彼等は社会を変えられたか
先にも書いたが、シューヴァルは、「マルティン・ベック」シリーズを書き始めた動機について、
「このシリーズを通じて、私たちは、一九六〇年代のスウェーデンの社会問題を掘り起こそうとしたんです。ヴァールーはマルクス主義者でした。このシリーズはマルクス主義者の目から見た、当時の社会への問題提起だったんです。」
と述べている。そして、シリーズは一千万部を超える世界的ベストセラーとなった。シューヴァルとヴァールーの訴えは読者に届き、読者は彼等が提起した現在社会の矛盾に気付いたのだろうか。私の答えは否定的である。
「彼らの本は、社会的な問題提起として読むには、余りにも面白過ぎた!」
私も含めて、多くの読者はストーリーに夢中になってしまい、その背後に隠されたメッセージに気付かないままに終わってしまった。英国の批評家、バリー・フォーショーも同じ意見である。
「主人公の警察官マルティン・ベックは、作者の思想を人間化したものであり、彼らの小説は、それを通じて、左翼的な観点からスウェーデン社会を、引いては西欧社会を批判しようという意図で書かれていた。しかし、彼らの作品は、そのマルクス主義的な思想を、直接的に読者に感じさせるようなものではなかった。また、彼らの作品はそのような政治的な意図を意識なくても、十二分に楽しめるものであった。」(1)
この「政治的な意識がなくても十二分に楽しめる」というのが、このシリーズをベストセラーに押し上げたが、同時に、作者の意図を伝えられない原因となってしまったのだ。シューヴァル自身、夫と一緒に志した「プロジェクト」は失敗に終わったと認めている。
では、彼等が問題提起しようとしたスウェーデン社会、ひいては資本主義社会における事項はどのようなものだったのか。
1. 富の分配の不公平による貧富の差、
2. 政治家や官僚の腐敗
3. 法治社会の不条理
である。
最初の「富の分配の不公平による貧富の差」については、シューヴァル自身が、
「私たちは、スウェーデンが資本主義的な、冷たい、非人間的な方向に向かっていることを、そこでは富める者は益々富み、貧しい者は益々貧しくなることを訴えたかった。」
と述べている。
それを象徴するようなシーンがある。第三作の「バルコニーの男」で、出張に向かうベックは、ストックホルム中央駅でひとりの少女に出会う。彼女はベックに、
「おじさん、写真、買わない?」
と尋ねられる。その写真とは、駅の構内にあるパスポート写真の自動撮影機で、スカートをたくし上げた自分の下半身を写したものであった。ベックは、そのような少女がストックホルムに現れることにショックを受ける。このようなエピソードは、後年の作品でどんどんと増えていき、スウェーデン社会での貧富の差、貧困が描かれる。
また、腐敗した、政治家、警察官も度々登場する。この小説を読んで何よりも驚くのは、一九七〇年代に、既にスウェーデンで、近代社会の「末期症状」の始りが描かれていることである。マンケルの小説で、九十年代に、ヴァランダーはしばしば、
「時代は変った、昔とは違う。」
と言う。しかし、その二十年前に、既に同じことが言われていたのである。第四作、「警官殺し」で、警察官を殺した疑いで指名手配になり、逃亡する青年に、当時の若者の感じる社会に対する閉塞感を語らせている。
ベックとコルベリは、せっかく逮捕した容疑者が証拠不十分で無罪なることに、諦めに近い感覚を持っている。ベングトソンが犯人か否かで、ベックと同僚のコルベリ、ネイドが話し合うシーンでこんな会話がある。
「あんたも俺も、判決を下した裁判官を含む他の何人もが、奴が犯人であることを確信していた。でも、我々には叩いても蹴っても崩れない証拠と言うものがなかった。これが一番大きな問題だろうね。」
「証拠はいくつかあったんじゃないの。何より、殺された女性のサングラスが奴の家で見つかったんだろう。」
「有能な弁護士なら、そんな証拠なんか、一息で吹き飛ばしてしまうさ。そして、まともな裁判官ならそんな訴えを棄却するだろうね。ここは『法治国家』なんだから・・・」
コルベリは黙った。
「トリニダート・トバコは多分その法治国家なんだろうな。」
とネイドが口を挟んだ。
「その通り。」
コルベリが疲れた口調で答えた。
このように、「法治国家」という言葉が、当時既に使い古されていて、スウェーデンではもう誰も使おうとしない言葉になっていたのだ。もし誰かが真剣な意味でその言葉を使ったら、周囲の笑い者になるような。一九七〇年代に、既に「法治国家」という言葉が逆説的に使われ始めていたのは驚きである。
第一作の「ロゼアンナ」では、米国人の女性、ロゼアンナの女性としての(少なくとも当時のスウェーデンでは)奔放な性格が、結果的に、彼女の運命を変えてしまうことになってしまう。しかし、今では当たり前に感じる彼女の性格や行動が、当時はそれが珍しかったのである。そこに四十年の間の、世相と人々の考え方の変化を感じる。シューヴァルは、その点について述べている。
「アガサ・クリスティーを読み慣れたご婦人たちから、私たちの小説が『リアル』すぎると言われたと、出版社から連絡を受けました。(第一作の)『ロゼアンナ』で裸の女性を描いたのですが、そんなことは不謹慎だ、探偵の私生活とミステリーを混ぜないでほしい、というのが、そのご婦人方の希望でした。」
