、自分が新しく住むようになった家に起こる、奇妙な現象の謎を解いていく。おそらく、主人公と同じくらいの読者層を想定して書かれたものであろう。平易な文章で、読み易い。こんな本ならあっと言う間に読める。と言うことは、私のドイツ語の読解力は、十二歳程度ということになる。
推理作家が、少年少女向きの小説を書くことは結構多い。ヘニング・マンケルは、アフリカのモザンビークに住む十一歳の少女を主人公にした小説を書いている。英国人のミステリー作家、マグダレン・ナブも「黄昏時の幽霊」という若い人向けの小説の中に、少女とその家にまつわる奇妙な現象を描いている。
オルソンの書く犯罪小説の特徴が、児童向けの本にも現れているかと言うと、否である。はっきり行って、オルソンの犯罪小説と少年少女向きの本を読んで、それらが同じ作者によるものであると言い当てられる人は少ないと思う。それほど、ふたつはきれいに書き分けられている。
天井から下がっている電灯が風もないのに揺れる、夜中に二階の窓を叩く音が聞こえる、埃の積もった机の上に小さな手形が残されている、自分の本を本棚に入れたら翌日それだけが出されている、テーブルの上に漫画の本が開かれ「出て行け」と書かれている・・・そんな怪奇現象をビリーは、父が亡くなった後、母親と新しく住み始めた家で経験する。街の人々は、その家を「呪われた家」だと噂している。母親に言っても信じないし、取り合ってくれない。
ビリーは友人のトルコ人の少年アラディンと、クラスメートのシモーナと一緒に、調査を開始する。基本的にアラディンは「幽霊なんてこの世に存在しない」と割り切った考え方をする男の子であり、「調査」はアラディンの考えた、かなり「合理的」な方法で行われる。彼らが次々と考えだすアイデアが面白い。
読んでいて不自然に思ったのは、他のことにはビリーに理解のある母親が、家に関してはビリーの言うことを全然聞こうとしない点だ。しかし、この小説では母親は「ビリーの言うことを信じない大人」を演じるために存在しているのであり、その設定や行動が多少不自然でも、多少ステレオタイプでも、仕方がないことなのである。少年少女向きの小説では「白黒をはっきりさせる」必要があると思われるからだ。
オルソンの犯罪小説を読んでいると、登場人物の「心の襞」、「揺れ動く心」が実に詳細に書かれている。まさにその部分を私は気に入っているのだが。この作品で、作者の別の面を見ることができた。しかし、書き分けられるということは、それだけの才能持っているということだろう。最後の余韻を残した終わり方もよかった。
作品リスト:
「フレドリカ・ベルイマン」シリーズ
l Askungar(シンデレラ) 2009年(邦題:シンデレラたちの罪、創元推理文庫、2015年)
l Tusenskönor (ひなぎく)2010年
l Änglavakter (天使の護衛)2011年
l Paradisoffer (楽園の被害者)2012年
l Davidsstjärnor (ダヴィデの星)2013年
l Syndafloder (罪の川)2017年
「マルティン・ベナー」シリーズ
l Lotus Blues (ロータスブルース)2014年
l Mios Blues (ミオスブルース)2015年
l Henrys hemlighet (ヘンリーの秘密)2019年
「ガラスの子供たち」シリーズ、児童書
l Glasbarnen (ガラスの子供たち)2013年
l Silverpojken (銀の少年)2014年
l Stenänglar(石の天使)2015年
「ゾンビフィーバー」シリーズ、児童書
l Zombiefeber (ゾンビフィーバー) 2016年
l Varulvens hemlighet (狼男の秘密) 2017年
l Mumiens gåta (ミイラの謎)2018年
その他、スタンドアロンの本
l Den bekymrade byråkraten : en bok om migration och människor (問題を抱えた官僚たち/移住と移民に関する本)2014年
l Mysteriet på Hester Hill (ヘスターヒルの謎)2015年 児童書
l Sjuka själar(病気の魂)2016年
l Det magiska hjärtat (魔法の心)2016年 児童書
l Mysteriet på Örnklippan (イーグルクリフの謎)2017年
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(1) ウィキペディア、スウェーデン語版、Kristina Ohlsonの項より。
(2) Aschenputtel,,Blanvalet Verlag, München, 2011,
(3) Tausendschön, Blanvalet Verlag, München, 2013,
(4) Glaskinder,cbt Verlag, München, 2014