やはり、アガサ・クリスティーが、当時、犯罪小説の理想と考えられていたのだった。そして、シューヴァル/ヴァールーがその理想を打ち破ったという事実が分かるエピソードである。
時代を先取りしたのは、女性の性格、行動だけではない。第十作の「テロリスト」では、ULAGと言う名前の国際テロ組織が登場する。当時既に、北アイルランド、バスク地方、印パ国境など、局地的な問題をテロに訴える組織あった。しかし、ULAGは、国際的にテロをするために生まれた組織という設定である。その意味では、「アルカイダ」に非常に似ている。作者は、三十年前に、「アルカイダ」のような組織を予言していたのだ。そして、マルティン・ベックとグンヴァルド・ラルソンが考案した「見えない敵」に対する奇想天外な対策、それが物語の最大の見所である。
シューヴァル/ヴァールーは、BBCの「スカンジナビア推理小説の物語/Nordic Noir, The Story of Scandinavian Crime Fiction」(2)でも取り上げられている。当然だと思うが。そして、その番組のコメンテーターとして登場したノルウェーの作家、カリン・フォッスム(Karin Fossum)と、英国の批評家バリー・フォーショー(Barry Forshow)は、
「主人公のマルティン・ベックはそれ以降の探偵のプロトタイプとなった。」
「マイ・シューヴァル/ぺール・ヴァールーの成功がなければ、現在の推理小説の世界は今のようにならなかっただろう。」
と述べている。また英国のジャーナリスト、スティーブン・ピーコックはその著書「スウェーデンの犯罪小説」の中で、(3)
「誰もが、スウェーデン推理小説の創始者と認めるのが、シューヴァル/ヴァールーの夫婦作家である。」
と述べている。更に、ピーコックは続ける。
「彼等は一九六〇年代から七〇年代にかけて、十作の『マルティン・ベック』シリーズを発表したが、このシリーズは全て映像化されている。この点、このシリーズが現代警察小説の原点という価値だけでなく、外国でも映像化された最初のスウェーデンの作品としての価値を持っている。」
その通り。彼らの作品は、映画化され各国で放映された、最初のスウェーデンのミステリーだったのである。
シューヴァル/ヴァールーの功績を、語り尽くすことは出来ない。
作品リスト:
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Roseanna(ロゼアンナ)1965年(邦題:ロゼアンナ、角川文庫、2014年)
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Mannen som gick upp i rök(蒸発した男)1966年(邦題:煙に消えた男、角川文庫、2016年)
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Mannen på balkongen(バルコニーの男)1967年
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Den skrattande
polisen(笑う警官)1968年(邦題:笑う警官、角川文庫、2014年)、
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Brandbilen som försvann(消えた消防車)1969年(邦題:消えた消防車、角川文庫、1973年)
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Polis, polis, potatismos!(警察、警察、つぶしたジャガイモ)1970年
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Den vedervärdige
mannen från Säffle(セフレから来た唾棄すべき男)1971年
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Det slutna rummet(閉ざされた部屋)1972年(邦題:密室、角川文庫、1983年)
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Polismördaren(警官殺し)1974年(邦題:警官殺し、角川文庫、1983年)
l Terroristerna(テロリスト)1975年
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(1)Death in a Cold Climate, A Guide to
Scandinavian Crime Fiction, Palgrave Macmillan, New York, 2012
(2)Nordic Noir, The Story of Scandinavian
Crime Fiction, BBC Four, 21:00-22:00, 21 August 2011
(3)Swedish Criminal Fiction, Novel, Film,
Television, Steven Peacock, Manchester University Press, 2014